恵みによって生まれ変わる救いの道 – 張ダビデ牧師

張ダビデ牧師は、ガラテヤ書とローマ書をあわせて考察しながら、キリスト教信仰の核心である「救いの教理(救済論)」と「神の約束」がどのようにつながっているかを体系的に教えている。救済論は、人間が死を迎えた後、いかにして神の裁きを免れ、永遠のいのちを得るのかという絶対的な課題と直結するため、キリスト教神学の中心に位置づけられる。張ダビデ牧師は、ガラテヤ書3章におけるパウロの論旨を分析する際、ローマ書の構造と並行して見ると、その論の流れがいっそう明確になると述べる。ローマ書は全16章で構成されており、大きく前半(1~8章)と後半(9~16章)に分けることができる。さらに1~8章を3つの部分に区分すると、1~4章が「義認(justification)」、5~7章が「聖化(sanctification)」、そして8章が「栄化(glorification)」という内容で構成されている。ガラテヤ書もまた、冒頭で罪人がどのように義とされるかという「義認」の問題を扱い、続いて聖化の道、そして究極的完成の道について語るという構造的類似性を持つ。

とりわけ張ダビデ牧師は、ガラテヤ書もローマ書と同様に「義認―聖化―栄化」という段階的流れを持っていると説明する。ローマ書4章までが「罪人である人間がいかにして義とされる(称義)に至るか」を「信仰によって」と力説しているならば、ガラテヤ書の冒頭部分も同じ論理を示しているというのである。すなわち、人間がどのように罪から自由を得て義とされるかに対する答えは、「キリストの恵みによる」という主張だ。ガラテヤ書の中でパウロは、キリストが律法の要求をすべて満たし、罪の代価を十字架で支払うことによって私たちを救ってくださった、と宣言している。

結局、張ダビデ牧師は、私たちがただ信仰、すなわち恵みによってのみ義とされるのだと強調する。そしてこの強調の文脈において、プロテスタントが掲げてきた「ただ信仰によって、ただ恵みによって、ただ聖書によって」という宗教改革のスローガンが改めて言及される。カトリック教会が教会の典礼や伝統などを救いの条件に提示したのに対し、プロテスタントは「ただ信仰によって」救いを受けるという真理を固く握ったというのである。もしここに「律法を守らなければ救いに至れない」というような主張が混在すると、十字架の功績が曖昧になり、人間の行いが際立ってしまい、救いの本質が損なわれやすいというのが張ダビデ牧師の説明である。

張ダビデ牧師は、ガラテヤ書3章を本格的に解説する前に、まず人間の救いの過程における3つの神学的核心概念を押さえる。それは、1) キリスト論(Christology)、2) 救済論(Soteriology)、3) 終末論(Eschatology)である。このうち救済論が「人間が死んだ後、いかにして裁きを免れ、永遠のいのちを得るか」という問題を扱うため、核心中の核心であることを強調する。ヘブル9章27節の「人間には一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」という御言葉を通して、すべての人に死後の避けられない裁きがあることを確認するのだ。人間がエデンの園から追放されて以来失った「約束の地(天の故郷)」を取り戻す道こそが救いの道であり、そのための方法は律法的行いではなく、ただキリストの恵みを信じ、より頼む「信仰」だけであると、張ダビデ牧師は力説する。

ガラテヤ書3章が律法と約束の問題を扱う際、パウロはまず「アブラハムがどのようにして義とされたのか」を例に挙げて主張を展開する。律法はモーセを通して出エジプト後にシナイ山で与えられたが、アブラハムはそれより430年も前に神の約束を受けた。さらに割礼も創世記17章に登場するが、アブラハムに初めて与えられた約束(創世記15章)は割礼よりも先であることを指摘する。したがって張ダビデ牧師は、パウロの論旨に着目しながら、本当に義とされる道は「律法以前に存在した神の恵みの約束」を信じることであり、後代に設けられた律法や割礼といった制度ではないという点を重ねて説明する。これは救いが行いによるのではなく、ただ神の約束を「信仰によって受け入れる」ことから始まるという核心的な思想を明確に示している。

