
1. 神の予定と摂理、そして救いの確信
張ダビデ牧師はローマ書8章を解き明かしながら、人間が抱く不安や限界を超越する救いの確信と、神の絶対主権を強調する。特に8章28節から30節で、パウロは「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々には、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」(新改訳)と宣言している。人は人生を歩む中で未来を見通せない不安に常に直面する。今日よいと思ったことが明日には悪い結果をもたらすかもしれず、損だと思っていたことが思いがけない益へと変わるかもしれない。こうした限界や不安定さが人間の人生を覆うのは当然だが、パウロはそれを神の「すべてを合わせて益としてくださる」摂理のうちに解釈する。
張ダビデ牧師はこの箇所を解説しながら、「神を愛する者」という表現が要であることに着目すべきだと勧める。すなわち私たちの内には欠けや弱さがあるが、それが「神を愛する者」というアイデンティティのうちにあるとき、神はそれらすべての要素をモザイクのように組み合わせて“善”を生み出してくださるのだという。モザイクは小さな破片が噛み合わさって初めて全体像を映し出すように、神の民が抱える多様な姿や試練、限界までもが最終的に神のご計画のうちで調和し、善なる結末へと導かれる。それは決して個々の召しにとどまるものではなく、教会共同体の中でも同様に「ともに働いて善となる」みわざとして現れるのだ。
パウロ自身、この事実をきわめて個人的に体験した。彼はもともとイエス・キリストを信じる共同体を激しく迫害する者だったが、途中でくじかれ、かえって最も熱心な伝道者へと変えられた。誰もが予想しなかった驚くべき反転が起こり、初代教会が世界各地へ福音の種をまく上で大きく貢献することになった。パウロの目には、どのような敵対者も神に愛されている者たちを根本的に倒すことはできなかったのであり、その事実をローマ書8章で力強く強調している。
ローマ書8章28節の「ともに働いて善を成す」という言葉には、神の予定(predestination)と摂理(providence)が含意されている。予定とは、神があらかじめ定めておられるということであり、摂理とは神が先を見通し、先んじて導かれるご経綸を指す。「予め(pro)見る(videre)」というラテン語に由来するこの摂理の概念は、人間のあらゆる瞬間や歴史がすでに神の壮大な絵図の中に位置づけられていることを意味する。張ダビデ牧師はこれを「神の主権性(sovereignty)」と呼び、これがキリスト教の歴史において幾度となく論争の中心にあったことを想起させる。
実際、この教義はカルヴァンの予定論、特に二重予定(double predestination)の主な根拠の一つとなった。選ばれた者と捨て置かれる者に分かれるという点ゆえに激しい反発と論争を引き起こしてきたが、カルヴァンの意図は「神の絶対的な統治と愛のうちに生きる信仰者が得る驚くべき恵みの確信」を示すことにあったと言える。時代背景を見れば、カルヴァンが活躍した後の時代に、人々は次第に理性中心・合理主義に傾き、神が宇宙を創造しただけでその後は干渉しないとするデイズム(理神論)が広まった。この思想は神と人間の生きた関係性を否定し、人間の理性で自立的に世界を解釈しようとした。それに対抗し、カルヴァンが「神の絶対主権」を強く説いたのは、神がただ遠い宇宙の彼方にいらっしゃる方ではなく、私たちの生きる歴史と世界に能動的に関わり、小さな鳥一羽の生死にさえ及ぶほどに主権を及ぼされることを強調するためだった。そしてパウロもローマ書8章で同じ前提を持ち、神が愛する者たちに起こるすべてのことが、最終的にその神の絶対的な統治の中で善とされるのだ、と語っている。
張ダビデ牧師はここで「教会」は召された者たちの共同体だと説明する。教会とは文字通り“called out”、すなわち世の中から神のご計画によって選ばれ、召された集まりだという。ゆえに教会とは組織や外的な行政システムだけを指すのではなく、神を愛する者たちが集い、神の神的な統治と摂理を信じ従い、互いを支えながら共に歩む霊的共同体である。そうした意味で改めて28節を読むと、「神を愛する者、すなわちそのご計画に従って召された者たちには」と続いたあと、すぐに「すべてのことがともに働いて益となる」と結ばれているのは驚くべき結論である。私たちの欠けや弱さ、ときに断片のような人生の破片さえも、全能なる神の御手によって一つの傑作へと組み上げられるのだ。
