主の祈り – 張ダビデ牧師


1. 愛なる神と「聖」の前提

張ダビデ牧師は「神は愛である(God is love)」という本質的メッセージを強調する。これはヨハネの手紙第一4章8節に記された「神は愛なり」という聖句によって明確に示されている。聖書が語る神の愛、そして人間がその愛をいかに理解すべきかという問題は非常に深く幅広いテーマである。「神が愛である」という真理は、単なる感傷的なレベルではなく、信仰者が必ず体得すべき「本質」に当たるものだ。その愛を理解するために、まず聖書が提示する核心的前提がある。その第一が「私たちと聖なる神との関係」を知ることである。

張ダビデ牧師は「愛の神」を語ると同時に、その愛には必然的に「聖(きよいこと)」という前提があることを強調する。人々は「神は愛である」という御言葉に惹かれやすい一方で、「神は聖なるお方である」というメッセージは見逃しがちである。愛を語る以前にまず押さえるべきは、この愛が聖の上に基礎を置いているという事実だ。神をただ「愛しやすい存在」としてだけ捉えるのでは不十分である。神は全能者であり、同時に私たちとはまったく異なる「聖なるお方」なのだ。旧約聖書において、モーセがミディアンの荒野で燃える柴の中の炎として現れた神と出会ったとき、神が「あなたの足から靴を脱げ」(出エジプト記3章5節)と命じた場面は、そのことを象徴的に示している。神と出会うためには、まず自分の「古いもの」を脱ぎ捨て、聖なる神の前に区別された姿勢で立つ必要があるのだ。燃える柴のエピソードは、旧約時代に神が具体的に姿を表された唯一無二の出来事である。一般的に旧約聖書の登場人物が出会ったのは「神の使い」であって、神の実体的顕現ではなかった。しかしモーセはイエスが来られる前に、神の「かたち」のような現れを最もはっきりと体験した。そしてそこで第一の命題を学ぶ。それは「神は聖なるお方である」ということだ。

では、「聖」とは何を意味するのか。「聖」とは「完全に異なる」という意味である。神の思いと道は、人間の思いと道とは異なる(イザヤ書55章8節)。言い換えれば、神はこの世界で最も高い方であり、何にも縛られない超越者であり、創造主である。また神は万物を創造されたのみならず、それらを保っておられるお方でもある。だからこそ私たちは神に礼拝と賛美を捧げるべきなのだ。人が神を礼拝し賛美することは、神が私たちに「わたしがおまえたちを造ったのだから従え」と強圧的に命じるということではなく、「創造主と被造物」というはっきりとした関係の中で当然なされるべき礼拝行為である。張ダビデ牧師はこれについて「神をあがめず感謝もないなら、ローマ人への手紙1章に記されている罪人たちの辿った轍を踏むことになる」と説明する。ローマ人への手紙1章は、神を知りながら神を崇めず、かえって偶像礼拝や肉の欲に溺れる人間の堕落を描く。その結果は永遠の刑罰、すなわち地獄である。パウロはこれを「彼らには弁解の余地がない」(ローマ1章20節)と言う。なぜなら、神はこの世界に対する明白な証を残しておられるからだ。自然界や人間の良心はもちろん、聖書を通しても神の存在と神を礼拝すべき明確な必然性を悟ることができるのに、それを無視して背を向けるならば裁かれて当然だという論理である。

では、「愛の神」という表現は「聖なる神」とどのように両立するのか。神が愛であり、同時に聖なるお方であることに矛盾はまったくない。神は全能の神(almighty God)であると同時に、時に「まるで無力な神(powerless God)」のようにも見えるほど私たちを待っておられる方でもある。神が「愛の神」として歴史に関わられるとき、人間に強権的に何かを押しつけるのではなく、人格的な招きを通して、人間自らの選択を許されるからだ。そこにおいて「全能の神」でありながら「無力に見える神」という両極的な表現が成り立つ。全能の審判者である神が、同時に人間を待ち忍耐してくださる愛の神なのである。

