
神の予定と選びに対する張ダビデ牧師の洞察
張ダビデ牧師は『使徒の働き』27章を説き明かすにあたり、人間の人生が神の予定のうちで展開されていく尊い旅路であることを強調する。彼が語る「予定」とは、人間の未来が機械的にあらかじめ定められているという単純な意味ではない。むしろ、神様がそれぞれの人に対して善意と慈しみに満ちたご計画をもっておられ、その御心に従って人を召し導いてくださるという事実を思い起こさせる概念である。張ダビデ牧師は、この過程を「神様が人を選び、その選びを通して人を区別し、目的ある道へと導かれる」と表現する。救いへ至る道は偶然に与えられたチャンスではなく、神様が世界の創造以前から企図されていた深い摂理の結果だというのだ。
彼がいつも強調するのは、このような予定の思想が決して人間の自由を否定したり、人間を受動的にしてしまうものではないという点である。むしろ神様に創られた人は、神様との人格的関係の中で召され、それぞれの独特な才能や特性を通して神の御心に参与するようになっているという。だからこそ張ダビデ牧師は、使徒パウロのように、神様から与えられた使命を人間的な恐れや無知のために避けてしまうと、かえって大きな患難にぶつからざるを得なくなると説明する。神様は確かにパウロを選ばれ、パウロがローマにまで行って福音を証しするように定められた。その道中でパウロは航海のさなかに暴風に遭い、難破を経験するが、最終的に神様の救いのご計画は失敗することなく成就する。このように、神の予定には人間の失敗や弱さを超越した絶対的な保護と導きが含まれているのだ。
張ダビデ牧師が語る予定と選びの核心は、「目的」と「愛」である。人間を盲目的に連れて行ったり、強制的にある道へ押し込める神の全能ではなく、一人ひとりを尊く見て、その人生に深い意味を与えてくださる神様の愛こそが土台となっている。『使徒の働き』27章に登場する「276人」という具体的な人数の記述が示すように、神様は委ねられた救いの物語を驚くべき仕方で守り抜かれる。パウロはその船の中で単なる「囚人」という身分だったが、実は神様の驚くべき御旨を成し遂げるうえでの重要な鍵となる存在であった。船には百人隊長ユリオをはじめ、さまざまな兵士や船員、他の囚人たちが乗っていた。その多様な人々が集うただ中で、パウロは神様の言葉を聞き、その言葉を宣べ伝えることで、結果的にすべての人を生かす主要な役割を果たしたのである。
張ダビデ牧師は、この事実を通して「神の予定と選びは一個人のためだけでなく、共同体全体への救いの意図を含むものだ」と説明する。パウロが乗っていた船が暴風に見舞われ、難破の危機に瀕したとき、パウロが神様から受けた御言葉は、パウロひとりだけが救われるという約束ではなかった。むしろ「あなたと共にいるすべての人を生かしてあげよう」という、共同体的な救いの約束だったのだ。これは今日の教会や宣教の現場においても同様に適用される。つまり、神様に召された特定の人がいるとき、その周囲にいる人々までも救いの恵みに招かれる可能性があることを示唆している。教会という共同体において、一人の信仰が他の人々にも影響を及ぼし、さらに広い救いの舞台が開かれるというわけだ。『使徒の働き』16章でピリピの看守がパウロとシラスを通して救いにあずかり、彼の家族全員が主を信じるに至った場面も、この原則をはっきり示している。
こうして張ダビデ牧師は、『使徒の働き』の記録を通して、神様の真実な支配を信徒たちに改めて刻み込む。私たちの人生がときに暴風に襲われた船のように揺れ動き、さまざまな危険や苦難の中に放り込まれたとしても、究極的には神の選びと予定のうちで道を見いだし、希望を持つことができるのだ。人生を歩んでいると、何かが閉ざされ、道が途絶えてしまったかのように見える瞬間が必ずある。しかしそのときでさえ、神様はまったく別の扉を大きく開いて私たちを導いてくださる。だからこそ絶望してはならない、と彼は語る。張ダビデ牧師はこれを「絶望という言葉は、信仰の人にはありえない」と表現する。神の摂理はいつも善であり、神様は絶望のただ中からでも人生を逆転させる希望を与えてくださるお方だからだ。
