信仰と恵みによる救いの本質の回復 – 張在亨牧師

主題1:救済論の基盤 ― 律法と約束の関係

張在亨牧師はガラテヤ人への手紙3章を注解していく中で、「律法」と「約束(契約)」という二つの柱を通じてキリスト教の救済論の核心を明確に示している。ガラテヤ3章では、パウロがガラテヤ地方の異邦人信徒たちに向けて、偽教師たちが主張する「律法の遵守による救い」という誤った教えを反駁し、アブラハムに与えられた“約束”が律法に先行していること、そして究極的に救いは神の約束と、それを信じる信仰によって成し遂げられるものであることを強調している。

張在亨牧師はこのテーマを扱うにあたり、まず聖書全体の大きな流れを提示する。創世記12章でアブラハムが召された時点から始まったこの約束は、新約に至りイエス・キリストを通じて完全に成就される。そしてこの約束による義認の道は、アブラハムの時代からすでに開かれていたことを示す。アブラハムは律法が与えられる430年前に神を信じ(創15:6)、神はその信仰を彼の義と見なされた。すなわち、律法が登場する遥か以前からすでに「信仰によって義とされる」という救いのパラダイムが存在していたということだ。

一方、律法は出エジプト後、シナイ山で結ばれた契約によって与えられたが、これはアブラハム契約(約束)を無効化したり変更したりするためのものではなかった。張在亨牧師の解説によると、パウロはガラテヤ3章19節で「罪過のゆえに加えられたもの」として律法の機能を語っていることに注目する。すなわち律法は、人が自らの罪を罪として認識するようにし、人間の罪深さを赤裸々に示すことで、どれほど徹底的に人は無力であるかを悟らせる役目を担うのだ。律法のもとに閉じ込められているという表現は、決して自由を奪うためや人間を抑圧するためではなく、キリストが到来されるまで罪人である人類を保護し、その罪を自覚させる「養育係」(ガラ3:24)の役割を果たしてきたことを意味している。

だからといって張在亨牧師は律法そのものを否定しているわけではなく、律法が本来の救いの手段ではなかったという点を強く主張する。律法には人を救いに導く力は全くなく、ただ罪を定義し、人が自力で義を成し得ないことを悟らせる役割しかない。それに対し、約束はまったくの神の主権による一方的な恵みを示している。アブラハム契約は律法に先立ち、この約束は「キリスト」というただ一人の子孫を通じて成就される。約束は人類が罪から解放され、神の御前に近づくための根本的な枠組みであり、律法はその約束の到来まで私たちを導く家庭教師として機能したにすぎないのだ。

こうして張在亨牧師は、聖書全体が指し示すのは、人間の救いが「行い」ではなく「信仰」、より正確に言えば「約束への信仰」によってもたらされるという真理であり、これこそ福音の核心であると説く。この核心を見失うと律法主義に陥って十字架の恵みが霞み、結果的にキリスト教信仰の本質が損なわれてしまうと警告する。

主題2:アブラハム契約とキリストによる義とされる道

アブラハム契約は救いの起源となる。張在亨牧師は、アブラハムが律法以前に神から義と認められる出来事(創15:6)に注目する。子どもがいなかったアブラハムに対して、神は空の星のように子孫を増やすと約束された。アブラハムがこれを信じたとき、神はその信仰を彼の義と見なされたのである。これは律法の遵守や行いによって義とされるのではなく、ひたすら約束を信頼する信仰によって義が認められるという「新しいパラダイム」の幕開けであった。そして信仰、約束、恵みへとつながるこのパラダイムは、イスラエルの歴史を経てイエス・キリストによって完成される。

張在亨牧師は、パウロがガラテヤ3章やローマ書、ヘブル書でこの点をいかに論証しているかを詳説する。パウロはアブラハム契約における「子孫(子)」が多数ではなく「一人」を指す(ガラ3:16)と言及し、その子孫がイエス・キリストであると明示する。そしてキリストを通じて、この約束は全人類へと拡大していく。そう見ると、アブラハム契約は単なるユダヤ民族だけの特殊な契約ではなく、人類全体を罪から救おうとされる神の世界史的計画であったことが分かる。

この「子孫」であるキリストを通じて表れる福音の核心は「信仰による義」である。律法では不可能だった罪の問題の解決が、キリストの内において成し遂げられたのだ。アブラハムが契約を通じて信仰により義とされたように、私たちもイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められる道があらゆる民族に開かれた。そこにはユダヤ人・異邦人の区別はなく、割礼や律法的行為からもたらされる救いでもなく、ただキリストの十字架と復活による恵みによって与えられる救いなのである。

張在亨牧師はこれを「恵みに始まり、恵みによって完成される救いへの道」と解釈し、アブラハム契約はその出発点であり、また前兆であることを示す。アブラハムに与えられた契約が約束としての恵みであったように、私たちがキリストにあって受け取る義も同じ原理で動いている。かくして教会は、全人類を包含するアブラハムの子孫の共同体となり、各信徒はキリストの義にあずかって神の家族、すなわち子どもとしての身分の変化を経験することができるのだ。

主題3:信仰による義とされることと、律法遵守の不可能性

信仰の核心は「罪人の義とされる」ことであり、その義を得る方法は律法の遵守ではなく信仰である。張在亨牧師は、律法が「これをしなさい」「これをしてはならない」と無数の規定で罪をはっきり定義する一方、人間がその律法を完全に守ることは不可能であると強調する。これはイエスの教えからも見て取れる。イエスは「情欲を抱けばすでに姦淫を犯したも同然」と言い、律法の基準を心の領域にまで広げられた。つまり人は行いのレベルだけでなく、心や思いに至るまで完璧に従わなければならないわけだが、現実的にはそれは不可能に近い。ここで律法は、人間に越えられない高い壁として立ちはだかり、律法によって義を得ようとする試みは最終的に挫折に終わってしまう。

パウロはこれを「すべての人を罪の下に閉じ込めた」(ガラ3:22)と表現している。律法はあたかもすべての人を“罪という牢獄”に入れ、そこから自力では絶対に脱出できないことをはっきり示す。これによって、律法が本当の意味で救いの手段ではなく、罪を浮き彫りにする役割であることが明白になるのだ。ここでこそキリストの福音が光を放つ。信仰によって罪の鎖を断ち切ることができ、信仰によって律法が完全に暴き出す罪の責めから自由になることができる。これは「ただ信仰によって生きる」(ハバクク2:4)という旧約の預言者ハバククの言葉とも響き合い、パウロが救済論の根幹として扱う主要な真理でもある。

張在亨牧師はこの段階で、信仰の本質を強調する。信仰とは単なる知的同意や感情の動きではなく、「私のために十字架にかけられたイエス・キリストを全幅で信頼し、拠り頼む」ことである。その信仰によってキリストの義が私に転嫁され、私は神の御前に義とされた者として立つことができる。このとき、義とされた者はもはや律法の下で重圧を感じ続ける必要はない。彼はすでに子どもの身分を得て、自由と喜びのうちに神に仕えることが許されるのである。

このように張在亨牧師は、信仰による義の原理を明確に提示することで、律法遵守による救済を目指すあらゆる試みを修正する。そしてその修正こそが教会共同体に福音の本質を回復させ、人間的な努力や善行によって救いを得ようとする試みを捨てさせ、ただ恵みと信仰に基づいた真実な福音的な生き方を実践させる原動力となるのだ。

主題4:聖霊による聖化と自由

義とされるに至った信徒は、単に身分が変わるだけではなく、実際の生活にも変化が生じる。張在亨牧師はここで聖霊の働きを強調する。律法と約束の関係、義とされることの原理に続いて、聖霊による聖化の過程こそ信仰の結実であり、実りである。ガラテヤ5~6章やローマ8章は、信仰によって義とされた信徒に、新たな生き方を示す聖霊の役割を語る重要な本文だ。

聖霊は信徒の心に内住することによって、人間の力では不可能な変化を可能にする。律法の下では罪の習慣を絶つこともできず、貪欲や情欲といった内面的な罪を取り除くこともできなかったが、聖霊が内住することで、心の深い部分から変革が始まる。聖霊は神の律法を私たちの心の板に刻み(エレミヤ31:33, ヘブライ10:16)、善き行いや正しい生き方が自然に溢れ出てくるよう導く力の源となる。

張在亨牧師は、聖化の過程において聖霊がもたらす「内的自由」を特に強調する。もはや信徒は律法に強制されて圧迫を受け、罰を恐れていやいや善を行う者ではない。彼は子どもとして、自由な神の子として、愛と感謝を動機として神に従うことができる。聖霊によって人は解放され、その自由によって人を愛し、仕え、善行を為すようになる。ここに律法主義的なアプローチとの本質的な違いがある。かつては外面的な規律を守ろうと必死だったが、今は聖霊によって内面が変革され、自発的に神に喜んで従う生き方を送れるのだ。

さらに聖霊による聖化は個人的な変化にとどまらず、共同体や宇宙的次元の回復ともつながっていく。張在亨牧師はローマ8章と合わせて、「被造物が神の子どもたちの現れを待ち望んでいる」という宇宙的回復に言及する。聖霊の働きによって信徒はついには被造物の解放に参加するようになり、ガラテヤ5章22~23節に示される聖霊の実は、キリストの御姿に倣うプロセスとして実り、最終的にすべての創造の秩序を回復する神の計画に加わる道となるのだ。

主題5:一つとなる神学 ― ユダヤ人と異邦人の隔ての壁を取り壊す

救済論と聖霊論、そしてアブラハム契約を通した信仰の原理に基づき、張在亨牧師は教会共同体の一体性に注目する。ガラテヤ3章の終わりでパウロは「ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、男も女も皆キリスト・イエスにあって一つである」と宣言する(ガラ3:28)。これは単に個人の救いにとどまらず、共同体レベル、そして宇宙的次元で福音がもたらす統合と和解の力を示す中心的な言明である。

張在亨牧師は、これによって教会の内部において、人種的、社会的、性別的な差別はもはや容認されないという真理を強調する。律法主義者たちは異邦人に割礼を強要し、ユダヤの文化を押し付けることで救いへの道を狭めようとしたが、パウロはアブラハム契約が本質的に国際的、かつ全人類的な性格を持つ約束であると再解釈した。アブラハムの契約は「一人の子孫」イエス・キリストを通じて全世界に拡大し、この結果、異邦人であっても信仰によってアブラハムの子孫となる恵みにあずかることができるようになったのである。

この「壁を取り壊す」神学は、エペソ書2章14~16節の「隔ての壁を打ち壊す」という主題とも響き合う。律法的な境界、民族的な排他性、文化的な障壁はイエス・キリストにおいて崩される。教会は多様な背景を持つ人々が、一つの信仰、一つのバプテスマ(エペソ4:5)、一つの福音のもとに集まり、神の家族を形作る場所である。そしてこの一体性は単なるスローガンではなく、互いを歓迎し愛し仕える共同体的実践を要求する。

張在亨牧師は、この一体性のビジョンを通じて、福音が単に個人の魂の救いにとどまらず、社会的関係を変化させ、人類の和解と平和をも追求する力を持つことを示している。福音は地理的・民族的・文化的境界を飛び越え、対立や憎悪を和解と赦しに変える力を持っている。それこそが張在亨牧師が強調する教会の宇宙的使命の一つであり、アブラハム契約が最終的に実現する「約束の地」は霊的な意味において、すべての信じる者が共に住む神の国へと拡張されていくのである。

主題6:終末論的回復と教会の使命

最後に張在亨牧師は、ここまでの議論を終末論的な展望へと導く。アブラハム契約から始まった約束は、イエス・キリストを通じて信じる者に義を与え、聖霊の内住によって聖化の道を歩ませていく。そして同時に、人類全体と宇宙規模の回復が待ち望まれているが、それは終末論的な希望と結びついている。被造物は神の子どもたちの現れを待ち望み(ローマ8:19)、被造物すべてが神を讃え「聖なるかな、聖なるかな」と叫ぶ黙示録の栄光の礼拝の姿(黙示録4章)は、律法によっては決して到達し得なかった究極の目的地である。これは救いが単に人間個人の内面の問題解決に終わらず、全宇宙的スケールの回復をも包含していることを意味する。

この終末論的展望の中で、教会の使命が再び照らし出される。張在亨牧師によれば、教会が「ほかの福音」を伝えたり、律法主義に陥ったりすると、十字架の力が霞み、救いの本質が薄れてしまう危険があると指摘する。異端的教えや間違った律法主義的な強調、文化的排他性などは、最終的に教会を福音の命から遠ざけ、主が本来意図された完全な回復と希望を曇らせてしまうというのだ。

一方で、教会が真の福音をしっかりと守り、信仰によって義とされる喜びと自由を味わうならば、教会はこの地上を一時的な宿としつつも、「約束の地」である天の都を目指す巡礼の共同体としての姿を確立する。その過程で教会は、やがて到来する神の国を先取りして証しする。聖霊による変革された生き方と共同体を通じ、すでに神の国の痕跡が現れ、多くの人々が永遠の命の道、信仰の道、恵みの道を見出すようになる。

終末論的回復を待望する教会は、現在この地上で福音を通じて律法と罪の束縛から自由を享受し、その自由によって奉仕と愛を実践し、神の国の価値を具体化する生き方を目指す。張在亨牧師は、教会が福音の本質に忠実であるとき、この地上の巡礼の旅が一過性のものに終わらず、永遠の約束の地へ向かう信仰の道を最後まで走り抜くことができると強調するのである。

この終末論的希望の中で、約束と律法、アブラハムとキリスト、信仰と義とされること、聖霊と聖化、そして共同体的な一体性と宇宙的回復がすべて結びつく。すべてがキリストにおいて一つとなり、キリストを中心に教会は約束された栄光の結末、すなわち永遠の神の国を仰ぎ見る。その国は律法の遵守や人間の功績によってではなく、ただ恵みと信仰によって入ることができる場所であり、教会はこの真理を世に大胆に告げ知らせる福音の使者となるのである。

結び

張在亨牧師がガラテヤ3章を中心に展開する救済論的解説は、聖書全体を視野に収める幅広い神学的洞察を含んでいる。律法と約束の関係を通じ、神の恵みがどれほど以前から備えられていたか、そしてアブラハム契約によって信仰による義認のパラダイムがすでに定められていたことを明らかに示す。律法は救いの手段ではなく罪を悟らせる役目を担い、救いはただキリストを通じた信仰によって与えられる。こうした信仰のうちで、聖徒は聖霊によって聖化され、自由が与えられ、ユダヤ人と異邦人、男女の区別を超えて一つとなる共同体を築いていく。そしてこの一体性は、宇宙的回復へと続く終末論的希望を映し出す。

結局のところ、張在亨牧師が強調するのは福音の絶対的な重要性と純粋性である。「ほかの福音」の危険から逃れ、イエス・キリストの十字架と復活、そしてそこから与えられる救いの約束を信仰によって受け取ることが、キリスト教信仰の核心であることを繰り返し思い起こさせる。そのような神学的確立は、教会を律法主義的な枷から解放し、自由に神を礼拝し、聖霊に従って愛と仕え合う生き方へと導き、最終的に天を目指す巡礼者としての使命を全うさせるのだ。こうして教会は約束どおりの相続人として神の栄光あるご計画に参与し、この時代に真の福音の光を放つことになるのである。

Recovering the Essence of Salvation through Faith and Grace – Pastor David Jang

Theme 1: The Foundation of Soteriology – The Relationship Between Law and Promise

In his exposition of Galatians 3, Pastor David Jang pinpoints the core of Christian soteriology by focusing on two pillars—“the Law” and “the Promise (Covenant).” In Galatians 3, the Apostle Paul addresses the Gentile believers in the Galatian church, refuting the false teaching that “salvation can be attained by observing the Law.” Instead, Paul underscores that the promise (covenant) given to Abraham predates the Law and that salvation ultimately rests on God’s promise and our faith in that promise.