張ダビデ牧師は「聖と愛は決して切り離されるものではなく、愛を正しく理解するにはまず聖なる前提を理解する必要がある」と繰り返し語る。つまり、聖なることが伴わない愛は放縦や退廃に陥りやすく、愛のない聖は律法主義的な禁欲や形式主義に流れやすい。しかし聖書の語る神は「聖そのもの」であり「愛そのもの」である。このような神の属性は、唯一イエス・キリストを通して私たちに具体的に現れた。新約時代に入り、イエスが「神のかたち」(コロサイ1章15節)をもって地上に来られたことで、人間がそれほど知りたかった神の「愛」が決定的に啓示されたのだ。イエスは「神である父の独り子」であり、「同一の本質」を持つ方である。三位一体の教理の中で、イエスは父なる神と本質的に同じお方だ。だからこそヨハネによる福音書14章9節でイエスは「わたしを見た者は父を見たのです」と語られた。このイエスを通して神を知ることが、新約の信徒たちの特権となる。

「天におられるわたしたちの父よ。御名があがめられますように…」(マタイ6章9~10節)と始まる主の祈りの冒頭は、この聖なる神が同時に「わたしたちの父」となってくださるという驚くべき真理を宣言している。ここには神の高い威厳(Transcendence)と親密さ(Immanence)が交差している。神は超越しておられるが、同時に私たちを子として迎え、父として近づいてくださるのである。聖なる神を「父」と呼べることは、イエス・キリストにあってのみ可能なことだし、聖霊が内住してくださるゆえに私たちは恐れずに「アッバ、父よ」(ローマ8章15節)と呼ぶ特権を持つのだ。だからこそ張ダビデ牧師は「愛の神は、すなわち聖なる神」であるという前提に立脚し、信徒たちがますます神の前に「区別された人生」を歩むように促す。世にあって聖なる思い、聖なる行動、聖なる言葉と態度を保ち、神の栄光を表わすべきだというのである。そしてこの「聖なる姿勢」がしっかり築かれるとき、神との「愛の関係」を完全に結ぶ喜びを経験できる。要するに、愛の源である神を心から礼拝し仕えるためには、まずその聖なる性質を認め、恐れ敬う心を抱くべきなのである。


2. 神と顔と顔を合わせる愛の

張ダビデ牧師は、第一コリント13章を「愛の章」と呼び、その愛の究極的な姿は「そのときには顔と顔を合わせて見ることになる」(第一コリント13章12節)という一節に凝縮されていると語る。使徒パウロはこの御言葉を通して、やがて私たちが神を完全に知り、直接的な交わりに入る日が来ると宣言する。今は部分的にしか知らず、かすかに見ているに過ぎないが、「そのとき」にはすべてを完全に知るようになる。そして、そこにおける「知ること」の本質は愛である。人が神を愛し、隣人を愛するということは、最終的には「神と顔を合わせる信仰の深い交わり」へと至るプロセスであり、究極の目的なのだ。

張ダビデ牧師は「顔と顔を合わせるほど親密な関係になることが信仰の志向点だ」と語る。私たちがよく「神を知る」というとき、それは知識的次元の理解というよりも、人格と人格が触れ合う関係的な知を必要とする。これはヨハネによる福音書17章に記されたイエスの大祭司的祈りの中で、「父なる神と一つであるように、私たちも神のうちで一つとしてください」と祈られた部分ともつながる。イエスは父なる神のふところの中で完全な愛を享受され、その愛によって十字架という極度の苦難に耐えられた。そしてその愛が私たちのうちにも流れ込むことを望まれている。だからこそ「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)という新しい戒めをお与えになったわけである。言い換えれば、神の愛を味わった者たちが、その愛を隣人にも伝え、実践するように召されているのだ。

しかし、この「神と顔を合わせる関係」という表現は、神の臨在を実際に体験する生き方を意味する。旧約において、神は雲の柱と火の柱として現れ、幕屋と神殿を通して臨在されたが、新約においてはイエスご自身が神殿として来られ、さらに昇天後に送られた聖霊によって私たちの内に住まわれる。第一コリント3章16節は「あなたがたは自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちのうちに住んでおられることを知らないのですか」と問いかける。神の臨在とは、教会の建物の中だけで感じる制度的な宗教行為ではなく、「聖霊があなたがたの内に住んでおられる」という非常にダイナミックで実存的な事実なのである。だからこそ信徒は日常の中でも「顔と顔を合わせるように」神を見つめることができる。祈るときには神に語りかけ、御言葉を読むときには神の声を聞く。そうやって日々の生活の中で交わりを続けることが、まさに「人格的な出会い」であり、これこそが信仰の本質となる。