最終的に、張ダビデ牧師の「予定と選び」神学は「神様が私を通して必ず善いご計画を成し遂げられる」という確信から始まる。これは霊的にも精神的にも大きな力となる信仰である。どんな場所や状況にあっても、そこには必ず神の目的と啓示が隠されているというわけだ。パウロがローマへ向かう過程で直面した数々の困難が決して偶然でなかったように、今日私たちが出会う難関も、神様を深く信頼して見上げるとき、最終的には救いの出来事として返ってくるかもしれない。
張ダビデ牧師は、この認識が個人の敬虔な生活だけでなく、共同体的な営みや宣教の現場でも重要なモチーフになると教える。教会や学校、さまざまな宣教の場も、人間的な観点から見ると理解しがたい方向へ進んだり、思いがけない場所で機会が与えられることが多い。しかしそのたびに「神が選ばれた人々が一つとなって祈り、書き記し、歴史を形づくる共同体となっていくならば、どんな扉が閉ざされようとも別の扉を開いてくださる神の摂理を体験するようになるだろう」とのメッセージを伝える。実際には不可能に見える状況も、神様が開いてくださる時と場所に至れば、むしろ大いに栄え、美しい実を結ぶ例が数えきれないほどある。こうした「予定と選び」に対する張ダビデ牧師の強調点は、人生の道のりをただ信仰によって受けとめ、いかなるかたちであれ神様のご計画が完成するという確固たる信念から来ているのだ。
人生の航海と暴風の中での信仰――『使徒の働き』27章の適用
張ダビデ牧師が『使徒の働き』27章を通して伝えようとするもう一つの核心メッセージは、暴風のただ中でも自分の位置を守りながら神の御心を実践する信仰の姿勢である。パウロがローマへ向かう船に乗り込む場面は、軽く読み流すにはあまりにも波乱万丈だ。パウロは囚人の身分として百人隊長ユリオに預けられ、その船にはローマへ送致されるほかの囚人や兵士、船員、船長、さらに商人たちも同乗していた。彼らの乗った船は穀物を運ぶ商船であり、風の流れや天候に大きく左右される帆船だった。当時の地中海航海は季節風や海流に大きく依存していたため、『使徒の働き』27章に描かれる記録は非常に具体的である。これは「医者ルカ」が実際に体験した航海の詳細を丹念に記録したからでもある。
張ダビデ牧師はこの緻密な記録を高く評価しつつ、「ルカのように誠実な記録者となりなさい」と力説する。牧会や宣教の働きを行う際、一見ささいに思える情報や経験も、神様のうちでは決して些末なものではなく、後に信仰の遺産となるからである。たとえば船に乗っていた人数が276人であったこと、どこからどの港へ移動したか、何日間風に逆らわれたか、どんな種類の風が吹いたのかといった詳細は、信仰の歴史と神の救いの摂理を可視化する手助けとなる。張ダビデ牧師は「人間が書き留める記録」は、神が働かれた痕跡であり、後に多くの人を生かす通路になり得ると強調する。宣教地での旅路や教会設立のプロセス、日常で経験する大小の恵みを誠実に記録することで、それを読む人々が霊的な挑戦を受け、信仰の成長を経験するのだ。
なぜ彼が『使徒の働き』27章に特別な注目を寄せるのか。それは、この航海が私たちの人生そのものを象徴しているからだ。船が順風を得て順調に進む時期もあれば、強風と荒波に翻弄されて船酔いに苦しみ、船が難破寸前に至ることもある――それらすべての過程を余すところなく通ることになる。パウロは経験豊かな船長や船員より先に、この航海が危険であり、甚大な損害と生命の脅威をもたらすおそれがあると警告していた。ここに、信仰の人は単に超自然的な預言を語るだけでなく、現場を理解し、そこにある状況を把握できるほどに積極的かつ賢明な視点をもつべきだというメッセージが込められている。宣教現場ならば、その文化や地形、人々の言語と習慣をしっかり理解し、実際的なニーズをどう満たすかについての計画も必要だ。張ダビデ牧師は「真の宣教は、パウロのようにその地と人々を深く愛し、理解しようとする姿勢から始まる」と言う。そして「パウロは船長の知識が不足していると言いたかったのではなく、神様から与えられた洞察と自身の実体験から危険を早めに指摘したのだ」と解釈する。