Pastor David Jang first presents an overarching biblical narrative. The promise that began with Abraham’s calling in Genesis 12 is fully realized in the New Testament through Jesus Christ, showing that the path to being declared righteous by faith was already available in Abraham’s time. Before the Law was given, Abraham believed God (Gen. 15:6), and that faith was counted to him as righteousness. This indicates that long before the Law was instituted, there existed a paradigm for salvation based on “justification by faith.”

The Law, given to Israel through the Sinai Covenant following the Exodus, was never meant to nullify or replace the Abrahamic Covenant (the Promise). According to Pastor David Jang’s interpretation, Paul clarifies the function of the Law by stating it was “added because of transgressions” (Gal. 3:19). In other words, the Law exposes sin for what it is, revealing humanity’s complete helplessness before God. Being “held in custody under the Law” does not signify oppression or loss of freedom; rather, the Law functioned as a “guardian” (Gal. 3:24) until Christ came, protecting humanity in its sinful state while leading people to recognize their guilt before God.

Pastor David Jang does not deny the Law’s significance. Instead, he stresses that it was never intended to be the foundational means of salvation. The Law cannot save; it merely defines sin and helps us realize our inability to attain righteousness on our own. By contrast, the Promise conveys God’s sovereign, unilateral grace. The Abrahamic Covenant existed prior to the Law, and it is ultimately fulfilled in the “one seed,” Christ. It is this promise that opens the way for humanity to be liberated from sin and to draw near to God, while the Law was a tutor meant to guide people until the Promise arrived.

Hence, Pastor David Jang emphasizes that Scripture as a whole testifies to salvation as coming not from “works” but from “faith”—specifically, faith in the Promise. This is the very heart of the gospel. Losing sight of this core leads to legalism, dulling the power of the cross and ultimately subverting the essence of the Christian faith.

Theme 2: The Abrahamic Covenant and Justification through Christ

The Abrahamic Covenant constitutes the origin of salvation. Pastor David Jang highlights the pivotal moment when Abraham, prior to the Law, was pronounced righteous (Gen. 15:6). Even though Abraham was childless at the time, he received God’s promise that his descendants would be as numerous as the stars. When Abraham trusted that promise, God counted his faith as righteousness—fully apart from the Law or any human merit—introducing a fresh paradigm based on faith, promise, and grace. This paradigm gradually develops through Israel’s history and culminates in Jesus Christ.

Pastor David Jang then explains Paul’s argument in Galatians 3, along with Romans and Hebrews. Paul identifies the “offspring” mentioned in the Abrahamic Covenant not as many but as “one” (Gal. 3:16). That singular “seed” is Jesus Christ, through whom the promise extends to all humanity. Thus, the Abrahamic Covenant is not merely a specialized covenant for the Jewish people but God’s overarching plan for redeeming all people from sin.

The heart of the gospel displayed in this “one seed,” Christ, is the righteousness imparted by faith. While the Law could not solve the sin problem, Christ’s atoning work does. Just as Abraham was justified by faith in God’s promise, so also anyone can now be justified by faith in Christ—a reality open to every nation and people group. Salvation is not achieved through circumcision or legalistic acts; it springs solely from the grace made possible by the cross and resurrection of Christ.

Pastor David Jang refers to this as the “way of salvation initiated and completed by grace,” with the Abrahamic Covenant as the starting point or foreshadowing of that journey. Just as Abraham’s covenant was given by grace through a promise, our justification in Christ functions on the same basis. Consequently, the church emerges as the extended family of Abraham, made up of every tribe and tongue, and each believer, now cloaked in Christ’s righteousness, experiences a new identity as a child of God.

Theme 3: Justification by Faith and the Impossibility of Keeping the Law

At the core of faith lies the principle of “justifying sinners,” and the method for achieving justification is faith, not adherence to the Law. Pastor David Jang points out that while the Law establishes many commands—“Do this” and “Do not do that”—it is impossible for human beings to keep them all perfectly. Jesus clarifies this further by extending the domain of the Law to the thoughts and intentions of the heart, explaining that even lustful desire in one’s mind is equivalent to adultery. Therefore, the standard is absolute obedience not just in behavior but also in attitude—a feat no one can accomplish. As a result, the Law forms a massive barrier that humans cannot surmount, and any attempt to gain righteousness through the Law inevitably leads to despair.

Paul illustrates this by saying, “Scripture has locked up everything under the control of sin” (Gal. 3:22), suggesting that the Law essentially imprisons everyone in the cell called “sin,” proving that no one can escape solely by personal effort. This underscores that the Law, in the ultimate sense, is not a means of salvation; rather, it serves to unmask our sinfulness. Here, the gospel of Christ shines brightest. Through faith, we break free from the shackles of sin, liberated from the guilt the Law reveals. This aligns with the Old Testament prophet Habakkuk’s words, “The righteous shall live by his faith” (Hab. 2:4), which Paul frames as a cornerstone of his soteriology.

Pastor David Jang elaborates that genuine faith is more than intellectual agreement or emotional excitement; it is a complete surrender to Jesus Christ, who died for us on the cross. Through this faith, Christ’s righteousness is credited to us, enabling us to stand before God as righteous individuals. Having received justification, believers are no longer under the crushing demands of the Law but are granted the status of God’s children, able to serve Him freely and joyfully.

By clarifying justification by faith, Pastor David Jang dismantles all attempts to secure salvation through Law-keeping. This correction redirects the church to the essence of the gospel, eliminating any reliance on human endeavor or virtuous deeds for salvation. Instead, it paves the way for a life wholly rooted in grace and faith.

Theme 4: Sanctification and Freedom through the Holy Spirit

Justification is not merely a change in legal standing; it inaugurates a transformative process in daily life. At this stage, Pastor David Jang focuses on the role of the Holy Spirit. Building upon the relationship between Law and Promise and the principle of justification by faith, he shows that sanctification through the Holy Spirit forms the natural outworking of true faith. Galatians 5–6 and Romans 8 provide key passages describing how the Holy Spirit guides believers—now justified by faith—into new life.

Because the Holy Spirit dwells within believers, what was humanly impossible under the Law becomes possible. Under the Law, people could not fully extinguish sinful tendencies or uproot deep-seated desires like greed or lust. However, with the Holy Spirit’s indwelling, a profound, heart-level renewal begins. The Holy Spirit inscribes God’s law upon our hearts (Jer. 31:33, Heb. 10:16), serving as the very wellspring of divine power that leads believers to naturally practice righteousness.

Pastor David Jang highlights the “inner freedom” brought about by the Holy Spirit. Believers are no longer driven by external mandates, nor do they do good out of fear of punishment. Instead, they serve God as His children, motivated by love and gratitude. In the Holy Spirit, they discover true freedom, and by that freedom they love, serve, and perform good works. This stands in stark contrast to legalistic observance. Previously, one strove to meet outward requirements; now, the Holy Spirit shapes a believer from within, resulting in joyful, spontaneous obedience to God.

Moreover, sanctification by the Holy Spirit extends beyond individual growth to encompass community and even the cosmic order. Pastor David Jang references Romans 8, which depicts all creation eagerly awaiting the revelation of God’s children. Through the Holy Spirit’s work, believers will ultimately participate in the liberation of creation itself. The fruit of the Spirit (Gal. 5:22–23) exemplifies the process of growing into the likeness of Christ, aligning with God’s larger purpose of restoring the entire creation.

Theme 5: The Theology of Oneness – Breaking Down the Wall Between Jew and Gentile

Anchored in soteriology, pneumatology, and the principle of faith revealed in the Abrahamic Covenant, Pastor David Jang underscores the importance of the church’s unity. At the close of Galatians 3, Paul declares, “There is neither Jew nor Greek, there is neither slave nor free man, there is neither male nor female; for you are all one in Christ Jesus” (Gal. 3:28). This statement goes beyond individual salvation to highlight the unifying and reconciling power of the gospel in the community and ultimately in the cosmos.

Pastor David Jang emphasizes that no discrimination based on ethnicity, social status, or gender is permissible in the church. Legalistic teachers sought to confine salvation by forcing Gentiles to receive circumcision and embrace Jewish culture, but Paul reinterprets the Abrahamic Covenant as fundamentally universal. The Covenant is fulfilled in the “one seed,” Christ, and through Him it expands to every nation. Because of this, Gentiles also become the offspring of Abraham by faith.

This “breaking down the dividing wall” theology resonates with Ephesians 2:14–16, where Paul explains that Christ has dismantled the wall of hostility separating Jew and Gentile. Ethnic exclusivism, cultural barriers, and the boundaries of the Law give way in Christ. The church is the gathering place of diverse peoples united under one faith, one baptism (Eph. 4:5), and one gospel. This oneness is not a mere ideal but requires tangible acts of hospitality, love, and service within the community.

Through this vision of unity, Pastor David Jang shows that the gospel does not simply concern individual souls. It transforms social relationships, driving believers to strive for reconciliation and peace among all people. The gospel transcends geographical, ethnic, and cultural boundaries, turning animosity into forgiveness and harmony. Pastor David Jang holds that this “tearing down of walls” is a cosmic mission of the church, reflecting the ultimate fulfillment of the Abrahamic Covenant. The “promised land” is extended in a spiritual sense to God’s Kingdom, where all the faithful dwell together.

Theme 6: Eschatological Restoration and the Church’s Mission

Finally, Pastor David Jang draws these themes together from an eschatological perspective. The promise that began with Abraham and now justifies believers in Jesus Christ through faith continues in the sanctifying work of the Holy Spirit. Beyond this, the grand restoration of humanity and the universe awaits, linking these doctrines to an eschatological hope. Creation yearns for the revealing of God’s children (Rom. 8:19), and the majestic scene of heavenly worship in Revelation—where the entire cosmos shouts “Holy, holy, holy” (Rev. 4)—presents the ultimate destiny that human effort under the Law could never achieve. This indicates that salvation extends far beyond resolving internal human dilemmas and ushers in a cosmic-scale renewal.

In light of this eschatological hope, the church’s mission is put into focus. Pastor David Jang cautions that whenever the church proclaims a “different gospel” or becomes entangled in legalistic practices, the power of the cross grows faint, and the essence of salvation is undermined. Heretical teachings, extreme legalism, and cultural exclusivity detract from the life-giving core of the gospel and obscure the comprehensive hope and restoration intended by Christ.

However, when the church clings to the true gospel—finding joy and freedom in justification by faith—it stands as a pilgrim community traveling toward the heavenly city while still on earth. Through its journey, the church showcases the Kingdom of God ahead of time. By living in the Spirit and forming Spirit-shaped communities, glimpses of God’s Kingdom appear for the world to see, pointing people toward eternal life, the path of faith, and the way of grace.

A church animated by eschatological hope experiences freedom from the oppressive weight of sin and the Law, and it uses that freedom to serve and love, thereby manifesting the values of God’s Kingdom in the present. Pastor David Jang underscores that remaining faithful to the gospel’s core enables the church to continue steadily on the pilgrimage of faith, never faltering along the way to the promised heavenly homeland.

Within this eschatological vision, every dimension—from the Promise and the Law, to Abraham and Christ, to faith and justification, to the Holy Spirit and sanctification, and finally unity in the community and cosmic renewal—interlocks in Christ. At the center of it all, the church looks forward to the glorious conclusion of God’s plan: His eternal Kingdom. That Kingdom is neither gained by works nor Law-keeping but solely by grace and faith, and the church boldly proclaims this truth to the world.

Conclusion

Pastor David Jang’s soteriological reflections on Galatians 3 encompass wide-ranging theological insights that traverse the entire canon of Scripture. By examining the relationship between Law and Promise, he reveals how God’s grace was preordained long ago and how the model of justification by faith was already in place in Abraham’s day. The Law does not serve as a conduit to salvation; it merely uncovers sin, while true salvation is granted solely through faith in Christ. Anchored in this faith, believers are sanctified and liberated by the Holy Spirit, building a community where distinctions such as Jew and Gentile, or male and female, no longer divide. This unity then leads to an eschatological expectation of God’s restoration for the entire creation.

Ultimately, Pastor David Jang accentuates the crucial importance and purity of the gospel. He repeatedly warns against slipping into “another gospel,” urging believers to remember that the bedrock of Christianity is to receive the saving promise of Jesus Christ’s cross and resurrection by faith. This theological clarity frees the church from the chains of legalism, inspiring them to worship God freely, follow the Spirit’s leading in love and service, and continue the pilgrim journey toward heaven. In so doing, the church inherits the promise and participates in God’s glorious plan in this present age, beaming forth the light of the true gospel for all to see.

Recuperación de la esencia de la salvación a través de la fe y la gracia – Pastor David Jang

Tema 1: El fundamento de la soteriología – La relación entre la Ley y la Promesa

Al exponer Gálatas 3, el pastor David Jang ilumina el cimiento de la soteriología cristiana mediante dos pilares: la “Ley” y la “Promesa (Pacto)”. En Gálatas 3, Pablo refuta, dirigiéndose a los creyentes gentiles de Galacia, la falsa doctrina que proclamaba la salvación por la observancia de la Ley. El apóstol subraya que la “Promesa” (Pacto) dada a Abraham precede a la Ley y que, en esencia, la salvación depende de la promesa de Dios y de la fe en ella.

Para abordar este asunto, el pastor David Jang muestra primero la perspectiva general de la Biblia. La promesa que inicia con el llamado de Abraham en Génesis 12 se cumple plenamente en el Nuevo Testamento por medio de Jesucristo. Así se evidencia que la vía para ser justificado mediante dicha promesa existía ya en tiempos de Abraham, quien creyó en Dios 430 años antes de que se diera la Ley (Gn 15:6) y, por esa fe, le fue contada justicia. Mucho antes de la aparición de la Ley, por tanto, el paradigma de la “justificación por la fe” ya estaba en vigor.

La Ley se entregó tras el éxodo, mediante el pacto del Sinaí, pero no con la intención de anular ni modificar el pacto de Abraham. Según explica el pastor David Jang, Pablo recalca en Gálatas 3:19 que la Ley fue “añadida a causa de las transgresiones”, lo que significa que permite identificar el pecado como tal y exhibe cuán incapaz es el hombre ante Dios. La frase “encerrados bajo la Ley” no indica que ésta oprima o prive de libertad, sino que, hasta la venida de Cristo, actuó como “ayo” (Gá 3:24) para proteger a la humanidad pecadora y conducirla a la conciencia de su culpa.