張ダビデ牧師は、ここで重要なのは自分自身を振り返る省察だと説く。「自分は本当に神と顔を合わせて対話する人だろうか。それとも宗教的な形式に閉じ込められ、義務感だけで祈りや礼拝をしているのではないか」という問いを投げかけねばならない、というわけだ。なぜなら愛は強制されて実るものではないからだ。愛は真実な交感があるときにのみ成り立つ。私たちが「神を愛し、また神がわたしを愛している」と告白するとき、その告白は生き生きとした関係の中から生まれるものでなければならない。朝を迎えるとき、道を歩むとき、食事をするとき、そして眠りにつく前に、いつでも神に心を開いて祈り、対話できるのは、キリスト教信仰の特権なのである。世には他にも宗教や瞑想法があるが、そこには明確な祈りの対象が存在しないことも多い。彼らの言う「観想」や「黙想」は自分自身を見つめ直したり、宇宙的エネルギーを感じたりすることが中心であって、キリスト教の祈りは「全能の方」であり「愛の父」であるお方に語りかける人格的な交わりだ。この点でキリスト教信仰は実に独特である。

「天におられるわたしたちの父よ」という主の祈りの最初の言葉は、祈りにこそはっきりした対象があると宣言する。目には見えないが生きておられ、この宇宙と歴史を司りながらも、同時に「父」と呼べるほど近くおられる方こそ、その対象である。だから小さな祈りにも応えてくださり、私たちの些細な願いや心配事にも耳を傾けてくださるのだ。親が子どもの言うことを軽んじないように、神も私たちの言葉を決してないがしろにされない。この点において、キリスト教の祈りは他と比べようのない慰めと力の通路となる。張ダビデ牧師は「祈ることができるのに、なぜ心配するのか」というフレーズをしばしば例に挙げつつ、「祈りこそ、神の全能を信頼する最も明白な行動だ」と力説する。実際、聖書に登場する人物たちの生涯を振り返ると、神は人々の祈りを一つも聞き漏らすことなく、ただ最善の時と方法で応えておられる。ある応えはすぐに表れ、ある応えは長い歳月を経てやっと明らかになることもあるが、決して無駄になることはない。

したがって、愛なる神との関係において「聖」と「顔を合わせる親密さ」は相互に結びついている。もし聖を失い、神をただ「手軽な存在」として扱うならば、真の畏敬の念のない祈りになってしまう。また、神と親密でなければ、神を「恐ろしい裁き主」としか思えず、遠くに逃げてしまうことになるだろう。張ダビデ牧師はこの二つの極端を戒め、「聖なる父、愛の父」というバランスのとれた神理解を提示する。そしてこれこそが第一コリント13章に示される愛のエッセンスであり、ヨハネの手紙第一4章に書かれている「私たちが神を愛したのではなく、神が先に私たちを愛された」という言葉が含む恵みでもある。神の愛が先に与えられたからこそ、私たちはその愛に応答することができるのだ。


3. 主の祈りの核心――神の聖と神の

主の祈りはマタイ6章9~13節、およびルカ11章2~4節に記されている。これはイエスが直接弟子たちに教えられたものであり、キリスト教史において最も重要な「原型的な祈り」と考えられている。特に張ダビデ牧師は、新年最初の主日礼拝において「今年一年、何度も繰り返す主の祈りを、本当に深く黙想すべきだ」と強調し、祈りの冒頭に出てくる三つの願い――「御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天で行われるように地でも行われますように」――が、信徒の人生の目的と方向を集約していると説く。