29節と30節に進むと、パウロはさらにはっきりと神の予知(foreknowledge)と予定(predestination)について語る。神が「前もって知っておられた人々」を「前もって定め」られ、その人々を最終的には「召し、義とし、栄光を与えてくださる」とまとめている。これこそ教会の聖徒たちが受けた救いの段階であり旅路である。要約すると、「予知-予定-召し(召命)-義と認め(称義)-栄化(glorification)」という流れになり、称義・聖化・栄化というプロセスで区分して捉えられることも多い。張ダビデ牧師は、この点でパウロが語る予知予定論は、単に運命論的な決定だけを語っているのではなく、むしろ「恵みの絶対性」を語っているのだと注目すべきだと言う。すなわち、人が信仰を持つのは全くもって神の恵みが先行して与えられたからこそ可能なのであり、その恵みが“先行的”に与えられたことを自覚することこそ、救いの秩序(序程)を理解する上での重要な鍵だというのである。
パウロ自身が最も強烈に体験したように、彼はステパノを石打ちにするのを先頭に立っていた凶悪な迫害者だったが、むしろイエス・キリストの熱烈な使徒に変えられた。その過程を振り返るとき、「なぜこんな私を選んでくださったのか?」という問いはパウロの中に大きく横たわっていたに違いない。自ら重い罪意識を抱えたが、結論として、そのような悪と欠けを前もって知りながら、なお受け容れてくださった神の恵みに対して、パウロはローマ書8章で賛美せずにはいられなかったのだ。「私たちを愛してくださる方によって、私たちは十分に勝利する」。パウロはその言葉の現実的な証そのものでもあった。
神が予知と予定をもってご自分の愛する者たちを救われるとき、救いだけにとどまらず「御子のかたちと同じ姿となるため」に私たちを召されたというのが29節の核心である。私たちの目標はイエス・キリストに似る者となることであり、キリストを長子(長男)として、後に続く多くの兄弟姉妹となるよう召されているというわけだ。これこそパウロが語る「より大いなる救いの目的」である。ただ罪の赦しや裁きの免除に終わるのではなく、神の子どもとしてイエスのかたちに似せられていく霊的成長と完成へ向かうことこそが、救いの完全な意味なのだ。
30節で「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義とし、義とした人々をさらに栄光を与えられた」と語るのは、救いの段階に対するパウロの確信を改めて壮大に示すものである。あらかじめ知り、定めたとおりに召し、義とされ、そしてついに栄光へ導かれる神の摂理が揺らぎうるのか。パウロの答えはきっぱりとしている——絶対に揺らがない。張ダビデ牧師はこここそがキリスト教信仰が持つ内的平安と確信の根本だと説く。「選ばれた」という事実が間違った高慢や他者を罪に定める根拠として捉えられる場合もあるが、パウロが本当に言いたいのは高慢の根拠ではなく、「資格のない者に注がれる神の深い愛」をいっそう喜び感謝せよというメッセージである。そしてその愛がいかに力強いかは、「だれが私たちに敵対できるだろうか」という宣言へと続くのである。
31節に至ると、パウロは「では、これらのことについて私たちは何と言えばよいでしょう」と言う。ここで言う「これらのこと」とは、神が前もって知り、予定し、召し、義とし、栄光にまで至らせる、その一連の救いの過程を指す。人間の理性やどのような勢力も、この過程を無効化したり「違う」と断言できるだろうか。もちろんできない、というのがパウロの結論だ。続いて「もし神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(31節)という賛美のような宣言が現れるが、これは救いに対する揺るぎない安全を示している。救われた私たちは、その恵みの中にいるゆえ、どんな力もその救いを覆すことはできない、と詩篇の告白にまで言及して説明する。「主は私の光、私の救い。私はだれを恐れようか」(詩篇27篇)や、「ただ神を待て、わが魂よ」(詩篇62篇)と歌った詩篇記者の叫びがその例である。