El pastor David Jang no niega la Ley en sí misma, sino que insiste en que jamás fue el medio original de salvación. Carece de poder para salvar; únicamente regula el pecado y muestra que el ser humano no puede alcanzar la justicia por su propio esfuerzo. La Promesa, en cambio, refleja la gracia soberana y unilateral de Dios. El pacto con Abraham precedió a la Ley y se cumple en un único “descendiente”, Cristo. Esa promesa es la base para que la humanidad quede libre del pecado y se acerque a Dios, siendo la Ley el maestro que nos guio hasta que la promesa llegara.

De este modo, el pastor David Jang señala que la Biblia enseña cómo la salvación no proviene de las “obras” sino de la “fe”, es decir, de la fe en la Promesa. Tal es el núcleo del evangelio. Si se pierde de vista esta verdad central, se cae en legalismo, se debilita la gracia de la cruz y, al final, se desvirtúa la esencia de la fe cristiana.

Tema 2: El pacto de Abraham y la justificación a través de Cristo

El pacto de Abraham constituye el punto de partida de la salvación. El pastor David Jang subraya el acontecimiento en que Abraham fue justificado por Dios (Gn 15:6) antes de la Ley. Aun sin hijos, recibió la promesa de que su descendencia sería tan abundante como las estrellas, y al creerla, Dios se lo consideró justicia. Esto no sucedió mediante la Ley ni obras, sino que fue el fruto de la confianza en la promesa. Así nace un “nuevo paradigma” en el que fe, promesa y gracia confluyen, avanzando a través de la historia de Israel y llegando a plenitud en Jesucristo.

El pastor David Jang describe con detalle cómo Pablo articula esta idea en Gálatas 3, Romanos y Hebreos. Pablo interpreta que la “descendencia” del pacto de Abraham no designa a una multitud, sino a una sola persona (Gá 3:16). Ese descendiente es Jesucristo, por cuyo medio la promesa se extiende a todo el género humano. Visto así, el pacto con Abraham no es un tratado reservado a los judíos, sino el plan universal de Dios para redimir a la humanidad.

El núcleo de este evangelio nacido del “descendiente”, Cristo, consiste en la justicia que se alcanza por la fe. El problema del pecado, insoluble para la Ley, se soluciona en Cristo. Así como Abraham fue justificado por confiar en la promesa, ahora toda nación puede ser justificada creyendo en Jesucristo. Esto supera la barrera entre judíos y gentiles, evidenciando que la salvación no parte de la circuncisión o de las obras de la Ley, sino de la gracia que se deriva de la cruz y la resurrección de Cristo.

El pastor David Jang se refiere a esta realidad como “un camino de salvación que empieza en la gracia y culmina en la gracia”, indicando que el pacto de Abraham fue tanto el punto de partida como el anticipo de ese camino. Al igual que la promesa dada a Abraham fue un obsequio de gracia, también nosotros recibimos la justicia en Cristo con los mismos principios. Así, la Iglesia se convierte en una comunidad descendiente de Abraham que abarca a la humanidad entera, y cada creyente, revestido de la justicia de Cristo, adquiere un estatus de hijo de Dios e ingresa en Su familia.

Tema 3: La justificación por la fe y la imposibilidad de cumplir la Ley

El centro de la fe reside en la “justificación del pecador”, y esta se obtiene por fe, no por la observancia de la Ley. El pastor David Jang enfatiza que la Ley, al ordenar “haz esto” o “no hagas aquello”, define el pecado con nitidez, pero el ser humano es incapaz de obedecerla por completo. Lo vemos en las enseñanzas de Jesús, quien extiende la demanda de la Ley al interior, señalando que “cualquiera que mira a una mujer para codiciarla, ya adulteró con ella en su corazón”. Por tanto, no basta un cumplimiento externo, pues se exige la obediencia absoluta del corazón y la mente, algo inalcanzable para las capacidades humanas. Aquí la Ley se erige en un muro insalvable que frustra a quien intenta lograr la justicia a través de ella.

Pablo describe esta situación señalando que “la Escritura encerró todo bajo pecado” (Gá 3:22). Mediante la Ley, todos quedan atrapados en el pecado, sin poder liberarse por sus fuerzas. Así se revela que la Ley no actúa como vía de salvación, sino como manifestación del pecado. Ante esta realidad, brilla el evangelio de Cristo. Por la fe, se rompen las cadenas del pecado y uno queda libre de la culpa que la Ley exhibe. Esto coincide con la palabra del profeta Habacuc: “Mas el justo por su fe vivirá” (Hab 2:4), que Pablo toma como eje de su doctrina sobre la salvación.

El pastor David Jang resalta la naturaleza genuina de la fe. No se limita a la aprobación intelectual o a la emoción, sino que se basa en una confianza total en Jesucristo, quien murió en la cruz por nosotros. Por esta fe, la justicia (δικαιοσύνη) de Cristo nos es imputada, y nos presentamos justos ante Dios. Una vez justificados, ya no hay por qué soportar el peso de la Ley, pues hemos recibido la condición de hijos para servir a Dios con libertad y gozo.

Así, el pastor David Jang expone con claridad el principio de la justificación por la fe y corrige cualquier pretensión de salvación basada en la Ley. Tal corrección conduce a la comunidad cristiana a recobrar la esencia del evangelio y a desechar todo intento de alcanzar la salvación a través de esfuerzos o méritos humanos, inaugurando una vida genuinamente evangélica, sostenida por la gracia y la fe.

Tema 4: La santificación y la libertad por medio del Espíritu Santo

La justificación no sólo cambia el estatus del creyente; también transforma su vida cotidiana. El pastor David Jang pone de relieve el papel del Espíritu Santo en esta dinámica. Luego de comprender la relación entre Ley y Promesa, y el principio de la justificación, se abre paso a la santificación por el Espíritu: el fruto y plenitud de la fe. Gálatas 5-6 y Romanos 8 ilustran cómo el Espíritu Santo guía a los creyentes justificados a una existencia renovada.

El Espíritu Santo mora en el corazón de los creyentes, posibilitando una transformación inalcanzable por la fuerza humana. Bajo la Ley, los hábitos pecaminosos no pueden romperse, ni es factible erradicar pecados ocultos como la codicia o la lujuria. Sin embargo, con la presencia del Espíritu Santo, la transformación surge desde lo profundo. El Espíritu escribe la ley de Dios en la mente (Jer 31:33, Heb 10:16) y se convierte en el manantial de poder que produce, de manera natural, obras buenas y una existencia justa.

El pastor David Jang subraya la “libertad interior” que se experimenta en la santificación por el Espíritu. El creyente ya no está bajo el yugo de la Ley ni hace el bien para eludir castigos; ahora, como hijo de Dios, obedece por amor y gratitud. El Espíritu Santo concede libertad, y con ella, la posibilidad de amar, servir y practicar buenas acciones. Esto difiere esencialmente del enfoque legalista. Antes uno se esforzaba por observar normas externas; ahora, el creyente renovado por el Espíritu obedece de manera gozosa y espontánea.

Además, la santificación por el Espíritu no sólo conlleva un cambio individual, sino que se extiende a la restauración comunitaria y cósmica. El pastor David Jang conecta Romanos 8 con la esperanza universal que anhela “la manifestación de los hijos de Dios”. Por la obra del Espíritu, los creyentes colaboran en la liberación de la creación. El fruto del Espíritu (Gá 5:22-23) describe el proceso de asemejarse a Cristo, formando parte, en última instancia, del proyecto divino de restaurar todo lo creado.

Tema 5: La teología de la unidad – Derribando el muro entre judíos y gentiles

Basándose en la soteriología, la pneumatología y en la fe centrada en el pacto de Abraham, el pastor David Jang recalca la unidad de la Iglesia. Al cierre de Gálatas 3, Pablo declara: “Ya no hay judío ni griego, no hay esclavo ni libre, no hay varón ni mujer; porque todos vosotros sois uno en Cristo Jesús” (Gá 3:28). Este mensaje va más allá de la salvación individual y pone de relieve la fuerza de reconciliación y unidad que el evangelio ofrece a nivel comunitario y cósmico.

El pastor David Jang aprovecha este pasaje para enfatizar que, en la Iglesia, no hay cabida para racismo, barreras sociales ni discriminación de género. Los legalistas exigían a los gentiles la circuncisión y la adopción de la cultura judía, restringiendo su acceso a la salvación. Sin embargo, Pablo reinterpreta el pacto de Abraham como una promesa internacional y universal. Por medio del único “descendiente”, Jesucristo, el pacto se expande a todos los pueblos, permitiendo a los gentiles ser, por fe, herederos de Abraham.

Esta teología de “derribar muros” se vincula con Efesios, donde se menciona el muro de separación que fue demolido (Ef 2:14-16). Las divisiones legales, el nacionalismo excluyente y las brechas culturales se desvanecen ante Cristo. La Iglesia deviene el lugar donde personas de procedencias variadas se unen en una misma fe, un mismo bautismo (Ef 4:5) y un mismo evangelio, constituyendo la familia de Dios. Esa unidad no se queda en la teoría, sino que exige la acogida, el amor y el servicio concreto.

A través de esta visión de unidad, el pastor David Jang muestra que el evangelio no se circunscribe a la salvación del alma individual, sino que renueva las relaciones sociales y persigue la reconciliación y la paz de la humanidad. El evangelio traspasa fronteras geográficas, étnicas y culturales, transformando el odio y la enemistad en reconciliación y perdón. Éste es uno de los ministerios que el pastor David Jang resalta y, en sentido espiritual, el “lugar prometido” del pacto de Abraham se convierte en el Reino de Dios, donde habitan todos los que creen.

Tema 6: La restauración escatológica y la misión de la Iglesia

Por último, el pastor David Jang concluye enmarcando el tema en una perspectiva escatológica. La promesa inaugurada con el pacto de Abraham, que cobra vida en Jesucristo para justificar a los creyentes, y la santificación obrada por el Espíritu, apuntan hacia la restauración de la humanidad y de la totalidad de la creación. Esta esperanza se relaciona con la escatología: la creación entera aguarda la revelación de los hijos de Dios (Ro 8:19), y todo ser alaba y adora a Dios declarando “Santo, Santo, Santo” en la escena gloriosa de Apocalipsis 4, lugar al que la Ley nunca podría llevarnos. Esto implica que la salvación rebasa la cuestión individual del pecado y abarca la restauración universal.

Dentro de este horizonte escatológico, la misión de la Iglesia asume un nuevo realce. El pastor David Jang señala que si la Iglesia se desvía predicando un “evangelio diferente” o cayendo en el legalismo, la cruz pierde su potencia y la esencia de la salvación se desvanece. Las doctrinas heréticas, la insistencia excesiva en el legalismo y el exclusivismo cultural terminan por alejar a la Iglesia del poder vivificante del evangelio, empañando la promesa de restauración que Cristo dejó.

Por el contrario, cuando la Iglesia permanece firme en el verdadero evangelio y vive la alegría y la libertad de la justificación por la fe, se convierte en una comunidad peregrina que transita este mundo como morada temporal, con la vista puesta en la patria celestial. En esa trayectoria, la Iglesia da testimonio anticipado del Reino de Dios que se manifestará en plenitud. A través de vidas e iglesias transformadas por el Espíritu, se insinúan señales del Reino, invitando a la gente a descubrir el camino de la vida eterna, la senda de la fe y el sendero de la gracia.

La Iglesia que aguarda la restauración escatológica saborea ya la libertad del pecado y de la presión de la Ley, y con esa libertad sirve, ama y encarna los valores del Reino de Dios. El pastor David Jang subraya que si la Iglesia permanece fiel a la esencia del evangelio, avanzará con constancia en su peregrinación de fe hasta la Ciudad Celestial, sin caer ni detenerse.

En esta esperanza escatológica se enlazan todos los elementos: la Promesa y la Ley, Abraham y Cristo, la fe y la justificación, el Espíritu y la santificación, además de la unidad de la comunidad y la restauración del universo. Todo converge en Cristo, y la Iglesia, centrada en Él, contempla el glorioso destino prometido: el Reino eterno de Dios. Un Reino al que se accede no por la Ley ni por méritos humanos, sino tan sólo por la gracia y la fe, y cuya proclamación constituye la gran misión de la Iglesia.

Conclusión

La explicación del pastor David Jang sobre la salvación, basada en Gálatas 3, encierra amplias luces teológicas que atraviesan toda la Escritura. Mostrando la relación entre la Ley y la Promesa, expone la antigüedad de la gracia divina y el hecho de que el paradigma de la justificación por la fe ya estaba presente en la época de Abraham. La Ley no salva, sino que revela el pecado, en tanto que la salvación se obtiene únicamente mediante la fe en Cristo. Quienes creen en Él son justificados, reciben el Espíritu y gozan de libertad, formando parte de una comunidad unida que trasciende toda diferencia racial, de género o estatus social. Esta unión, además, presagia la restauración universal que promete la escatología bíblica.

En definitiva, el pastor David Jang hace hincapié en la importancia capital y la pureza del evangelio. Reitera con fuerza la necesidad de alejarnos de cualquier “evangelio diferente” y de aferrarnos a la promesa otorgada por la cruz y la resurrección de Cristo. Esta convicción teológica libera a la Iglesia de los grilletes del legalismo y la impulsa a una adoración plena, a vivir bajo la guía del Espíritu Santo, a amar y a servir, y a emprender el camino de la fe hacia la patria celestial. De esta manera, la Iglesia participa como heredera de la promesa y colabora con el plan glorioso de Dios para el mundo, irradiando hoy la luz del evangelio genuino.

믿음과 은혜를 통한 구원의 본질 회복 – 장재형목사

주제 1: 구원론의 근간 – 율법과 약속의 관계
장재형(장다윗,올리벳대학교)목사는 갈라디아서 3장을 주해하는 과정에서 “율법과 약속(언약)”이라는 두 기둥을 통해 기독교 구원론의 근간을 명확히 짚어낸다. 갈라디아서 3장은 바울이 갈라디아 교회의 이방인 성도들을 향해, 거짓 교사들이 주장하는 “율법 준수로 인한 구원”이라는 그릇된 교리를 반박하며, 아브라함에게 주어진 ‘약속’(언약)이 율법보다 앞서 있으며 궁극적으로 구원은 하나님의 약속과 그에 대한 믿음으로 이루어진다는 것을 강조하고 있다.

장재형목사는 이 주제를 다루면서 먼저 성경의 큰 흐름을 제시한다. 창세기 12장 아브라함의 부르심에서 시작된 약속은 신약에 이르러 예수 그리스도를 통해 완전히 이루어지며, 이 약속에 의해 의롭다 함을 얻는 길이 이미 아브라함 때부터 열려 있었음을 보여준다. 아브라함은 율법이 주어지기 430년 전에 하나님을 믿었고(창 15:6), 하나님은 이 믿음을 의로 여겨주셨다. 즉, 율법이 등장하기 훨씬 전에 이미 “믿음으로 의롭다 함”이라는 구원의 패러다임이 존재했다는 것이다.