第一の願いである「御名があがめられますように」は、私たちが神をどれほど畏れ敬っているかを示す祈りである。「天におられるわたしたちの父」と呼びかけながらも、その方は決して世俗的な意味の「父」と同一視できない。神の御名はヤハウェであり、エロヒムであり、アドナイである。私たちは普段「神(God)」という非常に一般的な呼称を用いるが、それは本質的には「創造主であり主権者」である神の固有性を十分に含み切れていないことも多い。そこでイエスは弟子たちに「その御名を聖なるものとしてあがめよ」という祈りを教えられた。御名はすなわち、その人格と栄誉を代表するものだからだ。もし私たちが日常の中で「神の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)という戒めを犯し、神を冒瀆したり嘲笑する言葉を軽々しく口にするなら、それは神を偶像レベルに貶める重大な罪となる。それに対して神の御名をあがめるとは、神の人格と権威を心から尊び崇めることを意味する。その尊敬と畏敬が、礼拝と賛美という形で表現され、また生活の中での従順と感謝につながっていく。張ダビデ牧師はここに付け加え、「私たち自身が聖なる生き方をしなければ、最終的には神の御名が汚されることになる」と語る。イエスを信じる者たちが教会の外で争い分裂し、不正を働けば、世の人々はその姿を見て「神の名」までも嘲笑うからだ。ゆえに「神の御名をあがめる」ということは、私たちの生き方を通してその御名が現されるようにする「聖なる責任」でもある。

第二の願いである「御国が来ますように」は、主の祈りの中心思想である。イエスの公生涯全体を貫くキーワードは「神の国」または「天の御国」であった。イエスは「悔い改めよ。天の御国が近づいた」(マタイ4章17節)と宣言し、さまざまな場所でたとえを用いてその国がいかに来るのかを教示された。主の祈りでも「御国が来ますように」とはっきり願わせることで、信徒の祈りと生き方の目標が「神の国」に向けられるべきだと自覚させるのである。なぜなら神の国は、ただ死後に行く「来世の天国」だけを意味しないからだ。そこには、すでにこの地上から始まっている「神のご支配」、すなわち「王なる神の統治」が含まれている。これこそイエスが弟子たちに教えてくださった希望である。「神の国は目に見える形で来るものではない。また、ここにある、あそこにあるとも言えない。神の国はあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17章20~21節)という御言葉のように、神の国は聖霊を通してすでに私たちの心の内に到来している。しかし同時に「この世の国は、わたしたちの主とそのキリストの国となった」(ヨハネの黙示録11章15節)という究極的完成も待っている。張ダビデ牧師は、この二重の意味を決して見失ってはならないという。個々人の救いと生活の清さを通して「すでに来た神の国」を体現しつつ、一方で「主の再臨」とともに完全に実現する「神の王国」を待ち望むのである。

第三の願いである「御心が天で行われるように地でも行われますように」は、この地上に神の善なる御心が具現されるよう祈ることである。天においてはすでに神の御心が完全に行われている。天使たちが従い、罪や不正が一切存在しないところだ。「御心が天で行われるように地でも」という告白は、不完全さや矛盾、罪と苦しみに満ちた現実の中にあっても、神の正義と愛が広がっていくように願う信徒の切なる思いを反映している。アモス書5章24節にある「正義を河川のように、公正を尽きることのない川のように流れさせよ」という預言者の慟哭とも軌を一にする。世は不義や不正に満ち、政治的・社会的・個人的領域でも神の秩序に反することが多々ある。しかし信徒はそのただ中で「神の御心が成るように」と祈り、その御心を実践するために努力しなければならない。イエスは「まず神の国とその義を求めよ」(マタイ6章33節)と語られた。この「義こそ」が神の御心であり、私たちが追い求めるべき価値なのである。

張ダビデ牧師は、これは単に頭で理解する教理ではなく、実際の生活の指針とならなければならないと強調する。主の祈りを唱えるたびに、「わたしは今日も神の御名をあがめているだろうか。神の国を望みながら生きているだろうか。神の御心をこの地に反映する生き方を追求しているだろうか」と自問しなければならないのだ。主日礼拝で一度この祈りを唱えて終わりではなく、日常の中でも繰り返し思い起こすとき、信徒は祈りと行動を通して神の聖と神の国を現実に実らせていくことができる。ゆえに主の祈りの教えは単なる暗唱の課題ではなく、信仰の歩みを照らす灯台の役割を果たす。