張ダビデ牧師はこのような御言葉を解説する際、人間が罪を犯し倒れる現実を否定しない。救われたからといって罪が消え去るかのように思い込んではいけない。しかし人間の不信や疑い、罪のゆえにぐらつくときでも、私たちを救い上げてくださるのは人間の努力や功績ではなく、「神の予定と摂理、そして変わらない愛」である事実は変わらないのだ、と信仰によって受け止めるように教える。罪人は絶えず「本当に私は救われたのだろうか」「またつまづいたから見捨てられたのではないか」と疑うが、パウロは「だれが私たちを訴えようか。だれが私たちを罪ありと定めようか」と問い返し、神ご自身が義とされた人を、だれがあえて罪人だと定められようかと問うのである。
32節で「ご自分の御子さえ惜しまずに、私たちすべてのために死に渡された方が」とあるのは、創世記22章のアブラハムが独子イサクをささげた場面を連想させるが、それ以上に大きな神の愛を示す。アブラハムも信仰によってイサクをささげたが、神の場合は全能の神でありながら、独り子イエス・キリストを十字架につけてまでも罪人を救われた。まさにこの犠牲によって私たちの救いは可能となったのだ。ゆえに御子さえ惜しまなかった神が、「どうして御子とともにすべてを私たちに与えてくださらないことがあるだろうか」という言葉は、神の憐れみと慈しみがどこまでも尽きないことを証言している。
張ダビデ牧師は「神の愛」を語る際、特にこの32節を中心として、いかなるものも私たちの救いを揺るがすことはできないと重ねて強調する。人間にとって最大の危機は死だが、イエス・キリストはその死の力を打ち破り復活され、今も神の右の座で私たちのために執り成しておられる。だからこそ信仰者とは、主の愛を身にまとう者であり、たとえ外的な迫害や内面的な罪責に襲われようとも、最終的に私たちを訴えうるのは神だけだが、その神が私たちを義と認めてくださったのだから、どのような告発も無効だという結論に至る。これが33節と34節の「だれが訴えようか」「だれが罪に定めようか」という言葉に繰り返し表れ、続いて神の右におられるイエス・キリストのとりなしによって完成する。
使徒信条に出てくる「葬られ、三日目に死者のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」という告白も、ローマ書8章34節と正確に合致する。イエスこそ生者と死者をさばく方だが、その方がむしろ私たちのために執り成し、弁護し続けてくださる。それ以上に大きな慰めはないだろう。張ダビデ牧師は、これこそ救われた者の強固な土台であり、人間が疑いや恐れから解放されるべき理由なのだ、と解説する。
このようにパウロがローマ書8章で宣言する救いは、神の予知と予定という柱の上に立ち、私たちを召してくださる召命と義とされる称義、そして最終的に栄光の座へ導かれる神の摂理が連なり、ついには「だれが私たちに敵対しようか、だれが訴えようか、だれが罪に定めようか」という強力な問いかけの前でも揺るがされることなく守られる。イエス・キリストは死なれただけでなく、再びよみがえられ、神の右に座して今も私たちを弁護してくださる。まさにこのメッセージを通して、私たちは救いの不安定感から解き放たれ、「確信」という揺るぎない岩の上に立つことができるのだ。
張ダビデ牧師は結論として、このローマ書8章の解説を終えるにあたり、神が私たちを選ばれた愛がどのような状況でも揺るがない事実を、単なる教理的知識ではなく、実際の生活の慰めと力として経験すべきだと説く。カルヴァンの時代にいたデイスト(理神論者)や、今日の世俗主義や科学万能主義に陥っている人々のように、神を単なる遠い造物主あるいは知的原理程度にみなしてしまうならば、信仰は即座に無力化する。しかしパウロが「すべてのことがともに働いて益となる」と語り、「だれが私たちに敵対できよう」と大胆に宣言するとき、そこで得られるのは単なる慰めではなく、人生を変えるほどの確信である。そしてその確信があるからこそ、パウロは続く最後の節で「だれが私たちをキリストの愛から引き離すことができようか」と叫ぶことができたのだ。
2. 私たちを愛してくださる方によって十分に勝利する生き方