율법은 출애굽 이후 시내산 언약을 통해 주어졌는데, 이는 아브라함 언약(약속)을 무효화하거나 변경하기 위한 것이 아니었다. 장재형목사의 설명에 따르면 바울은 율법의 기능을 “범법함을 인하여 더한 것”이라고 갈 3:19에서 밝히는 데 주목한다. 즉 율법은 죄를 죄로 인식하게 하고, 인간의 죄악됨을 적나라하게 드러내어 하나님 앞에서 인간이 얼마나 철저히 무력한지 보여주는 역할을 한다. 율법 아래 갇혀 있다는 표현은, 율법이 자유를 빼앗거나 인간을 억압하기 위해서가 아니라, 그리스도께서 오시기 전까지 죄인된 인류를 보호하고 죄를 각성하도록 인도하는 “몽학선생”(갈 3:24)으로 기능했음을 의미한다.

장재형목사는 율법 자체를 부정하는 것이 아니라, 율법이 본래의 구원 수단이 아니었음을 강조한다. 율법은 구원에 이르도록 하는 힘이 전혀 없으며, 그저 죄를 규정하고, 인간이 스스로 의를 이룰 수 없음을 깨닫게 하는 역할만 한다. 반면 약속은 전적으로 하나님의 주권적이고 일방적인 은혜를 나타낸다. 아브라함 언약은 율법 전 존재했고, 이 약속은 “그리스도”라는 한 분의 씨를 통해 성취된다. 약속은 인류가 죄로부터 자유케 되어 하나님 앞에 나아갈 수 있는 길을 열어준 근본적인 틀이며, 율법은 그 약속이 오기까지 우리의 가정교사 역할을 했다.

이로써 장재형목사는 성경 전체가 보여주는 것은 인간 구원이 ‘행위’가 아닌 ‘믿음’, 정확히는 ‘약속에 대한 믿음’으로 이루어지는 것을 분명히 하며, 이는 복음의 핵심임을 강조한다. 그는 이 핵심을 놓치면 율법주의에 빠져 십자가의 은혜가 흐려지고, 결국 기독교 신앙의 본질이 훼손된다고 경고한다.

주제 2: 아브라함 언약과 그리스도를 통한 의롭다 함
아브라함 언약은 구원의 기원이 된다. 장재형목사는 아브라함이 율법 이전에 하나님께 의롭다 함을 받는 사건(창 15:6)에 주목한다. 아브라함은 자녀가 없었음에도 하나님께서 하늘의 별처럼 번성케 하리라는 약속을 받았고, 이를 믿었을 때 하나님은 그 믿음을 그의 의로 여기셨다. 이는 율법 준수나 행위로 의롭다 함을 얻는 것이 아니라 전적으로 약속을 신뢰하는 믿음으로 의를 인정받는 ‘새로운 패러다임’의 시초였다. 믿음, 약속, 은혜로 이어지는 이 패러다임은 그 이후 이스라엘 역사를 지나 예수 그리스도에게로 완성된다.

장재형목사는 바울이 갈라디아서 3장과 로마서, 히브리서에서 이 점을 어떻게 논증하는지 상세히 풀이한다. 바울은 아브라함 언약에서 말하는 “자손”을 다수가 아닌 ‘한 사람’으로 지목한다(갈 3:16). 그 자손이 바로 예수 그리스도이며, 그리스도를 통해 이 약속이 온 인류에게 확장된다. 이렇게 볼 때 아브라함 언약은 단지 유대 민족을 위한 특수한 언약이 아니라, 온 인류를 죄에서 구원하고자 하는 하나님의 세계사적 계획이었음을 알 수 있다.

이 “자손” 그리스도를 통해 나타난 복음의 핵심은 바로 믿음으로 얻는 의이다. 율법으로는 불가능했던 죄 문제 해결이 그리스도 안에서 성취된다. 아브라함이 언약을 통해 믿음으로 의롭다 하심을 얻은 것처럼, 예수 그리스도를 믿음으로 말미암아 의롭다 인정받는 길이 모든 민족에게 열렸다. 이는 유대인과 이방인의 구분을 넘어서며, 할례나 율법적 행위에서 비롯되는 구원이 아니라 오직 그리스도의 십자가와 부활을 통한 은혜로 베풀어지는 구원임을 의미한다.

장재형목사는 이를 ‘은혜에서 시작하여 은혜로 완성되는 구원의 길’이라 해석하며, 아브라함 언약은 그 길의 출발점이자 전조임을 보여준다. 아브라함에게 주어진 언약이 약속으로 주어진 은혜인 것처럼, 우리에게 주어지는 그리스도 안에서의 의 또한 동일한 원리로 작동한다. 이로써 교회는 온 인류를 포괄하는 아브라함의 자손 공동체가 되며, 각 성도는 그리스도의 의를 힘입어 하나님의 가족, 곧 자녀로서의 신분 변화를 경험하게 된다.

주제 3: 믿음으로 인한 의롭다 함과 율법 준수의 불가능성
신앙의 핵심은 “죄인의 의롭다 하심”이며, 이 의롭다 함을 이루는 방법은 율법 준수가 아닌 믿음이다. 장재형목사는 율법이 “이것을 하라”, “이것을 하지 말라”는 수많은 규율로 죄를 분명하게 규정하지만, 인간이 그 율법을 완벽히 지킬 수 없음을 강조한다. 이는 예수님의 가르침 속에서도 발견된다. 예수님은 “음욕을 품으면 이미 간음”한 것과 같다고 하시며 율법의 잣대를 마음의 영역으로까지 확장하신다. 따라서 인간은 행위적 준수 정도가 아니라 마음과 생각까지 완전한 순종을 이뤄야 하는데, 이는 사실상 불가능하다. 이 지점에서 율법은 인간에게 절대 넘을 수 없는 높은 벽이며, 율법을 통해 의를 얻으려는 시도는 결국 좌절로 귀결된다.

바울은 이를 두고 “모든 인간이 죄 아래 가두어졌다”(갈 3:22)고 말한다. 율법은 마치 모든 사람을 죄라는 감옥 안에 두어, 스스로의 힘으로는 절대 탈출할 수 없음을 보이게 한다. 이로써 율법이 참된 의미에서 구원 수단이 아닌, 죄를 드러내는 역할임이 명백해진다. 이때 그리스도의 복음이 빛을 발한다. 믿음으로 죄의 사슬을 끊을 수 있고, 믿음으로 율법이 완전히 드러내는 죄책으로부터 자유하게 된다. 이는 “오직 믿음으로 말미암아 살리라”(합 2:4)라는 구약 예언자 하박국의 말씀과도 상응하며, 바울이 구원론의 근간으로 삼는 핵심 진리다.

장재형목사는 이 대목에서 믿음의 본질을 강조한다. 믿음은 단순한 지적 동의나 감정이 아니라, 나를 위해 십자가에 달리신 예수 그리스도를 전적으로 신뢰하고 의지하는 것이다. 이 믿음을 통해 그리스도의 의(義)가 내게 전가되고, 나는 하나님 앞에 의로운 자로 서게 된다. 이때 의롭다 함을 받은 자는 더 이상 율법 아래서 중압감을 느낄 필요가 없다. 그는 아들의 신분을 얻었고, 자유와 기쁨 가운데 하나님을 섬길 수 있다.

이처럼 장재형목사는 믿음으로 인한 의롭다 함의 원리를 분명히 하여 율법 준수로 구원받으려는 모든 시도를 교정한다. 이런 교정은 교회 공동체가 복음의 본질을 회복하고, 인간적 노력이나 선행으로 구원을 이뤄내려는 시도를 포기하게 함으로써 오직 은혜와 믿음에 근거한 참된 복음적 삶을 실천하도록 이끈다.

주제 4: 성령을 통한 성화와 자유
의롭다 함을 얻은 성도는 단지 신분만 변하는 것이 아니라, 실제 삶에서도 변화가 일어난다. 장재형목사는 여기서 성령의 역할을 강조한다. 율법과 약속의 관계, 의롭다 함의 원리에 이어, 성령을 통한 성화의 과정은 신앙의 결실이자 열매다. 갈라디아서 5~6장, 로마서 8장은 성령이 믿음으로 의롭다 함을 받은 성도들에게 새로운 삶의 길을 보여주는 핵심 본문이다.

성령은 신자의 마음에 내주하심으로써 인간의 힘으로는 불가능한 변화를 가능케 한다. 율법 아래서는 죄의 습관을 끊을 수 없었고, 탐심과 음욕과 같은 내면적 죄를 제거할 수 없었지만, 성령의 내주하심으로 마음 깊은 곳에서부터 변화가 시작된다. 성령은 하나님의 법을 우리 마음판에 새기시고(렘 31:33, 히 10:16), 선한 행실, 곧 의로운 삶을 자연스럽게 흘러나오게 하는 능력의 원천이 된다.

장재형목사는 성화의 과정에서 성령을 통한 ‘내적 자유’를 강조한다. 이제 성도는 더 이상 율법의 강제에 눌리지 않고, 벌 받지 않으려 억지로 선을 행하는 자가 아니다. 그는 아들로서, 자유한 하나님의 자녀로서, 사랑과 감사의 동기로 하나님께 순종한다. 성령 안에서 사람은 자유케 되고, 그 자유로 사랑하며 섬기며 선행을 하게 된다. 이것이 율법주의적 접근과 본질적으로 다른 점이다. 이전에는 외적 규율을 지키려 애썼다면, 이제는 성령에 의해 내면이 변혁되어 자발적으로 하나님께 기쁘게 순종하는 삶을 살게 된다.

또한 성령을 통한 성화는 개인적인 변화에 그치지 않고, 공동체와 우주적 차원의 회복과 연결된다. 장재형목사는 로마서 8장과 함께, 만물이 하나님의 아들들의 나타남을 고대한다는 우주적 회복을 언급한다. 성령의 사역을 통해 성도들은 결국 피조물의 해방에 동참하게 된다. 성령의 열매(갈 5:22-23)는 그리스도의 형상을 닮아가는 과정이며, 이는 궁극적으로 모든 창조 질서를 회복시키는 하나님의 계획에 참여하는 길이 된다.

주제 5: 하나됨의 신학 – 유대인과 이방인의 담 허물기
구원론과 성령론, 그리고 아브라함 언약을 통한 믿음의 원리에 기초하여, 장재형목사는 교회 공동체의 하나됨에 주목한다. 갈라디아서 3장 말미에서 바울은 “유대인이나 헬라인이나 종이나 자유자나 남자나 여자나 다 그리스도 예수 안에서 하나”라고 선언한다(갈 3:28). 이것은 단지 개인의 구원 문제를 넘어, 공동체적이고 우주적 차원에서 복음이 가져다주는 통합과 화해의 힘을 보여주는 핵심 진술이다.

장재형목사는 이를 통해 교회 안에서 더 이상 인종적, 사회적, 성별 차별이 용납되지 않는다는 진리를 강조한다. 율법주의자들은 이방인들에게 할례를 강요하고, 유대 문화를 강제함으로써 구원의 길을 좁히려 했지만, 바울은 아브라함 언약이 본질적으로 국제적, 범인류적 성격을 지닌 약속임을 재해석했다. 아브라함의 언약은 “한 자손” 예수 그리스도를 통해 온 세상으로 확대되었으며, 이로 말미암아 이방인도 믿음으로 아브라함의 자손이 되는 은혜를 누리게 되었다.

이 “담을 허무는” 신학은 에베소서의 막힌 담 헐기(엡 2:14-16)와도 맞닿아 있다. 율법적 경계, 민족적 배타성, 문화적 장벽은 예수 그리스도 안에서 허물어진다. 교회는 다양한 배경을 지닌 이들이 하나의 믿음, 하나의 세례(엡 4:5), 하나의 복음 아래 모여 하나님의 가족을 이루는 곳이다. 그리고 이 하나됨은 단지 선언이 아니라, 실제적으로 서로를 환대하고 사랑하며 섬기는 공동체적 실천을 요구한다.

장재형목사는 이 하나됨의 비전을 통해 복음이 단순히 개인 영혼의 구원에 머무르지 않고, 사회적 관계를 변화시키며, 인류의 화해와 평화를 추구하는 동력이 됨을 보여준다. 복음은 지리적, 민족적, 문화적 경계를 넘나들며, 갈등과 증오를 화해와 용서로 바꾸는 능력을 지닌다. 이것이 바로 장재형목사가 강조하는 교회의 우주적 사명 가운데 하나이며, 아브라함 언약이 궁극적으로 실현하는 ‘약속의 땅’은 영적인 의미에서 모든 믿는 이가 함께 거하는 하나님 나라로 확장된다.

주제 6: 종말론적 회복과 교회의 사명
마지막으로 장재형목사는 모든 논의를 종말론적 전망으로 이끈다. 아브라함 언약에서 시작된 약속이 예수 그리스도를 통해 믿는 자들에게 의롭다 함을 주었고, 성령의 내주하심으로 성도들은 성화의 길을 걷는다. 동시에 온 인류와 우주적 차원의 회복이 기다리고 있는데, 이는 종말론적 희망과 연결된다. 만물이 하나님의 자녀들의 나타남을 고대하고(롬 8:19), 피조물 전체가 하나님을 찬양하며 “거룩하다, 거룩하다” 외치는 계시록의 영광스러운 예배 장면(계 4장)은 율법으로는 도달 불가능했던 궁극적 목적지이다. 이것은 구원이 단지 인간 개인의 내면적 문제 해결로 끝나지 않고, 전 우주적 스케일의 회복까지 포괄함을 의미한다.

이 종말론적 전망 속에서 교회의 사명이 재조명된다. 장재형목사는 교회가 “다른 복음”을 전하거나 율법주의에 매몰될 때, 십자가의 능력이 흐려지고 구원의 본질이 약화되는 위험을 지적한다. 이단적 가르침, 잘못된 율법주의적 강조, 문화적 배타성은 결국 교회를 복음의 생명력으로부터 멀어지게 하고, 주님이 의도하신 온전한 회복과 희망을 흐리게 만든다.

반면 교회가 참된 복음을 붙들고 믿음으로 의롭다 함을 받은 기쁨과 자유를 누린다면, 교회는 이 땅을 일시적 거처로 삼으며 약속의 땅인 천성을 향해 나아가는 순례 공동체로 자리매김한다. 이 과정에서 교회는 장차 올 하나님의 나라를 미리 앞당겨 증언한다. 성령 안에서 변화된 삶과 공동체를 통해 이미 하나님 나라의 흔적이 나타나며, 이는 사람들로 하여금 영생의 길, 믿음의 길, 은혜의 길을 발견하게 한다.

종말론적 회복을 대망하는 교회는, 현재 이 땅에서 복음을 통해 율법과 죄의 억압으로부터 자유를 누리고, 그 자유로 봉사하며 섬기고, 서로를 사랑함으로 하나님 나라의 가치들을 실현하는 삶을 지향한다. 장재형목사는 이처럼 교회가 복음의 본질에 충실할 때, 천성을 향한 순례길에서 한순간에 그치지 않고, 영원한 약속의 땅으로 향하는 믿음의 여정을 신실히 완주할 수 있다고 강조한다.

이 종말론적 희망 속에서, 약속과 율법, 아브라함과 그리스도, 믿음과 의롭다 함, 성령과 성화, 그리고 공동체적 하나됨과 우주적 회복까지 모두 연결된다. 모든 것이 그리스도 안에서 하나가 되고, 그리스도를 중심으로 교회는 약속받은 영광된 결말, 즉 영원한 하나님 나라를 바라본다. 그 나라는 율법 준수나 인간적 공로가 아닌, 오직 은혜와 믿음으로 들어가는 곳이며, 교회는 이 진리를 세상에 담대히 전하는 복음의 전달자가 된다.