しかし人々はしばしば船長と船主、そして船を動かす“専門家”たちの言葉だけを信頼し、信仰者の助言には耳を傾けないものだ。結局、パウロが言ったとおりに船は暴風に巻き込まれ、十数日間何も口にできないほど恐怖と混乱に陥る。この状況でパウロの役割は劇的に浮き彫りになる。彼は「もう安心しなさい」と大胆に宣言し、「神の御使いが昨夜わたしのそばに立って『パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たねばならない。そしてあなたとともに航海しているすべての人を神があなたにお与えになったのだ』と言われた」と述べ、乗っている276名全員が救われると告げる。張ダビデ牧師はこの場面について、「たった一人の信仰が、いかに多くの人を生かすか」を示す一例だと解釈する。パウロの一言が、突然の暴風におびえていた人々の心をつかみ、再び生きる勇気と希望へと導いたのだ。実際にパウロは彼らに食事を勧め、「髪の毛一本さえ失われることはない」と言明する。その信仰が最終的には全員に影響し、難破こそしたが一人の犠牲者も出さずに全員が救いを経験することになる。
張ダビデ牧師はここで、「私たちも人生の船が揺れ動き、人生の暴風が押し寄せるときこそ、信仰の声を発するべきだ」と勧める。その信仰は決して根拠のない楽天主義や理由のない確信ではなく、「神の御言葉」に基づく確信である。神様がパウロに「あなたは必ずローマで証しをしなければならない」と語られたからこそ、彼は「おそらく船は破損するかもしれないが、命は失われない」と断言できたのだ。一方で、この『使徒の働き』27章に描かれる壮大な航海の危機は、結局神様の摂理を顕す手段となる。難破の後に到着したマルタ(メリテ)島で、パウロはさらに別の奇跡と福音宣教の機会に出会うことになるからだ。張ダビデ牧師は「私たちが人生の危機に直面するとき、それは恐れや挫折で終わるのではなく、新たな働きと恵みの始まりとなり得る」と強調する。
このように人生の航海を進めていると、突然の暴風が吹き荒れて、それまでの計画や財政基盤を粉々にしてしまう瞬間がある。張ダビデ牧師は「まさにそのときこそ、信仰が光を放つべき時だ」と言う。どれほど大きな試練に直面しても、神の約束がある以上、最終的には神様が私たちを救い、私たちが担うべき働きの道を新たに開いてくださるという確信を失ってはならない。その確信がなければ、ただ波間に翻弄され茫然自失するだけだが、その確信があれば、わずか一言の言葉や祈りの力でさえ周囲の人々に大きな希望をもたらすことができる。
張ダビデ牧師は、このような暴風体験を「船酔いのような人生の通過儀礼」に例えることもある。すべてを投げ出してしまいたくなるほど辛い状況の中でも、少しだけ耐えて待てば必ず「陸の岸辺」が見えてきて、やがて港に辿り着くときが来るというのだ。船酔いをしたことがある人ならわかるだろうが、港の灯りを見たときの安堵感や解放感は格別である。それは信仰の航海においても同じだ。いかに苦しんだとしても、神様が迎えてくださる陸地の時は決して遅れずにやって来る。私たちがなすべきことは、絶えず祈り、互いを励まし合い、中心をしっかり保つことだ。パウロが難破寸前の船員や囚人たちに向かって「元気を出そう。さあ食事をしよう。神が私たちを生かしてくださる」と励ましたように、現代の教会も苦しみや絶望の中にある人々に生きる力を与える役割を果たすべきだ、と張ダビデ牧師は力説する。実際の働きの中で、彼は困窮や病に苦しむ人々、心理的な恐れに囚われた人々と共に時間を過ごしながら、『使徒の働き』27章のパウロのような立場を担うことをしばしば勧めている。