ガラテヤ書3章15~29節を見ると、パウロは「まず約束があって、それから律法があった」と宣言する。神がアブラハムに直接契約を結び、その約束を成就するために「切り裂いた動物の肉片の間を通る」という古代近東の血の契約方式を用いられた(創世記15章)。これは神が変わることのない誓いをされたことに他ならない。ヘブル6章13~19節もまた、神がアブラハムにご自身で誓われて約束を下さった事実を強調している。張ダビデ牧師はこの箇所を解釈しながら、信仰とは単なる精神的同意ではなく “believe in” の意味、すなわち未来的な約束の中に自分自身が既に入っている状態を指すのだと語る。ヘブル11章1節の「信仰は望んでいる事柄を保証し、まだ見ぬ事実を確証するもの」という御言葉がこれを裏付ける。アブラハムが自分には子どもを得る望みなど全くない状況でも、神の言葉、神の真実な約束を信頼し、「未来を今日に取り込み」生き抜いたゆえに、神はその信仰を「義」と見なされたのだ(創世記15章6節)。

このように張ダビデ牧師は、ガラテヤ書の中心テーマである「律法ではなく約束、行いではなく恵み、その恵みを信仰によって受けることこそ救いの道」という点を明確に示している。アブラハムもそうであったし、モーセと律法が存在する以前から、神はすでに全人類に拡大される救いの約束を用意しておられた。その約束は後にイエス・キリストを通して成就し、ユダヤ人と異邦人の区別なくすべての人が神の子どもとなる道が開かれたのだとパウロは宣言する。張ダビデ牧師は、このパウロの宣言をガラテヤ書3章28~29節で確認できると述べる。「もしあなたがたがキリストのものなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人です」というこの宣言は、仕切りの壁を打ち壊し、ユダヤ人とギリシア人を一つに束ねる福音の力動性を象徴していると解釈する。

さらに救いは個人的次元を超えて、すべての被造物が回復される宇宙的次元まで含むという点も強調される。ローマ書8章が語るように、被造物は神の子たちが栄光に至るその日を待ち望んでいる(ローマ8章19節)。個人が罪から自由になり、義とされる焦点が1~7章にあるとすれば、ローマ書8章は救いが個人を超えて被造物全体をも含み、ともに喜びながら贖いにあずかる「宇宙的救い」であることを示す。ガラテヤ書も最後の6章で御霊(聖霊)の役割を強調して結ばれており、これがローマ書8章と酷似しているというのだ。最終的には聖霊によって罪を抑制し(律法が指摘する罪を自覚し)、義なる者としての新しい生を生き、最終的に全被造物が神を賛美するその日にともに参加することが救いの完成である。

張ダビデ牧師は、このように救済論の二つの中心軸(個人的救いと宇宙的救い)を対比的に考察しつつ、個人の悔い改めと信仰を強調するのはもちろん、被造世界全体が新しい創造へと入る福音のスケールを見失わないようにと勧める。律法が単に罪を抑制し、罪を罪として認識させる機能を果たすに過ぎないとすれば、福音は罪を取り除き、罪人を義と認め、罪と死で苦しんでいたすべての被造物を含め、新しい天と新しい地を仰がせる。ゆえに、救いを行いによって説明しようとする試みは、本質的に福音のスケールを縮小し、イエス・キリストが血を流された十字架を隠してしまう不幸をもたらすと述べるのである。パウロがガラテヤの諸教会で激しく「もし割礼を受けなければ救われないと主張するならば、キリストの十字架は虚しいものになる」と宣言した背景には、まさにこれがある。