맺음말

장재형목사가 갈라디아서 3장을 중심으로 전개한 구원론적 해설은 성경 전체를 아우르는 폭넓은 신학적 통찰을 담고 있다. 율법과 약속의 관계를 통해 하나님의 은혜가 얼마나 오래전부터 준비되었는지, 아브라함 언약을 통해 믿음으로 의롭다 함을 얻는 패러다임이 이미 정해져 있었음을 보여준다. 율법은 구원의 방편이 아닌 죄를 깨닫게 하는 역할이며, 구원은 오직 그리스도를 통한 믿음으로 주어진다. 이 믿음 안에서 성도는 성령을 통해 성화되고 자유케 되며, 유대인과 이방인, 남자와 여자의 구분을 넘어 하나 됨의 공동체를 형성한다. 나아가 이 하나됨은 온 우주적 회복을 향한 종말론적 희망을 비춘다.

결국 장재형목사가 강조하는 것은 복음의 절대적 중요성과 순수성이다. “다른 복음”의 위험에서 벗어나, 예수 그리스도의 십자가와 부활, 그리고 그를 통해 주어진 구원 약속을 믿음으로 받아들이는 것이 기독교 신앙의 핵심임을 거듭 상기시킨다. 이러한 신학적 정립은 교회로 하여금 율법주의적 굴레에서 벗어나, 자유롭게 하나님을 예배하고, 성령의 인도에 따라 사랑과 섬김의 삶을 살며, 궁극적으로 천성을 향해 나아가는 순례자로서의 사명을 감당하게 한다. 이로써 교회는 약속대로 유업을 이을 자들로서 하나님의 영광된 계획에 동참하며, 이 시대 가운데 진정한 복음의 빛을 비추게 될 것이다.

죽음과 부활 – 눅24장 엠마오의 두 제자를 중심으로(장재형 목사)

부활 누가복음24장 크리스천투데이

부활은 언제 있게 되는가? 예수님의 부활과 우리의 부활이 같은 건가? 다른건가? 부활과 하나님의 나라. 장재형 목사의 누가복음 24장 강해를 들으며 깊이 묵상할 수 있었다.

성경에 마지막 날, 마지막 때라는 것은 하나님의 나라가 시작되는 것을 말 하기도 한다. 이때우리 주님께서 영광 가운데 우리 가운데 나타나신다고 되어 있는데 알곡과 가라지를 나누는 심판이 있게 된다. 그러면 이미 잠들어 있는 자들은 다시 살아 나야 한다. 이게 부활이다. 죽은 자의 부활과 산자의 부활이 있는 거다. 죽은 자의 부활이라는 것은 다른 말로 표현하면 잠든자의 부활이다. 잠든 자들이 다시 깨어 나야 한다. 그리고 예수님은 살아서 나를 믿는 자는 영원히 죽지 않을 것이라고 하셨는데 산자들 또한 새로운 몸을 입고 부활하게 된다.

이때 일어나는 것이 무엇인가? 심판이다. 잠든 자들을 깨우신다. 악한 자들도 깨어 나야 하고 주님을 믿었지만 생명이 다해 잠들어 있는 자들 또한 깨어 나야 한다. 천국 나팔 소리가 이들을 깨우는 거다.

우리는 흔히 죽으면 바로 천국과 지옥으로 나뉘어 질거라고 생각하지만 이는 성경적인 것은아니다. 그래서 성경에는 잠이 들었다고 표현하는 거다. 죽은게 아니다. 잠이 드는 것이다.

요11장에 나사로를 살리셨는데 이것을 보고 가야바인 대제사장이 예수를 죽이자고 한다. 이때 부터 예수를 죽이기로 생각했다는 거다. 사람을 살리는 능력을 보자 이들이 놀라 죽이려하고 한다. 다 믿을거니까 죽이자

11:53 이 날부터는 저희가 예수를 죽이려고 모의하니라

요한복음 11장

11:1 어떤 병든 자가 있으니 이는 마리아와 그 형제 마르다의 촌 베다니에 사는 나사로라

11:2 이 마리아는 향유를 주께 붓고 머리털로 주의 발을 씻기던 자요 병든 나사로는 그의 오라비러라

이게 복음이다. 최후의 만찬에서는 이러한 여인의 행위를 제자들이 보고 시험에 들었다. 하지만 예수님께서는 복음이 전해지는 곳에는 다 이 여인의 행위가 전해질거라고 했다. 그렇다면 이 여인은 복음을 안자다. 그런데 문제가 무엇인가?

11:3 이에 그 누이들이 예수께 사람을 보내어 가로되 주여 보시옵소서 사랑하시는 자가 병들었나이다 하니

11:4 예수께서 들으시고 가라사대 이 병은 죽을 병이 아니라 하나님의 영광을 위함이요 하나님의 아들로 이를 인하여 영광을 얻게 하려 함이라 하시더라

나사로가 아프다는 거다. 죽을 것이 아니라 하나님의 영광을 위한 것이라는 거다. 이 예수님의 놀라운 믿음을 보자.

11:5 예수께서 본래 마르다와 그 동생과 나사로를 사랑하시더니

예수님께서는 이들을 다 사랑하셨다. 복음을 드러낸 자, 복음을 안자들을 이렇게 주님은 사랑하신다. 사랑하시는 이가 어찌 되었는가?

11:6 나사로가 병들었다 함을 들으시고 그 계시던 곳에 이틀을 더 유하시고

병이 들었다. 하지만 예수님께서는 사랑하는 이가 병들어 죽게 되었다는 소식을 들으셨지만 계시던 곳에 이틀을 더 유하셨다.

11:7 그 후에 제자들에게 이르시되 유대로 다시 가자 하시니

이틀이 지난 후에 예수님께서는 유대로 가신다. 드디어 나사로에게 가시는 거다.

11:8 제자들이 말하되 랍비여 방금도 유대인들이 돌로 치려 하였는데 또 그리로 가시려 하나이까

아..유대인들일 방금도 돌로 치려 했다는 거다. 이게 뭔가? 우리는 최후의 만찬 후 안나스와 가야바 그리고 빌라도의 법정에 대해서 보자. 그러면 안다. 유대인들은 사사로이 죽일 수 있었다. 돌로쳐서 사람을 죽일 수 있었다. 대표적으로 스데반이 그렇게 순교를 당했다.

제자들이 유대로 자고 하시니 놀라서 묻는다. “방금도 유대인들이 돌로쳐 죽이려고 했는데 다시 가십니까?’

11:9 예수께서 대답하시되 낮이 열두 시가 아니냐 사람이 낮에 다니면 이 세상의 빛을 보므로 실족하지 아니하고

11:10 밤에 다니면 빛이 그 사람 안에 없는 고로 실족하느니라

정말 애매 모호한 말씀을 하시지만 또 명확하게 하신다. 그렇다. 진리 가운데 거하면 실족하지 아니한다. 진리가 우리의 가는 길을 밝힐 뿐 아니라 주의 말씀은 내 발의 등이라고 했다.

11:11 이 말씀을 하신 후에 또 가라사대 우리 친구 나사로가 잠들었도다 그러나 내가 깨우러 가노라

나사라고 이때 죽었다. 하지만, 예수님께서는 뭐라고 하시는가?

“우리 친구 나사로가 잠들었으니 내가 깨우러 가겠다’라고 하신다. 놀라운 말씀이다. 정말 놀랍다. 여기에 우리의 부활에 대해서 이야기 하고도 계시지만 예수님이 가지신 능력이 무엇인가? 잠든 자를 깨우시는 능력이 우리 예수님 안에 있다. 아멘 할렐루야

11:12 제자들이 가로되 주여 잠들었으면 낫겠나이다 하더라

11:13 예수는 그의 죽음을 가리켜 말씀하신 것이나 저희는 잠들어 쉬는 것을 가리켜 말씀하심인 줄 생각하는지라

그런데 제자들은 예수님이 나사로가 잠들었으니 깨우러 가겠다는 것을 정말로 그가 잠이 들어 쉬고 있으니 예수님이 깨우러 간다고 생각했다는 거다. 제자들이 부활에 대해서 잘 몰랐다. 어쩌면 예수님의 말씀을 이들이 더 이해하기 어려웠는지도 모른다.

11:14 이에 예수께서 밝히 이르시되 나사로가 죽었느니라

이때 제자들이 잘 알아 듣지 못하자 예수님이 말씀하신다.

“나사로가 죽었다”

제자들의 당황하던 모습을 생각해보자. 죽었는데 어떻게 살리지? 예수님이 죽은 자도 살리실 수 있는가? 너무나 놀랐을 것 같다.

11:15 내가 거기 있지 아니한 것을 너희를 위하여 기뻐하노니 이는 너희로 믿게 하려 함이라 그러나 그에게로 가자 하신대

11:16 디두모라 하는 도마가 다른 제자들에게 말하되 우리도 주와 함께 죽으러 가자 하니라

도마의 “우리도 주와 함게 죽으러 가자” 이 말이 무엇인가? 유대인들이 또 돌로쳐 예수님을 죽이려고 할것이고 죽으실 수도 있다는 거다. 제자들은 늘 이렇게 위험에 노출 되어 있었다. 그들이 예수를 따른다는 것은 그저 평안함 속에서 살아가는 신앙이 아니라 늘 살해의 위협에 처해 있었다. 도마의 이 말은 베드로의 말이 생각나게 한다. 내가 죽어도 주와 함께 죽겠다는 결연한 의지를 드러냈다. 인간이 할 수 있는 최고의 용기 아닌가?

11:17 예수께서 와서 보시니 나사로가 무덤에 있은 지 이미 나흘이라

하루 길이셨나보다. 이틀을 더 계시고 하루 만에 나사로에게 왔는데 이미 그는 무덤에 잠들어 있었다.

11:18 베다니는 예루살렘에서 가깝기가 한 오 리쯤 되매

11:19 많은 유대인이 마르다와 마리아에게 그 오라비의 일로 위문하러 왔더니

오리는 우리 나라로 치면 약 2킬로 정도 되는 거리이니 동네 사람들이 마르다와 마리아를 위로 하러 왔던 거다. 왜 위로를 하는가? 나사로가 죽었기 때문에 장례를 치룬 것이다.

11:20 마르다는 예수 오신다는 말을 듣고 나가 맞되 마리아는 집에 앉았더라

마르다는 예수가 늦게라도 오신다는 소식을 듣고 예수님께 가는 데 향유 옥합을 부은 마리아는 집에 앉아 슬픔 가운데 있다. 이게 현실적인 우리의 모습이다. 마리아의 모습이 우리의 모습일지 모른다.

11:21 마르다가 예수께 여짜오되 주께서 여기 계셨더면 내 오라비가 죽지 아니하였겠나이다

슬픔에 젖어 있기는 마르다도 마찬 가지다. 주님의 발 아래 앉아서 말씀을 들었던 마리아는 이렇게 슬픔에 젖어 있고 밥을 차리던 마르다는 주님께 가서 슬픈을 토해 낸다.

“예수님이 여기 계셨면 오빠를 치료 해주셨을 텐데…” 이 마르다의 믿음도 놀랍다. 예수님 안에 능력이 있다는 고백 아닌가? 그 능력이 무슨 능력인가? 병든자를 치유할 수 있는 치유의 능력이다.

11:22 그러나 나는 이제라도 주께서 무엇이든지 하나님께 구하시는 것을 하나님이 주실 줄을 아나이다

말씀을 들었던 마리아가 이 이야기를 한게 아니다. 밥을 준비하고 섬겼던 마르다의 고백이다. 이게 사도행전에 나온 스데반과 같을지 모른다. 마르다가 이런 믿음을 가지고 있었다. 나사로가 죽었지만 예수님게서는 무엇이든지 하나님께 구하는 것을 하나님이 주실 거라는 거다. 하나님의 아들이다라는 고백이다. 당신이 그리스도입니다라는 고백이다. 당신이 구주이며 그 능력은 죽은 자도 살리실수 있지않냐는 것이다.

11:23 예수께서 가라사대 네 오라비가 다시 살리라

“나사로가 다시 살리라”

11:24 마르다가 가로되 마지막 날 부활에는 다시 살 줄을 내가 아나이다

“네 주님, 마지막 날 부활에 다시 살 것입니다”

11:25 예수께서 가라사대 나는 부활이요 생명이니 나를 믿는 자는 죽어도 살겠고

11:26 무릇 살아서 나를 믿는 자는 영원히 죽지 아니하리니 이것을 네가 믿느냐

이 질문을 누구에게 한 것인가? 마르다다. 마르다에게 예수님이 이 놀라운 질문을 하신다. 마리아가 아니다. 마르다다. 나사로의 죽음을 슬퍼하지만 주님을 만나러온 마르다에게 주님께서 하신 말씀이다. 이 마르다가 없었다면, 죽은 나사로가 없었다면 이 기록이 있었겠는가? 없었을 거다.

11:27 가로되 주여 그러하외다 주는 그리스도시요 세상에 오시는 하나님의 아들이신 줄 내가 믿나이다

눈물이 나는 마르다의 고백이다. 주님 그렇습니다. 이게 베드로의 고백과 다를게 없다 성경에는 마르다의 고백, 베드로의 고백 그리고 도마의 고백이 있다. 이 세 가지 고백이 다 성령께서 그리 하신거다.

11:28 이 말을 하고 돌아가서 가만히 그 형제 마리아를 불러 말하되 선생님이 오셔서 너를 부르신다 하니

예수님게께서는 마리아를 부르셨다. 슬픔에 빠진 마리아, 슬픔 가운데 넋을 잃은 마리아를 부르신다.

“예수님이 널 찾으셔”

11:29 마리아가 이 말을 듣고 급히 일어나 예수께 나아가매

11:30 예수는 아직 마을로 들어오지 아니하시고 마르다의 맞던 곳에 그저 계시더라

왜 예수님은 안 들어가셨을까? 마을로 들어오지 아니하시고 마르다를 맞이하던 그 자리에 그저 계셨을까? 요한 사도가 이것을 기록한 이유가 무엇일까?

11:31 마리아와 함께 집에 있어 위로하던 유대인들은 그의 급히 일어나 나가는 것을 보고 곡하러 무덤에 가는 줄로 생각하고 따라가더니

11:32 마리아가 예수 계신 곳에 와서 보이고 그 발 앞에 엎드리어 가로되 주께서 여기 계셨더면 내 오라비가 죽지 아니하였겠나이다 하더라

마리아의 이 고백도 놀랍다. 마르다와 간다. 마르다와 마리아 이 두 여인, 이 시대에는 여인이 천대 받던 시대인데 이 두여인의 사랑을 보라. 주를 향한 사랑과 믿음이 이들 안에 있다.

11:33 예수께서 그의 우는 것과 또 함께 온 유대인들의 우는 것을 보시고 심령에 통분히 여기시고 민망히 여기사

우리의 믿음은 어떠한가? 십자가의 생명만 있는게 아니라 우리에게는 부활의 믿음이 있다. 나사로의 부활은 우리가 마지막 날에 경험할 부활은 분명 아니다. 왜냐? 나사로는 다시 죽었기 때문이다. 예수님 안에 있는 능력이 무엇인가?