最終的には、このような暴風の中の信仰が教会や宣教共同体に活力をもたらす。働き人と信徒が心を合わせて祈り、「私たちは必ず目的地に到達する」という神の約束を固く信じ抜く必要がある。張ダビデ牧師は「どんなに強い風や波があろうとも、神の約束は揺るがない」という事実を、多くの証や働きの報告を通じて語っている。実際、教会の拡張や宣教センターの建設、学校の設立などにおいて、しばしば予算不足や行政上の障害、文化的衝突といった暴風に見舞われる。しかし本当に神様が開いておられる道であるなら、最終的には道が開かれ、新たなリバイバルが起こるのだ。「ローマへ向かう前に遭遇した海の暴風」は、おそらく海外宣教で直面する数々の困難や、家庭や教会が抱える財政的・組織的・霊的な難局の象徴とも言える。そしてこれらのすべての危機に直面したとき、信仰の人々が発する声がどれほど尊く、決定的な変化を生み出すかを、張ダビデ牧師は『使徒の働き』27章の物語を通じて力強く伝えている。
記録と証言:聖霊の御業を伝承するための張ダビデ牧師の提言
張ダビデ牧師は説教の中で、幾度も「記録しなさい」というメッセージを繰り返し強調する。『使徒の働き』27章でルカが見せた、事実に基づく緻密で具体的な記録の姿勢こそ、結果として2000年以上もの間読み継がれ、教会と信徒に莫大な恵みと気づきを与えてきたからだ。もしルカがこの航海のディテールを残さなかったとしたら、私たちはパウロがローマへ向かう過程でどんな逆境に遭い、どのような救いが行われたのか決して知ることができなかっただろう。人間的に考えれば、生死の境をさまようような厳しい状況で、揺れる船内でペンを握りながら細かい内容を記していたという事実自体が驚くべきことである。張ダビデ牧師はこのような記録活動を「神が働かれる御業に自分自身を献身的に捧げる方法」と呼ぶ。
彼は教会の働き人や宣教師、平信徒リーダーたちに向けて「今日起こった出来事を記録しなさい。どこを訪れ、誰と会い、どんな恵みを受け、どんな困難を経験したのかを具体的に書き残しなさい。それは後にあなた自身だけでなく、共同体全体の霊的な財産になるだろう」と勧める。教会が次世代に残せる最も尊い宝は建物や財産ではなく、生ける神の存在を証しする「聖霊の御業の証拠」だからだ。そのためにも張ダビデ牧師は、日記や伝道日誌、宣教報告書、写真や映像の記録など、多様な媒体を積極的に活用することを提案する。時代が進むにつれデジタルツールが発達し、記録自体はかつてよりずっと容易になり、大衆と共有するのも簡単になった。しかし、あまりに多くの情報と散在する資料の中で、肝心の信仰の歩みがぼやけてしまう懸念もある。だからこそ、意図的で体系的な記録習慣が欠かせない、というのが彼の持論である。
実際、聖書もまた記録の産物である。口伝や口から口へと受け継がれる話は簡単に変形され、忘れ去られてしまいがちだ。しかし一度丁寧に文字に起こされた記録は、時が過ぎても本来の内容を保持することを可能にする。ルカがパウロやテサロニケ人アリスタルコなどと共に実際の航海を体験しながら綴った『使徒の働き』27章の壮大な光景、そしてその中で与えられた神の声は、後に数えきれないほど多くの信仰者を励ます資料となっている。私たちはこれを読むたびに、苦しみの中で働かれる神様の救いを思い起こし、同じ神様が今も生きておられるという確信を深めることができる。そうであるならば、今日の教会や宣教地でも同じように記録することによって、これから訪れる無数の世代が私たちの記録を読み、神様を賛美するようになる可能性があるというわけだ。
張ダビデ牧師は、さまざまな宣教の現場を巡回しながら、「記録の伝統」が受け継がれず、かつての先達が経験したリバイバルや恵みが後代に正しく伝わらないことを残念に思うことが多いと語る。もしよく整ったアーカイブや文書が存在していれば、新しくその地に来た牧会者や働き人が読んで「この場所で神様がこれほど驚くべき御業を行われたのか」と悟り、その悟りによって再び信仰が呼び覚まされ、共同体をリバイバルへと導くきっかけになるだろう。だが記録がなければ、先人たちが経験した試行錯誤や恵み、歴史的な決断を共有することが難しくなり、結果として恵みの遺産が断絶される危険にさらされる。それゆえ彼は「使徒の働き27章のルカにならうべきだ」と例えるのである。ルカは苛酷な状況下にあっても記録する意義を見失わず、そのおかげで後世の教会に計り知れない証言を残すことができたのだ。