張ダビデ牧師はローマ書8章後半を解説しながら、「だれが私たちをキリストの愛から切り離すことができようか」(35節)と問うパウロの言葉こそ、最も美しい信仰告白の一つだと言う。35節でパウロは信徒が遭遇しうるあらゆる困難を列挙する。患難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣の七つであり、これらはすべて信仰者の道に現実的に起こりうる極限状況だ。実際、パウロの時代、ローマのキリスト者たちは迫害と圧力を受け、生存そのものが脅かされていた。飢えや裸同然の貧困、処刑の恐怖がいつも周囲にあった。だからといって教会や信徒たちはこうした恐れの前に挫折して崩れるべきなのか。パウロははっきりと宣言する。「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださる方によって私たちは十分に勝利しているのです(37節)」
「十分に勝利する」というのは、何とか耐え忍んだ末にぎりぎりで生き延びるというレベルではない。神の愛があまりにもしっかりしているため、苦難の嵐が吹き荒れようとも「究極的な勝利」が確定しているという表現である。そこには、最終的な勝利である救い、そして最終的な神の国の栄光に対するパウロの確信がある。イエスはすでに「世に勝った」(ヨハネ16章33節)と宣言されたが、私たちもその道を後に続いていくのであり、この世で苦難に遭ってもキリストの勝利にあずかることができるという意味だ。張ダビデ牧師はローマ書8章37節について、「限りなく小さく弱い存在の人間が、全能の王の腕の中にあるからこそ、堂々と告白できる文章」であると説明する。きわめて低い者が最も高い王の手をとって歩む姿であるから、倒れずにいられるし、倒れても立ち上がることができるのだ。
パウロは38-39節に至り、有名な言葉で頂点に達する。「私はこう確信しています。死も生も、天使も支配者も、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高さも深さも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを切り離すことはできないのです」(新改訳より意訳)。七つの苦難に続き、ここでは九つ以上のあり得るあらゆる敵対要素を挙げている。死、生、天使、支配者、現在と未来、力、高さ、深さなど、空間と時間、霊的世界と物質的世界、さらには宇宙的秩序に至るまで網羅し、それらがいかに巨大で強大に見えても、決して神の愛を打ち崩すことはできないと言うのだ。
ここで言及される「高さ(ὕψωμα)」や「深さ(βάθος)」という表現は、当時、人々が星の配置を見て未来を占う占星術的な世界観まで含むと見る解釈もある。当時多くの人々が星の配置や運行によって運命が決まると信じていたからだ。しかしパウロは、そのような占星術的運命論も否定する。いくら星々の運行や天体の秩序が人の運命に影響すると主張しても、「キリスト・イエスにある神の愛」に勝てるはずはないと言う。張ダビデ牧師は、現代を生きる私たちも、科学的データや環境的要因、個人の経験などに左右され、「人間はどうしようもない存在だ」と諦めがちだが、パウロの確信はまったく異なるのだと強調する。神が私たちを選ばれ、独り子イエス・キリストを犠牲にしてまで示された愛、さらに復活と昇天、聖霊の内住ととりなしの御業によって今も保証され続けているその愛は、いかなる被造物も断ち切ることができない。
さらに「未来のもの、現在のもの」とあるように、時間性に対する恐れさえ克服する。過去の罪や失敗が再び足を引っ張るかもしれないし、将来の不確実性に震えるかもしれない。しかしパウロは現在も未来もすべてキリストのうちに握られていると宣言する。だからこそ信仰者は恐れに囚われるのではなく、「すでに勝利が確定している戦い」を戦う者の心で生きられるのだ。ちょうど勝利が決定したゲームをプレイする人のように、いま目の前で起こる困難や問題は一時的な痛みではあっても、結末は決まっているというわけである。張ダビデ牧師はこれを「聖徒の堅忍(perseverance of the saints)」という神学用語と結びつける。一度救われた者は神の絶対的な愛のうちで最後まで導かれ守られるため、究極的な失敗や滅びに至ることはないというのが聖徒の堅忍である。もちろん人間的な過ちや罪によって途中でつまずくことはあるが、最終的な救いから脱落することはない、という意味だ。