11:34 가라사대 그를 어디 두었느냐 가로되 주여 와서 보옵소서 하니

11:35 예수께서 눈물을 흘리시더라

11:36 이에 유대인들이 말하되 보라 그를 어떻게 사랑하였는가 하며

11:37 그 중 어떤 이는 말하되 소경의 눈을 뜨게 한 이 사람이 그 사람은 죽지 않게 할 수 없었더냐 하더라

11:38 이에 예수께서 다시 속으로 통분히 여기시며 무덤에 가시니 무덤이 굴이라 돌로 막았거늘

11:39 예수께서 가라사대 돌을 옮겨 놓으라 하시니 그 죽은 자의 누이 마르다가 가로되 주여 죽은 지가 나흘이 되었으매 벌써 냄새가 나나이다

11:40 예수께서 가라사대 내 말이 네가 믿으면 하나님의 영광을 보리라 하지 아니하였느냐 하신대

11:41 돌을 옮겨 놓으니 예수께서 눈을 들어 우러러 보시고 가라사대 아버지여 내 말을 들으신 것을 감사하나이다

11:42 항상 내 말을 들으시는 줄을 내가 알았나이다 그러나 이 말씀 하옵는 것은 둘러선 무리를 위함이니 곧 아버지께서 나를 보내신 것을 저희로 믿게 하려 함이니이다

11:43 이 말씀을 하시고 큰 소리로 나사로야 나오라 부르시니

11:44 죽은 자가 수족을 베로 동인 채로 나오는데 그 얼굴은 수건에 싸였더라 예수께서 가라사대 풀어 놓아 다니게 하라 하시니라

12:9 유대인의 큰 무리가 예수께서 여기 계신 줄을 알고 오니 이는 예수만 위함이 아니요 죽은 자 가운데서 살리신 나사로도 보려함이러라

12:10 대제사장들이 나사로까지 죽이려고 모의하니

12:11 나사로 까닭에 많은 유대인이 가서 예수를 믿음이러라

부활한 나사로 때문에 많은 이들이 예수를 믿었다고 되어 있다. 죽고 다시 살아난 능력을 예수님이 가지고 계셔서일까? 그럴 수 있다

그런데 그 부활의 능력을 가지신 분이 십자가에 달려 돌아가셨다. 엠마오의 두 제자는 그 이후에 일어난 사건이다.

장재형 목사가 부활 이후에 늘 설교하는 본문은 누가복음에 나오는 엠마오의 두 제자에 대한 것이다. 그리스도인이라면 누구나 다 알고 있는 유명한 구절이기도 하고 또 그림 작품도 있다. 이들의 이름은 글로바와 마리아이다.

누가복음 24장 13절부터

24:13 그 날에 저희 중 둘이 예루살렘에서 이십오 리 되는 엠마오라 하는 촌으로 가면서

24:14 이 모든 된 일을 서로 이야기하더라

24:15 저희가 서로 이야기하며 문의할 때에 예수께서 가까이 이르러 저희와 동행하시나

24:16 저희의 눈이 가리워져서 그인 줄 알아보지 못하거늘

24:17 예수께서 이르시되 너희가 길 가면서 서로 주고 받고 하는 이야기가 무엇이냐 하시니 두 사람이 슬픈 빛을 띠고 머물러 서더라

24:18 그 한 사람인 글로바라 하는 자가 대답하여 가로되 당신이 예루살렘에 우거하면서 근일 거기서 된 일을 홀로 알지 못하느뇨

24:19 가라사대 무슨 일이뇨 가로되 나사렛 예수의 일이니 그는 하나님과 모든 백성 앞에서 말과 일에 능하신 선지자여늘

24:20 우리 대제사장들과 관원들이 사형 판결에 넘겨 주어 십자가에 못 박았느니라

24:21 우리는 이 사람이 이스라엘을 구속할 자라고 바랐노라 이뿐 아니라 이 일이 된 지가 사흘째요

24:22 또한 우리 중에 어떤 여자들이 우리로 놀라게 하였으니 이는 저희가 새벽에 무덤에 갔다가

24:23 그의 시체는 보지 못하고 와서 그가 살으셨다 하는 천사들의 나타남을 보았다 함이라

24:24 또 우리와 함께한 자 중에 두어 사람이 무덤에 가 과연 여자들의 말한 바와 같음을 보았으나 예수는 보지 못하였느니라 하거늘

24:25 가라사대 미련하고 선지자들의 말한 모든 것을 마음에 더디 믿는 자들이여

24:26 그리스도가 이런 고난을 받고 자기의 영광에 들어가야 할 것이 아니냐 하시고

24:27 이에 모세와 및 모든 선지자의 글로 시작하여 모든 성경에 쓴 바 자기에 관한 것을 자세히 설명하시니라

24:28 저희의 가는 촌에 가까이 가매 예수는 더 가려 하는 것 같이 하시니

24:29 저희가 강권하여 가로되 우리와 함께 유하사이다 때가 저물어 가고 날이 이미 기울었나이다 하니 이에 저희와 함께 유하러 들어가시니라

24:30 저희와 함께 음식 잡수실 때에 떡을 가지사 축사하시고 떼어 저희에게 주시매

24:31 저희 눈이 밝아져 그인 줄 알아보더니 예수는 저희에게 보이지 아니하시는지라

24:32 저희가 서로 말하되 길에서 우리에게 말씀하시고 우리에게 성경을 풀어 주실 때에 우리 속에서 마음이 뜨겁지 아니하더냐 하고

바울 사도는 고린도전서 15장에 부활에 대해서 자세히 설명했다. 그리고 예수님도 부활에 대해서 자주 이야기 하셨는데 부활이라는 건 좀 어렵다. 사순절 기간 십자가에 대해서 깊이 묵상하고 나서 부활에 대해서 묵상해야 하는 중이다. 그 부활에 대해서 묵상하기 전 반드시 거쳐야 하는 건 바로 엠마오의 두 제자이다. 이들은 예수님이 십자가에서 죽으셨다는 것은 잘 알고 있다. 그리고 그분이 어떤 삶을 사셨는지도 누구 보다 더 잘알았다. 왜냐? 그들은 제자들이었기 때문이다.

하지만, 예수가 잡히셨던 날이던지 죽으셨던 때인지는 모르지만 이들은 예수를 떠났고 다시 그들의 고향 엠마오로 돌아가는 길이었다. 누구다 아는 그 그림의 두 주인공이다.

며칠 전 누군가 나에게 부활에 대해서 물었다. 부활이 무엇인가? 그건 죽고 다시 사는 거다. 십자가가 전제가 되어야 부활이고 십자가만 있는 것은 바울 사도의 말 처럼 우리의 믿음이 헛것인거다. 죽어버리고 나서 부활이 없다면 우리가 믿어야 할 이유가 없다. 다른 종교와 다를 바 없는 건데 기독교는 특별히 부활에 대해서 이야기 한다. 이게 다른 종교와 분명하게 다른 것이다.

부활은 너무나 중요하다.

우리는 누구인가? 타락한 아담의 자손이지만 예수 그리스도 안에서 새롭게 된 피조물들이다. 새롭게 되긴 했는데 이전의 악한 습관이 여전히 우리 안에 있다. 이미와 아직 사이에 우리의 신앙이 늘 놓여지게 된다. 이때 우리는 어떻게 해야 하는가?

엠마오로 돌아가던 두 제자의 모습 처럼, 미래의 원대한 꿈이 있었지만 그 꿈을 잃어버리고 다시 집으로 돌아가 예전과 같은 삶을 살아야 하는가? 아니면 이 팬의 목소리를 기억해야 하는가?

예수님께서는 엠마오로 가는 두 제자를 이렇게 깨우신다.

“나의 죽음이 죽음이 아니라 너희의 생명을 살리기 위한 희생이었다고. 대속이었다. 그래서 그 죽음은 헛된게 아니라 너희에게 생명이 되었다”

예수님께서 율법과 예언에 대해서 가르쳤다고 하셨는데 장재형목사는 이 율법은 레위기 16장이고 예언서는 이사야서 53장이라고 이야기 한다. 레위기 16장의 속죄양과 이사야서 53장의 고난의 주에 대한 이야기를 예수님은 부활 이후에 두 제자에게 이야기 하신 것이라고 장재형목사는 늘 이야기 했다.

누가복음 24장

24:32 저희가 서로 말하되 길에서 우리에게 말씀하시고 우리에게 성경을 풀어 주실 때에 우리 속에서 마음이 뜨겁지 아니하더냐 하고

“마음이 뜨겁지 아니하더냐”

차갑게 식어버린 두 제자의 마음이 뜨거워졌다. 가슴이 뜨거워져서 다시 사도들이 있던 곳으로 돌아갔다. 지금 교회는 부할을 맛 보고 오순절을 향해서 가고 있는 절기에 놓여져 있다. 그런데 부활을 알기 위해서는 먼저는 십자가 즉 레위기 16장과 이야서 53장의 대속과 고난에 대해서 잘 알아야 한다. 그 대속과 고난이 그것으로 끝이 아니라 빵이 찢어지고 나서 내가 그걸 먹으면 생명이 된다. 예수님의 죽음이 우리에게 생명이 되는 거다.

물론 부활이라는 건 마지막 심판의 날에 주님께서 오셔서 잠든 모든 이를 나팔로 깨우신다. 그래서 알곡과 가라지를 나누시는 심판을 받게 된다. 그래서 바울 사도 또한 5백명의 제자들 가운데 일시에 나타나신 예수님을 본 자들 중에 잠든 자도 있다고 이야기 하는 것이다. 그들은 죽은게 아니라 잠들어 있는거다. 어쩌면 우리에게 정말 죽음은 심판 이후에 있는 건지도 모른다. 우리의 생명이 다 해서 죽는 것이 아니라 우리는 그저 마지막 날을 고대하면서 고이 잠드는거다. 이때도 중요하다.

하지만 또 중요한게 있다. 우리가 그리스도의 제자로 살아가면서 매일 매일 겪는 절망과 고난 속에 우리가 리옹의 유니폼을 입었던 이 선수들 처럼 우리를 잠에서 깨어나게 하는게 무엇인가? 그것은 우리를 날 마다 새롭게 하시는 성령의 능력을 우리가 덧입는 것 밖에 없다.

바울 사도는 날마다 죽고 다시 산다고 했다. 우리에게는 죽어야 할게 있고 죽지 말아야 할게 있다. 죽지 말아야 할 것을 죽이게 되면 죽여야 할게 우리를 죽게 만든다. 리옹 선수를 봐라. 저들의 능력이 새롭게 되는 건 그들이 무엇을 덧입고 있느냐? 그들이 입은 유니폼이 무엇인가? 역사와 전통을 깨닫고 나서 그것을 훼손할 자격이 우리에게 없다라는 것을 알게 되었던거다.

우리의 주인이 누구인가? 나인가? 아니다. 나의 주인이 나 인것 처럼 살아가는 건 자신을 속이는 거다. 속이는게 얼마나 무서운건가? 신지애라는 골프 선수가 있다. 아버지가 목회자라고 한다. 이분을 잘 아는 한 신학대학교 교수님은 골프를 정말 좋아하셔서 나와 종종 라운딩을 함께 하는 데 자주 신지애 선수와 아버지에 대해서 이야기 하신다.

그런데 신지애선수의 우승 횟수가 얼마나 많은지 아는가? 2023년 8월 현재 KLPGA 통산 21승(아마추어 1승 포함), LPGA 통산 11승, JLPGA 통산 28승, 기타 투어 5승 등 전 세계 투어 통산 65승(프로 통산 64승)을 기록 중이다. 골프 선수가 한번도 우승을 못하고 은퇴하는 경우가 허다한데 신지애 선수는 65승이나 했다.

골프에는 심판이 없다. 자신의 양심이 심판이 되어서 점수를 기록하고 제출해야 한다. 최근 어떤 프로 테스트를 한 세명의 선수들이 점수를 조작해서 1차 테스트를 통과했고 나중에 이것이 적발 되었다고 하더라. 또 미래가 촉망받던 한 여자 골퍼는 남의 공을 자신의 공이라고 쳤는데 나중에 이것을 알고 스스로 알리지 않고 경기를 마쳤다고 한다. 나중에 이 선수가 우승도 하고 그랬는데 캐디가 이를 문제 삼았따고 한다. 한달이 지나서..그리고 이 여자 프로골퍼는 징계를 받고 최근 복귀했다.

신지애선수의 능력이 뛰어나다는 것을 말 하고 싶은게 아니라 ‘진실함’이다. 65번 우승하려면 얼마나 많은 경기에 나섰겠는가? 그 경기내내 그는 진실하게 플레이를 한거다. 유혹이 있었는지 없었는지 모르지만 신지애 선수가 그렇게 스스로에게 엄격했고 진실된 사람이었다. 그리고 그는 거기에 실력도 뛰어난 골프 선수인거다.

미래가 촉망 받던 한 여자 골프 선수는 단 한번의 욕심으로 은퇴때까지 주홍글씨를 달고 살아야 한다. 물론 그녀에게 좋은 경험이었을 거다. 그래서 그 선수도 이제는 그러한 유혹에 빠지지 않을거다. 노력은 하지 않겠나? 같은 걸 두번 반복하면 그의 선수 생명은 끝날거다.

하나의 스포츠도 이러한데 그리스도 인들은 어떠한가? 죄를 짓고 죄를 짓고 하는 것이 용서가 되고 용서가 됨으로 인해 하나님의 사랑과 은혜를 오히려 악용하지 않은가? 장재형목사는 종종 그리스도인의 도덕적 헤이에 대해서 이야기 한다.

“우리는 누구인가? 예수 그리스도의 값비싼 피로 산 자들이다”

장재형 목사와 제자들

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장재형목사 (장다윗, 올리벳대학교 설립자)의 ‘로마서 강해’를 읽고나서…로마서 1-2

장재형 목사 로마서 강해

장재형목사 (장다윗, 올리벳대학교 설립자)의 ‘로마서 강해’를 읽고나서. 사도 바울은 로마서의 시작에서 자신이 예수 그리스도의 부르심을 받은 인생임을 말하고 있다.

장재형 목사 로마서 강해

로마서 1:1 예수 그리스도의 종 바울은 사도로 부르심을 받아 하나님의 복음을 위하여 택정함을 입었으니

내 인생이 어디로부터 온 것일까..라는 깊은 고민에 빠져 한 발짝도 전진할 수 없었던 시절이 있었다. 내 인생을 시작한 사람이 내가 아니니, 내가 나의 인생을 시작한 사람이 아니니, 내 인생이 어디서부터 왔고, 어떤 목적과 이유로 시작된 것인지에 대한 답이 내 안에 있을 턱이 없다. 인간은 너무나도 철저히 결과적인 존재인 것이다. 내 안을 온통 뒤져보아도 그 답이 없었다. 없을 뿐 아니라, 점점 더 깊은 무지에 빠져들어만 가는 것 같았다. 그 답답함과 절망감이란…이 문제가 풀리지 않는데, 어떻게 하루하루 아무렇지도 않게 일어나 살아갈 수 있단 말인가… 마치 첫 단추가 제대로 끼워졌는지를 알지 못한 채, 그 불안한 마음을 가지고 다음 단추들을 열심히 채워간다는게 너무나 힘겨운 그런 무기력함과 허무함이라고 할까.