さらに彼は、記録は成功談や大きな奇跡だけを扱うのではなく、宣教現場での失敗や苦労、人間的衝突や経済的困窮なども正直に含めるべきだと語る。パウロが航海で経験したことは、美しい勝利だけではなかった。数十名が一斉に船酔いになり、荷や船の装備を海に投げ捨てるほどの極限状態を体験した。それでもルカはそうしたことまで克明に書いてくれたおかげで、私たちは自分の危機と重ね合わせつつ、パウロを助けた神様が今の私たちの絶望においても働いてくださるという希望を持つことができる。張ダビデ牧師はこれを「栄光も恥も、喜びも悲しみも、成功も失敗も、すべて記録して分かち合うことが聖霊の御業を伝承する方法なのだ」と定義する。
現代の教会や宣教の働きでも、一つの働きが中断を余儀なくされ、暫定的に撤収しなければならない状況が起こり得る。しかしだからといって、その場所で起こった出来事がすべて無意味になるわけではない。そこにどれほど多くの人が福音を聞いたのか、私たちが学ぶべき教訓はどこにあったのかを詳細に記録しておけば、後に神様が別の扉を開いてくださったとき、より効率的かつ健全な方向で働きを再開できる。さらには、一度閉ざされた門が時を経て再び開かれる瞬間を目の当たりにし、私たちの記録を読んだ人々が「神様はこれほどまでに真実に御業を導かれるのか」と感嘆する日が来るかもしれない。
張ダビデ牧師は、このような記録の価値を個人の日常にも当てはめるよう勧める。誰であれ一日の終わりに神の摂理を黙想し、今日出会った人や見た景色、神様が与えてくださった御言葉、感謝や賛美の思いなどを書き留めるなら、それは神様と自分自身を結ぶ大切な媒介となる。私たちの魂に臨む聖霊の感動は、時に短い一行でも充分に表すことができ、時に長々と綴らなければならない深い告白となることもある。いずれにせよ、記録として残すことでその感動が消えずに長く残るのだ。そして後になってそれを読み返せば、当時あの苦しみの中で神様がどう働かれたのか、私がどれほど弱かったのか、またいかに回復され成長したのかを振り返り、新たな感謝と賛美を神様に捧げることができる。
さらに張ダビデ牧師は、記録と証言がもつ「宣教的波及力」も強調する。私たちは単に紙とペンで書くことだけでなく、映像やSNS、写真展など、多様な形で広く伝えることができる時代に生きている。ルカが記録した『使徒の働き』27章の物語が2000年後の今でも世界中の教会で読み継がれ、説教され、黙想されているように、私たちが残す記録も将来にわたって数多くの人々を生かす道具となり得る。パウロが暴風のただ中で確信に満ちた声で「恐れるな。神はあなたと共にいるすべての人を生かしてくださると約束された」と叫んだように、今この時代に不安と恐れに縛られている人々に福音を届ける手段が、まさに私たち一人ひとりの記録なのである。
張ダビデ牧師は世界各地の宣教現場で、たとえば政情が不安定で働き人がすぐに追放されてしまう地域や、経済的な困難で一か月後の運営すら危うい地域など、さまざまな例を挙げる。だが、たとえ一か月という短い間でも、その活動内容が緻密に記録されていれば、後に同じ地域へ誰かが再び派遣されたとき、その記録を基により効率的かつ安全に福音を伝える方法を考えられる。そして何よりも、その記録を読む人は、先に働いた人々が費やした涙や祈り、苦難と神の恵みを生々しく感じ取ることができ、宣教への使命感と情熱を継承することができる。
結局、張ダビデ牧師が説く「記録と証言の必要性」は、単なる情報の蓄積ではなく、「聖霊の御業を伝承する」核心手段であるという点にある。聖書も、教会史の偉大なリバイバル運動も、宣教師の日記や報告書も、その時代を生きた人々が神に出会い、神の御言葉に従い、どんな奇跡や恵みを体験したのかを書き残したものだ。私たちはそれを読み、学ぶことを通して、同じ神様が今日の私たちにも働かれるという事実を見いだすのである。