結論として、小主題1は「救済論の本質と約束の重要性」と要約できる。張ダビデ牧師は、ガラテヤ書とローマ書をあわせて黙想しつつ、人間が罪からいかにして自由とされ、神の御前に義と認められ、さらに聖霊による真の聖化と究極的な栄化に至りうるか、そしてそれが単なる個人的救いにとどまらず全宇宙の回復にまで及ぶということを明確に示す。そのすべての過程の出発点は「神の約束」を拠り所とし、信仰によってキリストの恵みを受け入れることにある。これはアブラハムの例を通して既に確証されている事実でもある。

張ダビデ牧師は、ガラテヤ書3章でパウロが「約束が先にあり、律法は後にできた」という事実を歴史的証拠をもって説得力をもって提示している点を強調する。パウロが例に挙げた人物はアブラハムだが、アブラハムに与えられた神の約束は創世記12章(召し出し)と15章(契約締結)で確認できる。そして創世記17章に登場する割礼や、出エジプト後のシナイ山で与えられた律法は、アブラハムとの契約のはるか後のことである。パウロはこれを指して「約束は律法より430年先立っていた」とまとめる(ガラテヤ3章17節)。

この事実はすなわち「アブラハムが義とされた理由」が、律法や割礼をよく守ったからではないことを意味している。張ダビデ牧師は、創世記15章6節「アブラムは主を信じた。それが彼の義と認められた」という御言葉にとりわけ注目する。ここで初めて「信仰」と「義」が同時に言及されるが、アブラハムは子どもがおらず失望していた状況下でも、「あなたの身から生まれる者があなたの跡を継ぐ」という神の約束を疑わずに受け入れた。信仰とは「理解できる現在の証拠」ではなく、「見えない未来の実体」をつかむ姿勢であり、神が提示された契約の中に自分を完全に委ねることである。

ところが、ガラテヤ地方の教会に入り込んだ偽教師たち、いわゆるユダヤ主義的キリスト者は、「異邦人も真の救いを受けるには律法を守り、割礼も受けなければならない」と主張していた。ガラテヤ書全体の文脈は、パウロがこの主張を反駁することに多くを費やしている。張ダビデ牧師はこれを指して「救いの方法論」に関する極めて本質的な論争だと解説する。救いは「ただ信仰による」というパウロの教えと、「少しでも人間の行い(律法遵守)が加わるべきだ」という主張との衝突だったのである。

パウロは、ガラテヤ書3章16節で「約束は『子孫たち(複数)』と言わず、『子孫(単数)』と言った。その方こそキリストである」と明確に言及する。これはアブラハムとの契約が、単に血統上の子孫一人を指すのではなく、究極的には来るべきメシアであるイエス・キリストによって諸国民が祝福されるという意味であることを示している。したがって約束は特定の民族だけに限定されるものではなく、イエス・キリストを信じるすべての異邦人もまたアブラハムの子孫となり得る、という結論に至る(ガラテヤ3章29節)。張ダビデ牧師は、このパウロの主張を「二つの大河が合流する事件」にたとえる。ユダヤ人と異邦人を隔てていた壁を打ち砕く福音の力が、ここに秘められているからだ。

では、律法はなぜ与えられたのか。ガラテヤ書3章19節でパウロは「違反が増すために付け加えられた」と述べる。律法は罪を抑止し、罪が罪であると気づかせる役割を担う(ローマ3章20節)。張ダビデ牧師は、律法の機能を「私たちを学校まで導く家庭教師(パイダゴーゴス)」にたとえたガラテヤ書3章24~25節の言葉に言及する。律法が指摘するのは罪であり、その罪を悟ることで、最終的に人間は恵みを求め、イエス・キリストにすがるように導かれる。律法自体が誤りなのではなく、律法には限界があり、それ自体に永遠のいのちを与える決定的な力はないという点に注目すべきなのだ。

張ダビデ牧師は、律法の時代と約束(福音)の時代の関係を説明しつつ、「パウロが律法を無意味だと言っているわけでは決してない。ただ、律法には私たちを義とする能力がなく、私たちの罪を浮き彫りにし、罪責感を刻みつけ、最終的にキリストを求めるように導く道具としての役割がある」とまとめる。実際、パウロ自身がローマ書7章で「自分がどれほどの罪人であるかをいっそう深く知ることになったのは、律法によってである」と告白しているのを見ても、律法が罪を罪として明確に示す「告発者」の役割を果たすことは明らかだ。