이전에 ‘정글’이라는 영화를 본 적이 있다. 그 깊고 깊은 열대우림에서 길을 잃은 한 사람의 실화를 담은 영화였다. 사실 그 영화는 나에겐 공포영화였다. 길을 잃은 사람안에 그 공포와 불안을 따라가다보니 식은땀이 흘렀다. 주인공은 방향을 알지 못하는데 날마다 전진한다. 그러니 이 전진이 오히려 나를 죽음으로 몰고가는 전진일지도 모른다. 열심히 가다가 가다가 결국 잘못된 방향으로 가고 있구나를 깨달았을 때의 공포감이란…..숨막히는 고통이다. 그 영화를 보면서 어쩌면 나의 인생이 그런 것이 아닐까 라는 생각을 했다. 어디로부터 와서 어디까지 가는 것인지를 모른채 하루 하루를 살면서 그저 막연히 잘될 것이라고 생각하는 것은 너무나 헛된 소망일 뿐이다.

​그런데, 바울은 자신의 인생은 주의 부르심으로 말미암은 것이라는 확신을 가지고 있다. 그는 고린도전서도 그렇게 시작한다.

고린도전서 1:1 하나님의 뜻을 따라 그리스도 예수의 사도로 부르심을 받은 바울과 형제 소스데네는

갈라디아서 1:1사람들에게서 난 것도 아니요 사람으로 말미암은 것도 아니요 오직 예수 그리스도와 그를 죽은 자 가운데서 살리신 하나님 아버지로 말미암아 사도 된 바울은

갈라디아서도 마찬가지다. 그는 자신이 사람에게서 난 것이 아니라고 한다. 장재형 목사의 로마서 강해의 처음부분은 이러한 점을 강조한다. 혹자는 나를 나되게 한 것이 어떤 사람으로 말미암은 것이라고 생각하기도 한다. 가장 쉽게는 부모로 말미암아 내 인생이 시작되었다고 생각한다. 부모나 조상, 아니면 나의 인생이 지대한 영향을 끼친 누군가로 말미암아 내 인생이라고 생각하는 것이다. 그러나 조금만 더 깊이 생각해보면 조상이나 부모도 사실 궁극적인 원인이 될 수는 없다. 사람이 사람의 원인이 될 수는 없는 것이다. 결국 사람은 누구나 결과적인 존재일 뿐이기 때문이다.

사도는 자신의 삶을 너무도 정확히 정의했다. 사람으로 말미암은 것이 아니고, 오직 나의 인생은 주로 말미암은 것이라고. 하나님께서 내 인생을 시작하셨고, 나를 거룩하고 흠이 없게 하시려는 그토록 아름답고 선하신 뜻을 따라 나에게 생명을 불어넣으셨고, 나를 시작하셨다고… 이렇게 너무도 분명한 창조가 있었고, 시작이 있었다고 증거하고 있는 것이다.

그 분은 나를 시작하셨을 뿐 아니라, 이보다 더 선하고 아름다울 수 없는 가장 좋은 삶의 길로 그렇게 인도하시고, 가장 최고의 사랑으로 나를 이끄시며, 나를 날마다 지키시고 보호 하시는 분이시라는 것, 내가 쓰러지면 나를 일으키시고 내가 더럽혀지면 나를 씻기시고 내가 사망으로 떨어지면 나를 구원하셔서 반드시 나를 온전케 하시는 그런 포기하지 않는 사랑의 주님이시라는 것을 사도는 깨달았던 것이다. 그리고 나에게 당신의 영광과 아름다운 나라의 모든 것을 상속해주시며 그토록 좋은 당신의 품에 영원히 거하는 삶을 온전히 누리도록 나와 끝까지 동행하시고 날마다 인도하시는 온전한 사랑의 주님이심을 사도는 말하고 있다.

장재형 목사의 로마서 강해 책을 읽으며 나의 인생이 무엇인가에 대한 답이 분명해진다. 이런 주님의 예정하심, 이런 주님의 부르심, 이런 주님의 뜻으로 말미암은 나의 인생임을 마음 깊이 깨달아가며, 나의 삶이 얼마나 소중하고 감사하며, 기쁜 것인지를 알아간다.

예수만이 진리이며 나의 삶의 길이며 생명임을 고백하지 않을 수가 없다.

믿는자들안에 있는 영적 교만에 대한 날카로운 통찰

여정은 결코 무겁고 짐스러운 것이 아니라, 너무나 즐겁고 행복하며 가치롭고 소중한 과정이리라…우리를 사랑하시되 이리도 온전한 사랑으로 우리를 사랑하시는 그 사랑속에 빠져 한걸음 한걸장재형 목사는 로마서 2장 강해를 통해 믿는 자들 안에 있는 ‘영적 교만’ 에 대해서 말했다. 이것은 믿는 자들이 항상 경계하고 조심해야 할 모습이다. 나도 모르는 사이, 어느새 영적 교만이 내 안에 스며들어와 결국 나를 침몰시키고 말 것이기 때문이다. 아주 오랜 시간 다른 사람을 지도하고 인도해 왔던 사역자라 할지라도 예외는 아닐 것이다. 오히려 그 선행이 많을수록 공로가 많을수록 위험할 수 있는 것이다.

영적 교만이란 무엇일까?

유대인들은 이방인들을 향한 멸시의 마음과 동시에 스스로를 향한 우월감을 가지고 있었다. 그들은 이방인들이 지옥의 불쏘시개와 뗄감으로 사용될 자들이라고 여겼다. 그들은 왜 그런 생각을 가지고 있었을까? 우리 안에 있는 남보다 더 높은 자리에 서고 싶은 교만스러운 욕망이 생각이상으로 너무나 강렬히 뿌리박혀 있지 않은가 생각해보게 된다. 다른 사람을 인도하거나 어떤 일을 결정하는 자리에 서는 사람일수록 이 교만을 깊이 바라보지 않으면 안된다. 마치 자신이 다른 이들보다 더 우월한 존재라는 착각에 빠질 수 있기 때문이다. 로마서의 통찰은 참 대단하다.

이런 교만을 뿌리로 하는 수 많은 습관들이 우리 안에 있을 것이다. 이 습관을 따라 생각없이 살다보면, 예수를 늘 말하면서도 막상 예수님의 이름을 욕되게 하는 삶을 살게 될 수 있다. 습관을 따라 무의식적으로 행하는 행동들, 그리고 말과 생각들… 이런 것들이 진정 겸손의 왕이신 예수로 충만한 삶이 되기 위해서는 부단히도 성화의 길을 걸어가야 하리라…

예수의 십자가를 날마다 바라보며 사랑하며 그것을 닮아가는 성화의음을 내딛는 그 삶이 어찌 고되기만 할까. 우리를 거룩하고 흠이 없게 하시려는 그 사랑의 힘이 우리가 인도하시는데 그것이 어찌 절망으로만 얼룩진 삶일 수 있으리라…우리의 넘어짐마저도 함께 하시며 날마다 동행하시고 지키시는데, 성화의 길이라는 것이 어찌 고독과 외로움의 연속이라 할 수 있으랴…

마치 에덴에 있었던 계명이 우리를 속박하고 우리를 시험하며 잘못을 하기만 하면 바로 심판을 내리시려고 하셨던 그런 두렵고도 괴로운 것이 아니었듯이, 오히려 우리를 사랑의 존재로 창조하시고 그 사랑을 위해 자유를 허락하시고, 자유를 가지고 방종으로 흘러갈까 걱정하시며 우리를 보호하시기 위해, 우리를 정결하고 깨끗하게 올바르게 키우시려고 계명까지 세워주셨던 끝이 없는 사랑의 표현이었듯이….

그렇게 오해가 벗겨지고 사랑에 눈을 뜨고 나니 계명을 사랑하게 되었다. 나를 지켜주는 소중한 것으로 계명이 다가오게 되었다. 더이상 나의 자유를 빼앗고 나를 정죄하며 나를 더욱 죄짓게 부추기는 것이 아니게 되었다. 예수로 말미암아 그 사랑을 알고 나니, 계명이 나를 향한 주의 사랑임을 알게 되었다. 그렇게 ‘성화’도 그러하다.

예수 믿고 구원받는 것까지는 좋은데, 선물과 같은 은총을 거저 받는다는 것은 너무도 행복한데, 어느 순간 성화의 과정이 짐스럽고 절망스러우며 외로운 길이 되었다. 나의 힘으로 악한 습관을 벗고 거룩해져 가려고 발버둥쳤지만 절망이 겹겹이 쌓이며 끝없이 참아야만 그런 과정같이 느껴졌다.

그러나 복음에 하나하나 눈떠가며 성화의 과정이 너무도 따뜻한 주님의 사랑이 가득한 과정이라는 것이 마음 깊이 다가왔다. 내 안에 구석구석 깊숙이 자리잡아 그 정체를 온갖 다른 것으로 위장하고 숨어 있는 교만의 흔적들까지도 하나하나 벗기시고 온전케 하시는, 끝까지 책임지시는 그 사랑이 너무나 크다.

그 사랑을 믿지 못하는 불신을 날마다 내려놓고 장차 다가올 영광에 대한 소망을 품으며 내 모든 것을 주께 내어맡기고 주의 진리를 따라 나아가는 그 과정보다 위대한 인생이 있을까? 나 하나를 향하신 주의 사랑은 그토록 나를 소중하고 귀한 존재로 대해주시고 보배롭고 존귀하다 칭해주시고 헤아릴 수 없이 가치롭다 여겨주신다.

그 사랑이 내가 가는 모든 성화의 길의 원동력이고 내가 날마다 전진할 수 밖에 없는 이유이며 모든 어려움을 이길 수 밖에 없는 근거이다. 내가 잘되길, 내가 온전케 되길 나보다 더 더 바라시는 주가 계시고, 그렇게 나를 반드시 영화롭게 하시겠다는 주의 음성이 있는 한 나의 삶엔 어떤 절망도 없는 것이다. 이것이 인생이구나. 한없이 비관적이고 절망적인 시각을 가지고 살아왔던 나에게 복음은 새로운 세계를 열어준 놀라운 능력이다.

그러므로 이제 내 안의 죄에 대한 폭로가 두렵지 않다. 그리고 말씀에 비추어본 내 모습은 매우 심각하다. 내가 다른 사람보다 더 높은 자리에 서 있음이 드러날 때, 안심한다. 그렇지 못할 때, 두렵다. 물론, 내 안에 나보다 다른 이가 더 빛나기를 바라는 사랑의 마음이 있다. 그의 기쁨이 진심으로 나의 기쁨이 되는 하나님의 형상이 있다. 그러나, 분명히 죄적인 모습도 있는 것이다.

두려움의 많은 부분이 교만에 기인한다. 교만으로 빚어지는 수많은 빗나간 감정들이 있다. 아버지의 기쁨에 진정으로 동참하지 못하고 아버지의 슬픔에 진정으로 동참하지 못하는 아들답지 못한 나의 모습들이 있다. 아들다운 아들이 되는 것, 이것이 진정한 삶이다. 이것이 내 삶의 시작점이고 내 인생의 목적이다. 너무나 본능적으로 높아지려는 교만이 있다. 이것이 핵심이다. 이것이 아버지와 아들의 관계를 파괴하고 우리의 삶을 빗나가게 하는 그 지점이다.

유대인들 안에 이방인을 향한 멸시와 경멸… ‘너희는 지옥이고 나는 천국이다’라는 이 영적 교만의 모습은 하나님의 축복이 임할수록 오히려 더 짙어지는 모양새를 가진다. 장재형 목사의 로마서 2장 강해에서도 이것을 지적하고 있다. 하나님의 자비와 축복까지도 자신을 높이는 데 필요한 재료로 전락시키고, 그 진정한 사랑을 깨닫지 못한 채, 이방인들 앞에 자신의 우월성을 드러내는 근거로 삼아버리는 이 교만의 간교함이 진리앞에 부서져야만 하는 것이다. 남들보다 높아지지 않으면 견디지 못하는 이 어리석음과 끔찍한 교만을 따라가는 그런 삶이 될 수는 없다. 겸손의 왕, 예수만을 따라가기 원한다. 장재형 목사의 로마서 강해 2장은 신앙인의 죄를 깊이 찌른다. 앞으로도 더 읽어봐야겠다.

장재형 목사 로마서 강해

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장재형 목사(장다윗 목사) 사순절 40일 묵상집 – 예수 그리스도의 십자가

장재형 목사 사순절 묵상집
장재형 목사

이 글은 미국의 장재형 목사(장다윗 목사, 올리벳대학교 설립)의 2003년 부터 2008년까지의 사순절 기간 장목사가 사순절 묵상을 위해 설교한 내용을 그의 편집해서 낸 ‘십자가의 길’중 요한복음 19장을 다룬 ‘빌라도의 심문’이라는 챕터를 묵상하고 썼다.

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​사순절은 부활절 전, 주일을 빼고 재의 수요일부터 40일의 기간을 의미한다. 사순절 묵상은 예수를 믿는 우리 신앙이 깊어지는 지름길이라고 생각한다. 사순절 묵상에서 가장 중요한 것은 예수 그리스도의 십자가이다. 하나님의 아들이 이 땅에 오길 그 토록 고대하던 이들에게 하나님의 아들이 왔지만 그들 안에 있는 증오와 살기는 어디에서 왔을까? 그것은 까닭이 없는 것이라고 장재형목사는 이야기 한다. 빌라도 조차도 그분이 죄가 없는 분이시라는 것을 알았다 그래서 로마의 총독이었던 자가, 이스라엘을 지배하던 자가 예수님을 놓아주려고 했었던 것이다. 그런데 하나님의 선민이라 스스로 믿었던 자들, 뿐만 아니라 정말로 하나님의 선민이었던 자들인 유대인들은 어떻게 하라고 하는가?

요한복음 18장

18:39 유월절이면 내가 너희에게 한 사람을 놓아 주는 전례가 있으니 그러면 너희는 내가 유대인의 왕을 너희에게 놓아주기를 원하느냐 하니

18:40 저희가 또 소리질러 가로되 이 사람이 아니라 바라바라 하니 바라바는 강도러라

사순절이면 어느 교회에서건 사순절 묵상으로 이 부분을 읽을 것이다. 이 앞에 글에서 언급했지만 빌라도는 유대의 전통을 알고 있었다. 유월절이 되면 대제사장이 한명을 자유롭게 해줬는데 39절의 이 말은 ‘예수를 놓아 주길 원한느냐’ 였다. 하지만 요한복음 18장 40절 유대인의 외침이 무엇인가?

“우리는 예수를 죽이길 원한다” “우리는 예수가 죽기를 원한다” 와 같은 외침이다. 빌라도 조차 예수님이 죄가 없다는 것을 알았는데 유대 종교지도자들과 유대 선민들은 얼마나 더 잘알고 있었을까? 그런데 그들은 알고 있었지만 또 알지 못했다. 이게 너무나 중요하다. 신앙이 뜨겁고 신념이 강할 수록 더 크게 빗나갈 수 있고 더 크게 증오에 바질 수 있기 때문이다. 사순절 묵상은 특히 신앙인에게 많은 메시지를 던져준다.