ローマ書8章がこうした確信を与えるのは、私たちの努力や意思が完全だからではない。もっぱら神が選び、召し、義とし、栄光へと導かれるからにほかならない。そのご計画を成就するためにイエス・キリストはすでに十字架で死なれ、復活され、そして今も天において私たちのために執り成しを続けてくださっている。同時に聖霊も私たちの内にあって言いようのないうめきをもって取りなしてくださり、私たちを聖く変えていく働きを進めてくださる。だからこそパウロは「だれが私たちをキリストの愛から切り離すことができようか」と言い切れるのである。
張ダビデ牧師はこの部分を読むとき、「私たちを愛してくださる方によって」という表現に特に注意を向けるよう助言する。救いの始まりから旅路、完成に至るまで、すべてが「私たちを愛してくださる方」に懸かっていることを意味している。どんな患難や苦しみ、さらには死が訪れたとしても、「私たちを愛してくださる方」はただ遠くから見守るだけの方ではないゆえ、私たちは十分に勝利する。そういう意味で聖徒の歩みは常に平坦で苦痛ゼロの道ではない。むしろ苦難はつきものであるが、その過程さえも私たちが神の愛をより深く体験する時となる。福音書のいたるところでイエスが弟子たちに教え示された生き方がそうであり、使徒行伝で教会が歩んだ道もそうだった。迫害と飢饉、不安と危険のただ中でも、教会は成長し続け、福音は広く行き渡っていったのだ。
現代の私たちにもこの教訓は有効である。イエスを信じることは安易な道ではなく、世の潮流や不正と妥協しないがゆえに、ときに疎外や非難を受けるかもしれない。人によっては「飢え」や「裸」を経験するほど困窮することもある。またある人々は家族や共同体から「迫害」を受けるかもしれない。地域や状況によっては、いまだに命の脅威にさらされているところも地球上には存在する。だからパウロの言う苦難のリストは現代人にも決して無縁ではない。こうした状況の中で、神の民は「これを乗り越えるだけの力など自分にはない」と容易に絶望しがちだが、パウロはむしろはっきりと「何ものも私たちを神の愛から切り離すことはできない」と断言する。
特に36節で引用されている詩篇44篇22節の「私たちは、一日中、あなたのために殺される者とみなされ、屠られる羊のように見られています」という言葉は、殉教が現実となっていた初代教会の切迫感をよく表す。信仰の道は、ときに死の脅威を伴う。しかしパウロはそのような状況でも、37節で「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださる方によって私たちは十分に勝利している」と宣言し、死のかなたの復活の希望、そして神の国の最終的な勝利を見据えたのだ。張ダビデ牧師は、信仰が弱るときほど、この37節の御言葉を黙想し、「今の苦難だけが私に与えられたすべてではない」という事実を思い起こすべきだと勧める。
38節と39節でパウロが連続して列挙する内容は、当時のローマ帝国における迫害や霊的な挑戦がいかに苛烈だったかを示すと同時に、いかなる状況も神の愛を遮ることはできないということを劇的な言葉で伝えている。「死も生も、天使も支配者も、現在のものも未来のものも、力あるものも、高さも深さも、その他どんな被造物も」──これらすべてが、結局は造り主である神の支配から逃れられない。人間が経験しうる最も極端な恐れである死も、最も強そうに見える世の権勢も、神秘的で広大な宇宙的存在ですら、神の主権の外にはない。それならば、神が独り子の死と復活によって保証してくださった「キリスト・イエスにある愛」を覆せるだろうか。パウロの答えは断固たる「ノー」である。
張ダビデ牧師は最終的にこの御言葉をまとめるにあたって、神が私たちを子どもとして召された時点から、すでに栄光の座に至るまで「継続的なご計画」を持っておられることに目を留めるべきだと助言する。私たちがどんな弱さや状況に置かれたとしても、救いはそこで未完に留まらず、最終的に栄化される時まで導かれる。同時に「このことを信じるかどうか」が絶えず信仰の試しとして私たちの前に立ちはだかる。パウロが繰り返し述べたように、私たちは「罪の法則」と「命の御霊の法則」の間で日々戦う(ローマ書7〜8章)。ときには失敗もするが、そのたびに戻るべき所は十字架の恵み、聖霊の力、そしてイエス・キリストの執り成しの御業である。まさにそこで「だれが私たちを訴えようか」「だれが罪に定めようか」「だれがキリストの愛から切り離そうか」という大胆な告白が再び響き渡るのだ。