しかし救いは結局「約束」に始まり、「信仰」によって成就する。ガラテヤ書3章22節が語るように、すべての人は律法の下で罪人であることが明らかにされるが、イエス・キリストを信じることによって与えられる義を自分のものとすることができるのだ。家庭教師(律法)の役割が終わり、信仰が到来するとき、私たちは子どもの身分に入る。奴隷の身分を脱し、「神の子ども」となる権威が与えられる(ガラテヤ3章26節)。まさにこの点で、律法よりはるかに重要で根本的なのが「神の約束」であると、張ダビデ牧師は強調する。

また張ダビデ牧師は「律法によって救いを得る」という見解がなぜ危険なのかを語り、それが「十字架の恵みを隠し、ぼやけさせてしまう」ことにつながると説明する。割礼を強調し、旧約の規定を破った者には救いがないと言い始めれば、結局そのすべての焦点が「イエスの功績」ではなく、「人間の実行力」に移りやすい。これは宗教改革当時、カトリック教会の伝統と典礼を通じた救済観を批判し、プロテスタントが「ただ信仰、ただ恵み、ただ聖書」と叫んだ歴史的文脈と正確に重なる。イエスが私たちの罪を背負い、十字架にかかり、血を流された出来事こそが救いの唯一にして十分な根拠であることを見失うならば、人は結局救いの確信を得られず、自らを絶えず縛りつける律法的「行為宗教」に陥ってしまうというのだ。

結局、小主題2では「律法と約束の関係、そしてなぜ約束(信仰)が救いの唯一の道なのか」が核心となる。パウロはガラテヤ書3章の論理展開を通じ、1) 律法が430年後に与えられたという歴史的事実、2) アブラハムが信仰によって義と認められた手本、3) 律法ができることとできないこと、4) イエス・キリストが約束の「子孫(単数)」であるという真理を説いている。これを現代の教会に適用すれば、礼拝・伝統・規定などは救いのために必ず備えなければならない必須条件というより、救いを得た民が感謝と従順をもって守る秩序であり、真の救いは「神の契約と、その契約を信仰によって受け入れること」にかかっていると言えるだろう。

張ダビデ牧師は、ガラテヤ書3章において義とされた信徒が、どのように実生活で聖なる歩みを成し遂げるか、すなわち「聖化の過程」をローマ書6~7章、そして8章と結びつけて説明する。義と認められたというのは、身分の変化(称義、change of status)であり、続く聖化(sanctification)は状態の変化(change of state)だというのである。救われた信徒は、罪の赦しを受けただけではなく、キリストの御霊を受けて新しい衣を着るべきである。ガラテヤ書3章27節の「キリストと結ばれてバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのです」という御言葉が、それを象徴的に示している。パウロが「衣を着る」という表現を好んで使う理由は、私たちの「行い」がまるで衣のように外側に表れるからである(黙示録19章8節「この亜麻布は聖徒たちの正しい行いである」)。

しかし人間の本性は依然として罪性を帯びており、「以前の習慣」に戻ろうとする傾向が強い。律法的アプローチでは、この罪性を根本的に変えることはできない。なぜなら、律法は罪を悟らせるだけであって、罪をなくしたり、罪の根を取り除いたりすることはできないからである。したがってパウロはガラテヤ書5~6章で「御霊に従う生き方」を強調する。ローマ書8章でも同じく、御霊の力によって罪の体に打ち勝ち、神の子どもとして自由へと導かれる過程を紹介している。