張ダビデ牧師は最後に、ローマ8章26節を引き合いに出しながら「私たちはどう祈るべきかを知らないが、聖霊が私たちの弱さを助けてくださる」という事実を思い出すように促す。祈りは人間の限界の中で切実に試されることもあるが、主がはっきり「このように祈りなさい」と教えてくださった主の祈りがあるのだから、それを繰り返し黙想しなさい、というわけだ。私たちはその祈りの教えを通して、神がどれほど高く聖でありながら、同時にどれほど愛をもって私たちに近づいてこられるかを悟る。また神がこの地にどのような国を打ち立てようとしておられるのか、そして私たちがどうその御心を見分け、共に参与すべきかを学ぶのである。こうして主の祈りは信仰者の歩みを神に合わせ、この世の貪欲や不安、罪や不正から解き放つ強力な手立てとなる。

結局、「父なる神の御名をあがめるために生き、その御国が来るように献身し、その御心が地上に広がるように努めること」こそが、私たちの人生の目的だといえる。張ダビデ牧師は、この目的を見失うと人はさまよい、虚しさに陥り、罪の誘惑に陥りやすくなると指摘する。しかし、この目的がはっきりすれば、人生の大小の出来事――財産、名誉、快楽、人間関係――などに対する視点が変わる。それらすべては神から授かった賜物であり、神の国のために用いられる材料となる。もはやそれらが私たちの主人となることもなければ、私たちがそれらの奴隷になる必要もない。このように人生観が変わると、究極的には生きる幸いと安息が訪れる。その安息は「天の父のご計画のもとに自分が存在し、その御国のために生き、最後にはその御もとに帰る」という信仰から生まれる平安である。

まとめると、張ダビデ牧師が語る主の祈りの核心思想は大きく三つに集約される。第一に、神の御名を聖なるものとしてあがめること。私たちは神の威厳と栄光を覚え、その方に礼拝と感謝、従順を捧げるべきである。第二に、神の御国が来るように願うこと。この御国はイエスによってすでに始まっているが、再臨によって完成される未来的な王国でもある。第三に、神の御心がこの地上に成るように祈り行動すること。義に飢え渇く者が結局祝福を受け、その正義と公正が大河のように流れる世界こそが神の国の姿である。キリスト教的世界観は、この地上だけがすべてではなく、「あの世(永遠)」があるという前提で動く一方、地上の現実においても「神の御心」を実現するために尽力する。こうした信仰告白こそ主の祈りに込められている。

最終的に、新年最初の主日礼拝のメッセージで張ダビデ牧師は「私たちは何のために生きるのか?」という根源的な問いに対して、主の祈りを通して答えを示した。私たちは神をあがめ、その方に感謝するために生きる。そしてその御国を仰ぎ見ながら、天ですでに完成された聖なる御心が地上でも行われるように祈り、努力する。そうして生きるとき、「イエスを信じて天国へ、不信なら地獄へ」という単純で直接的な結論は、単に恐怖をあおる論理ではなく、むしろ命の福音として迫ってくる。死の彼方に永遠の裁きがあることを悟り、その裁きから救ってくださる恵みが「イエスのうちにある」と知るならば、これほど明確で確かな救いのメッセージはないのだ。だからこそ信徒は「祈ることができるのに、なぜ心配するのか」という言葉を実感しながら、日々の祈りによって神と顔を合わせ、「聖と愛」に満ちた神と親密に交わるべきだ。

このようにして信徒たちが新年を迎え、主の祈りの基本精神に忠実であろうとするならば、個人の魂の満足のみならず、教会共同体の真の一致が成り立ち、世の中でも神の御名が高められ、その御国が実際に拡張されていくだろう。そしてこの全過程を通して、神が愛であることを万人の前に宣言できるようになる。張ダビデ牧師は、それこそ「神の聖と愛を知る者たちが当然走るべき道」であると語る。主にあって今まさに始まろうとする新しい一年、このときにこそ私たちの祈りが主の祈りの核心を抱いているかを振り返り、心を尽くして「天におられるわたしたちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天で行われるように地でも行われますように」と告白する場所へと進みたい。そうするならば、神の民は主がすでに約束された力と答えを豊かに体験することになるだろう。そこには真のキリスト教信仰が生き生きと躍動する歴史が詰まっているのである。

Leave a Comment