ローマ書8章後半は、私たちが聖徒として前進するときに直面しうるあらゆる脅威と挑戦、そして人間内部の疑念に向かって、「神がすでに勝利され、その愛をもって私たちを握っておられるから、おまえたちは対抗できない」と宣言する。ゆえに信者は日々の生活の中でも、たとえ死の時が近づこうとも、神の愛に対する確信のうちに安らぎを得ることができる。これが信仰の先達たちが私たちに残した遺産であり、パウロの燃えるような情熱が詰まったローマ書8章の結論でもある。
張ダビデ牧師はこの結論にあたり、私たちの信仰がただ「良い日だけを選んで生きる」浅はかなものになってはならないと言う。迫害がなくても、人生の重荷は存在し、罪との絶え間ない霊的戦いが私たちの内側で起こる。しかし荒野のような人生においても「主が備えておられる善く美しい結末」を確信できるかどうか、これこそが聖徒の真の自尊心であり霊的力である。なぜなら「御子をさえ惜しまずに差し出されたその愛」こそ、私たちが恐れに立ち向かう最大の源泉だからだ。そしてその愛が確かであるという事実が、すなわち「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離せるものは何もない」(39節)という最後の省察と告白である。
ローマ書8章はここで終わるが、この手紙を受け取ったローマの信徒たちも、そして現代を生きる私たちも、この言葉を生の中で日々経験していくことになる。信仰共同体の中で時に葛藤が生じ、外的な環境や世の思想、権力によって苦難を受けることもあれば、身体の病や経済的危機といった現実的な試練が訪れることもある。そのたびに私たちが振り返るべきは「だれが罪に定めようか」「だれが切り離そうか」「だれが敵対できるだろうか」という、パウロの七重、九重にも及ぶ力強い反問である。十字架と復活、聖霊の内住、そして神の栄光の約束があるのに、いったい何がこの愛を崩せようか。張ダビデ牧師は「これから現れる栄光は、今の苦しみと比べものにならない」(ローマ8章18節)と語ったパウロの告白を改めて思い起こし、この愛の中を生きる限り、私たちの人生の方向と結末は変わり得ないのだと教える。
結論は一つだ。私たちは「私たちを愛してくださる方によって、十分に勝利する」。患難や苦悩、迫害や飢え、裸や危険、あるいは剣が襲ってきても、それらが私たちの信仰を最終的に破壊することはできない。たとえ現実感あふれる痛みや試練を通るとしても、神が私たちの味方であり、イエス・キリストが神の右で執り成しておられ、聖霊が私たちの内で嘆願しておられるという真理が弱まることも消されることもない。むしろその愛ゆえに、苦難はさらに深い恵みを体験する場となり、弱さは強さに変わり、死は永遠の命への扉となる。このようにローマ書8章28節から39節の御言葉は、初めから終わりまで救いの確信と「予知・予定」の恵み、聖徒の堅忍、そして決して切り離されない愛の契約の堅固さを説き明かしているのである。
張ダビデ牧師はローマ書8章の説教を締めくくりつつ、改めて「ともに働いて益となる」というキーワードを思い起こさせる。私たちの人生はときに成功と失敗、喜びと悲しみが入り混じっている。しかし「神を愛する者、すなわち神のご計画に従って召された者たちには」これらすべてが超越的な視点で美しいモザイクとして完成に向かう。その完成した絵を私たちはまだ十分に見ていないが、それは最終的に「御子のかたちに似るようにし、多くの兄弟の中で長子とならせよう」とする神のご計画に属している。そしてその計画を実行なさる力は、もっぱら私たちを愛してくださるお方から出ているので、どのような勢力もこれを崩すことはできない。世の視点では険しく、ときに絶望的にも思える現実の前で、信仰者は神の絶対主権を拠り所とし、福音の力を体験し、「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛」の中で感謝と希望をもって生きることができる。ローマ書8章28節から39節は、その秘訣を私たちに輝かしく示してくれる祝福の御言葉である。