張ダビデ牧師は、この点において聖霊の助けこそが律法にはない強力な解放の力だと主張する。律法は正しい行いが何かを指し示すだけだが、聖霊は信徒を内面から新たに生まれ変わらせ、自発的に善を行い悪を避けるよう導くからである。イエスが「敵を愛しなさい」(マタイ5章44節)と言われたとき、律法的な考え方では「目には目を、歯には歯を」が当然なので、敵を愛するなど不可能に近い。しかし聖霊が私たちの心を変えてくださるとき、罪人である自分を生かしてくださった十字架の愛を思い起こして、敵までも愛することができる「新しい本性」が成長していく。

張ダビデ牧師は、聖化を単なる「人間的修養」や「道徳的修練」として理解してはならないと言う。聖化は本質的に聖霊が主導される内面的変革であり、その変化が自然に生活の実として現れる。これは究極的には私たちがキリストのうちにあって神の子というアイデンティティを得たからこそ可能となることだ。ガラテヤ書3章28節「もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたは皆キリスト・イエスにあって一つだからです」という宣言は、まさに「アイデンティティの変化」を示している。宗教的区分、民族的区別、性別や社会的身分を超越して、キリストにあって神の子どもとなったことを告げ知らせる。私たちにはもはや「奴隷の身分」ではなく、「子どもの身分」が与えられ、この確固とした身分がもたらす自由と喜びこそ福音の力なのだ。

さらに張ダビデ牧師は、ガラテヤ書の結論部(5~6章)とローマ書8章が聖霊の役割を強調して締めくくられている点に注目する。律法の下では決して善人になれない人間が、聖霊の力のうちにあって「永遠のいのち」を見つめながら、実際に変えられていく。ローマ書8章19節以下で、被造物さえも神の子どもたちが現れるのを待ち望み、救いの完成にあずかろうとしていると語るように、福音は私一人の救いにとどまらず、宇宙的回復へと拡張していく。「天と地にあるすべてのものが主を賛美する日」(黙示録4章)へと至ることこそ、聖書が約束する救いなのである。

結局、これは終末論とも結びつくが、張ダビデ牧師は救いが単に「死んで天国に行くこと」だけではなく、現在この地上で聖霊のうちに経験する漸進的かつ確かな変化であり、最終的には世界のすべての被造物の回復と賛美までを包含する完全な救いであることを繰り返し説き明かす。だからこそ、律法の呪いの下で不安に駆られながら行いによって救いを成し遂げようとするのではなく、既に私たちに与えられている神の約束とキリストの十字架の贖いを確信し、聖霊とともに歩む生き方を選ぶように勧める。

張ダビデ牧師は、こうした教えを通して、ガラテヤ書3章が「義とされた者は神の子ども」であるというアイデンティティに基づき、いかにして聖なる生を具体化できるかを示していると語る。「もしイエスと連合してバプテスマを受けたなら、すでにイエスの衣を着ているのと同じだ。その衣を汚さないように、日々洗いなさい。それはあなたの行いと深く関係しており、聖霊が助けてくださる力によって行いも新たにされるのだ」というメッセージが、ガラテヤ書とローマ書、そして聖書全体を貫いているというのである。この世の罪と悪に打ち勝つことのできる道は、ただ聖霊の力によるのであり、信仰をもって進むべきだという点が結論として提示されるのだ。

結局、小主題3で扱われる核心要点は「聖霊による自由と共同体の回復」である。義とされた私たちはもはや家庭教師としての律法に縛られず、聖霊の導きの中で自由と愛、聖なる道を歩むことができる。張ダビデ牧師はこれを「子どもの特権」と呼び、子どもは父の家で大胆に生きる存在であるように、信仰によって義とされた信徒は神の御前に堂々と進み出て隣人に仕える使命を担うことができると教える。律法主義が生み出す分裂や排除、断罪の文化を越え、キリストにあって一つになった民が互いに愛し、仕え合い、究極的にはすべての被造物の回復に参与するビジョンを味わうのである。それは単なる理想論ではなく、主がすでに十字架によって保証された「約束」であり、聖霊が私たちのうちに働かれることによって実現されていく「救い」の現実そのものだと、張ダビデ牧師は改めて強調している。

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