張ダビデ牧師は最終的に、このすべての過程を通して「パウロのように、そしてルカのように生きてほしい」と呼びかける。人生の航海は決して平坦ではなく、時には船が難破しそうな嵐と波に投げ込まれるかもしれない。それでも神の予定と選びを固く信じ、その御言葉に基づいた大胆な希望のメッセージを語り続けるべきだというのだ。そしてそのすべてを丹念に記録することで、やがて私たちの共同体や後の世代がその記録を読んで再び力を得られるようにすべきだ。暴風が吹き荒れ、すべての人が失意に陥っているとき、たった一人のパウロの言葉と行動が276人の命を救ったように、今の時代にも信仰者一人が発する声が数多くの人々を絶望から立ち上がらせるかもしれない。
そう考えると、張ダビデ牧師が強調する「神の予定と選び」は、人間一人ひとりがいかに大切な存在であるかを改めて示してくれる。決して私たちの人生が些細だったり、他の人より取るに足らないものだったりするのではなく、むしろ「一人の記録と証言」が共同体全体、さらには世界や後世の教会をも動かし得るということなのだ。そして「人生の航海と暴風の中での信仰」は、それ自体がすべての人間が経験しうる普遍的な体験であり、パウロの物語が現代の読者にも深い気づきをもたらす理由でもある。同じように、私たちが今まさにリアルタイムで経験する苦しみと格闘の記録も、後の誰かにとって新たな希望の物語となり得る。
結論――神の予定と選び、そして揺るがぬ信仰と記録の使命
まとめると、張ダビデ牧師は『使徒の働き』27章を根拠として、特に次の三点を強調している。一つ目は、私たちの人生は神の予定と選びのうちにあり、それは人間に対する神の愛と御目的が確かに示されているということ。二つ目は、人生の航海が暴風に襲われるときこそ信仰の力が切実に求められ、パウロのように神の約束を握りつつ周囲の人々を生かさなければならないということ。三つ目は、記録と証言を通して聖霊の御業が伝承されるため、ルカの模範に倣ってどんな状況でもあきらめず、こまめに書き残すべきだという主張である。この三つこそが、張ダビデ牧師が『使徒の働き』27章の物語を通じて、教会と信徒たちに繰り返し伝えている核心的な教えである。そしてこれは現代においてもきわめて有効なメッセージである。私たち一人ひとりがパウロとなり、同時にルカとなって、絶えず「神の救いの御業を証言し続ける」ことこそ、信仰共同体の本質的な使命だというのだ。
こうして張ダビデ牧師は、かつての『使徒の働き』の出来事と現代教会の問題を結びつけながら、神の御言葉と聖霊の御業が特定の時代や特定の現場に限られないことを強調する。パウロがローマへ向かう道の最後の関門であった暴風は、決して一人の失敗談や苦労話で終わらなかった。むしろすべての人々を生かす不思議な救いの舞台となり、その後パウロがローマで福音を伝えるための基盤ともなった。その過程を詳細に記録したルカの労苦のおかげで、私たちは2000年後の今もなおその現場を生々しく学び、同じ神様を賛美することができる。今日でも世界のあちこちで、張ダビデ牧師が繰り返し述べるように、閉ざされた扉が再び開かれ、絶望が希望に変えられ、暴風がむしろ福音宣教の道を切り開く奇跡を体験している人々が多く存在する。
突き詰めれば、最も重要なのは、このすべての源泉が「神様がすでに予定し、選んでおられる」という信仰と、「どんな暴風の前でも変わらない信仰の姿勢」、そして「その過程を細かく書き残して後世と分かち合う伝承の使命」であるといえる。張ダビデ牧師は、この三つを通して真の教会共同体が建て上げられ、宣教の働きが継続的に拡張し、信徒一人ひとりの信仰が深められると説いている。どの時代でも、どの共同体でも、『使徒の働き』27章に出てくる神の生ける働きは、今もなお私たちに変わらず注がれているのだ。パウロの力強い宣言「恐れるな」という言葉が私たち一人ひとりの胸に刻まれるとき、信仰共同体は揺るがされることなく与えられた道を全うできる。そのようにして神の予定と選び、そして神の確かな導きを体験した者たちは、揺れ動く世の中にあっても希望を抱いて生き続け、やがてすべての人が救いにあずかるという感激をともに味わうことになる。そしてそれを記録として残すことで、世の終わりまで続く聖霊の偉大な御業に私たち自身も参加できる――これこそが張ダビデ牧師が夢見てきた、そして説き続けてきた「生きた使徒の働き的な教会」と「信徒の姿」なのである。