오늘은 기술이 발달해서 AI로 이미지를 만들어 내기도 하다. 심지어 가짜를 진짜 같이 만들어 내기도 하는게 그게 언듯 보기에는 그럴싸하다. 내 지인이 임영웅씨가 부르는 찬양이 있다면서 그 링크를 보내줘서 들어본적이 있다. 뭔가 어색하긴 하지만 임영웅씨가 안 부른 것도 아니라는 그런 애매 모호한 음성이었다. 그냥 들으면 ‘임영웅씨가 찬양도 부르는구나’ 할 정도인거다. 그런데 이게 AI가 만든 거라는 거였다. 이 때 나는 너무나 큰 충격에 빠졌다. 사순절 묵상과 무슨상관인가? 매우 정치적이었던 빌라도의 심문과 관련이 있는 것이다. 정치적으로 들어가보자.

2024년 11월에 미국의 대통령선거가 있다고 한다. 그런데 벌써 부터 공화당과 민주당의 대선 후보들이 치열한 레이스를 펼치고 있다고 하더라. 지난 번에 대선에서 경쟁을 한 두 사람이기 때문에 올해 두 사람의 경쟁은 더 볼만 할거다. 세계의 초 패권국가인 미국의 대통령 선거는 전 세계에 영향을 미치는 결과를 가져 온다. 이걸 부인할 사람이 과연 몇이나 될까? 그 만큼 미국이라는 나라는 세계에 영향력이 큰 국가이다. 기술의 발달이 이번 대선에서 무슨 영향을 미치게 될까?

바로 AI를 가지고 허상의 이미지를 진짜 같이 만들어서 온라인에 배포를 하고 이를 선거 표심에 영향을 주게 되는 거다. 가령 트럼프 전 대통령이 이번 공화당의 대선 후보로 최종 결정이 되었는데 거침없는 언사로 유명하지 않은가? 그를 지지하는 이들은 그를 지지하는 이유가 있을 거다. 그리고 민주당의 조 바이든 현 미국 대통령을 지지하는 이들 또한 그를 지지하는 이유가 있을 거다.

대체로 자신의 지지 층이 있기 마련 일텐데 트럼트 전 대통령이 흑인들과 함께 사진을 찍는 것을 AI로 만든 다음에 이것을 인터넷에 확산 시킨다는 거다. 흑인과 어울려 사진찍은 적이 없는데 말이다. 그리고 현재 트럼프 전 대통령은 여러 혐의로 조사를 받고 있다. 우리 나라의 이재명대표 처럼 말이다. 그래서 트럼프 전 대통령을 싫어하는 이들은 이가 경찰에 쫓기고 잡히는 장면을 AI로 만들어서 확산 시킨다.

이 두 사진이 가짜라는 것을 사람들이 알까? 이게 진짜라는 것을 사람들이 곰곰히 생각해볼까? 사실 확인을 하려고 할까? 그게 아니다. 사람들은 자신이 믿고 싶은 것을 믿는 경향이 강하다. 그래서 조작된 사진, 조작된 증거를 본다 하더라도 그게 조작되었다는 것에 관심이 있기 보다는 그 조작된 것을 그냥 그대로 받아들이고 만다. 나는 정치에 관심이 전혀 없어서 정치 관련된 뉴스를 거의 보지를 않는다. 인터넷 신문에 들어가서 헤드라인 기사 정도만 간단히 읽는 정도이지 그것을 클릭해서 구체적으로 읽고 관련 기사를 찾아보고 하는 행위는 절대 하지 않는다.

정치는 게임과 같다. 내가 하는 게임이 아니라 상대방이 하는 게임에 중독되는 거다. 기독교에도 정치가 존재한다. 교단 정치, 노회 정치치, 교회 정치라는 말이 있다. 그 말은 교단 안에서도 정치를 해야 하고 노회 안에서도 정치를 하고 심지어 교회 안에서도 정치를 해야 한다는 말이다. 정치라는 것은 불가근 불가원이라고 나는 생각한다. 정치를 하지 않으면 안되는 것이지만 또 그것에 너무 큰 관심을 가지면 허송 세월 하게 된다고 나는 생각한다. 세상의 정치야 중요한 것이지만 기독교 안에서의 정치는 별로 중요한게 아니다. 왜냐? 우리 삶에 크게 영향을 미치는게 아니기 때문이다. 교단의 총회장이라고 해서 노회와 교회에 무슨 영향을 미칠 수 있단 말인가? 아무 영향을 미칠 수 없다. 정말로.

세상의 정치가 중요한 것은 우리의 생활과 관련된 입법이라는 역할을 하기 때문이다. 이게 가장 중요하다고 나는 생각한다. 입법에 관련된 것을 찾아 보기 위해서는 많은 노력이 필요한데 그것을 언제 다 하고 있나? 그러니 차라리 방관자가 되고 투표나 열심히 하는게 나는 최선이라고 생각한다. 정치인이라면 정치인 답게 행동하고 본을 보여야 하는데 우리 나라 정치는 매력젹이지가 않다. 유럽의 어느 나라 처럼 국회의원에게 주는 돈을 대폭 축소하고 권한까지도 분산 시키면 인기 없는 직업이될 텐데 이게 우리 나라에서는 불가능하기 때문에 어쩔 수 없다. 최근 대선 후보로 나왔었던 분을 만나서 차를 마셨다. 꿈은 가지고 있지만 현실이 되기 어려운…정치도 게임 처럼 중독이 된다.

위에 사진에서 보듯이 우리는 자신이 믿고 싶은 것을 더 잘 받아들이는 경향이 있다. 잘 못된 자신의 생각을 바꾸려고 하지 않고 자신의 생각이 맞다는 것에 더 확고한 증거를 쌓으려고 하는 데 그 증거가 거짓이더라도 그것을 진실로 받아들이는 경향이 있다. 우리 나라 사람들은 민족의 특성이 그런지 몰라도 굉장히 선동에 약한 부분이 있다. 선동에 약하니 정치가 선동적으로 가는 거다.

자 이제 요한복음 19장이다. 사순절에 정말 이 장면을 많이 읽어왔다. 이 장에는 예수님의 고난과 십자가에 메달리심 그리고 운명하심이 기록되어 있다. 성경 전체를 통틀어 가장 묵상하기 어려운 장이라고 생각한다. 장재형 목사도 사순절 묵상집에서 이 부분을 읽을 때 마음에 오는 슬픔과 고통이 큼을 여러 번 언급한다. 문이 있다면 열고 들어가기 싫은 문이다. 하지만, 이 문을 열고 들어가만 한다. 그래서 우리가 얻을 수 있는 귀한 것들이 있다. 그만큼 고통스럽고 힘든 장면들이 기록되어 있지만 또 다른 측면에서 보자면 인류와 역사를 사랑한 하나님의 아들의 크신 사랑을 이 장을 통해서 볼 수 있게 된다. 문을 열고 들어가보자.

요한복음 19장 1절로 3절

19:1 이에 빌라도가 예수를 데려다가 채찍질하더라

19:2 군병들이 가시로 면류관을 엮어 그의 머리에 씌우고 자색 옷을 입히고

19:3 앞에 와서 가로되 유대인의 왕이여 평안할지어다 하며 손바닥으로 때리더라

하나님의 아들이 이렇게 채찍질을 당하고 군병들은 가시로 면류관을 만들어 씌우고 자색 옷을 입힌 후 조롱했다.

이것을 보고 계시던 성부 하나님은 어떠셨을까? 우리는 이것을 몇 가지 다른 시각에서 볼 수도 있다. 하나는 성부 하나님의 시각, 그리고 이 장면을 바라 보는 유대인들의 시각, 이 자리에 요한이라는 제자가 있었기 때문에 요한이 바라보는 시각, 그리고 예수님의 시각 마지막으로 나의 시각이다.

성부 하나님의 시각에서 보자

마가복음12장

12:1 예수께서 비유로 저희에게 말씀하시되 한 사람이 포도원을 만들고 산울로 두르고 즙 짜는 구유 자리를 파고 망대를 짓고 농부들에게 세로 주고 타국에 갔더니

12:2 때가 이르매 농부들에게 포도원 소출 얼마를 받으려고 한 종을 보내니

12:3 저희가 종을 잡아 심히 때리고 거저 보내었거늘

12:4 다시 다른 종을 보내니 그의 머리에 상처를 내고 능욕하였거늘

12:5 또 다른 종을 보내니 저희가 그를 죽이고 또 그 외 많은 종들도 혹은 때리고 혹은 죽인지라

12:6 오히려 한 사람이 있으니 곧 그의 사랑하는 아들이라 최후로 이를 보내며 가로되 내 아들은 공경하리라 하였더니

마가복음 12장 6절에 나온 것이 바로 성부 하나님의 마음이다. 사순절에는 내 마음 내려놓고, 아버지의 마음을 더 생각해봐야한다. 아름다운 포도원이 있었는데 농부들에게 세로 주고 타국에 갔다는 거다. 그리고 때가 되어 농부들에게 포도원 소출을 받으려고 종을 보냈는데 종을 잡아 심히 때렸다는 거다. 다른 종을 보냈는데 또 농부들은 종을 능욕하고 또 종을 보냈는데 그를 죽이고 많은 종들도 때리고 죽였다는 거다. 그렇게 되면 어떻게 하나? 이 농부들을 기다리는 것은 죽음 뿐이다.

주인이 농부를 죽이는게 상식적이다. 칭키스칸이라는 몽골의 위대한 지도자가 있었는데 지금은 사라진 제국에 자신의 사신을 보냈다고 한다. 400명 정도의 상인과 사을 보내면서 나는 칭기스칸인데 너희들 내 밑으로 들어와라라는 편지를 보냈다고 한다. 그러자 그들은 칭기스칸의 사신을 모조리 죽여버렸단다. 다시 칭기스칸이 같은 수의 사신을 또 보냈는데 이번에는 머리 카락을 다 잘라버린 후 돌려 보냈다고 하더라. 그 다음에 칭기스칸은 직접 군대를 이끌고 와서 그 나라를 완전히 섬멸시켜서 이 지구상에서 아예 사라져 버렸다고 한다.

이게 호라즘 왕국이라는 곳이다.

보통 이러지 않은가? 강대국을 무시했을 때 전쟁이 일어나고 약자는 전멸하고 종이 되는게 역사에 일반적인 흐름이다. 계속 해서 애원하지는 않는다. 그런데 정말 다른 하나님의 모습을 보게 된다. 하나님이 보낸 많은 종을 때리고 모욕하고 능욕하며 죽인 농부들에게 마지막으로 죽음의 신을 보내는게 아니라 자신의 아들을 보낸다. 사순절 묵상에서 예수 그리스도의 십자가, 그 길을 바라보시는 아버지 하나님의 입장을 생각해보라.

마가복음12장 6절

12:6 오히려 한 사람이 있으니 곧 그의 사랑하는 아들이라 최후로 이를 보내며 가로되 내 아들은 공경하리라 하였더니

내 아들은 공경하겠지? 내 아들이라고 알아보고 그들이 잘 따르겠지? 하지만 꿈의 배반이 온다. 마치 유다가 사랑의 배반을 하듯 그 선민들도 유다를 닮아서 사랑의 배반을 한다.

마가복음 12장 7절

12:7 저 농부들이 서로 말하되 이는 상속자니 자 죽이자 그러면 그 유업이 우리 것이 되리라 하고

12:8 이에 잡아 죽여 포도원 밖에 내어 던졌느니라

상속자를 죽이자. 사순절 묵상의 핵심 키워드 중 하나이다. 죽이자. 죽임. 상속자를 죽이고 우리가 그의 포도원을 빼앗아 버리자. 예수님을 이야기 하는 거다. 그런데 농부들 안에 어떤 마음이 있는가? 포도원이 무엇인가? 농부들은 하나님을 믿는 자들이라 할 수 있다. 이 시대로 보면 유대인들 이스라엘 백성들이다. 그들이 지킨 것이 무엇인가? 성전이라고 하자. 예배이고 하나님의 말씀이라고 하자. 그런데 그들이 성전을 통해서 무엇을 하는가? 자신의 유익을 구한다. 자신의 배를 부르게 하고 자신의 부를 축적하고 로마와 결탁한다.

이를 지키기 위해서 그들이 하는게 무엇인가? 이 포도원을 빼앗아 버리자. 내것이 되게 하자. 이 포도원을 사유화하자. 이 포도원을 영원이 내것이 되게 하려면 상속자를 죽여버리자. 이 농부들은 상속자를 상속자로 알아 봤다. 추측이다. 종교지도자들은 예수가 그리스도라는 것을 알았다는 것인가? 몰랐다는 것인가? 알았다는 거다. 마가복음 12장을 보면 그들이 상속자를 상속자로 알았다는 거다. 아들을 아들로 알았다. 그럼에도 불구하고 그들은 상속자를 죽였다. 왜? 포도원을 빼앗아 버리기 위해서 아들을 죽인거다. 사순절 묵상을 통해 우리가 깨닫는 것은, 이 죄가 우리 안에도 있다는 것이다.

빌라도가 예수님이 죄가 없는 분이라는 것을 알았다. 대제사장들도 마찬 가지였고 유대인들도 마찬 가지였다. 그들은 예수가 죄가 없는 분이라는 것을 알았고 제자들의 고백을 통해서 그들은 예수가 그리스도라는 것도 알았다 그리고 율법을 찾아 보지 않았겠는가? 예언서를 찾아 보지 않았겠는가? 그들은 예수가 상속자임을 알았다. 그런데 예수님이 와서 성전을 정화하시는 것을 보고 예수님이 하시는 것들을 보고 그들은 그가 그리스도임을 알았다. 그런데 어떻게 해야 하는가? 우리가 이 성전을 빼앗기게 생겼으니 그를 죽이고 성전을 빼앗아 버리자라고 했던거다. 이게 사순절 우리가 묵상할 것이다.

이들이 누구인가? 군인들이 예수님을 조롱할때 손으로 때릴 때 예수님을 보호해야 할 자들이 아닌가? 그들의 주인이 아닌가? 종들이 오히려 상속자의 죽음을 당연시 여기는 이 참혹한 역사의 한 장면을 봐라. 인간이 타락하면 여기까지 오게 된다. 누구까지 죽이게 되는가? 하나님의 아들까지도 죽이는게 인간이라는 거다. 요한은 이것을 기록하고 있다. 사랑의 사도는 사랑을 배반한 인간들이 할 수 있는 가장 악한 행위가 무엇인가를 써놨다. 그것은 자신들의 부르짖음에 응답해서 이 땅에 그들을 죄의 고통에서 구원하기 위해 온 메시아를 그들의 손으로 죽이는 장면을 써놨다.

어제 뉴스에서 보니 2011년 후쿠시마 온천이 폭발을 했는데 원자로를 폐쇄하기 위한 일련의 작업을 하면서 원자로 안으로 로봇을 들여 보내 그 내부를 촬영한 뉴스가 나왔다 그러면서 죽음의 원전이라고 했던가…가장 무서운 장면이라고 표현하더라. 그 뉴스를 보면서 내가 생각났던게 우리의 죄가 원전 보다 더하다는 거다. 저렇게 무서워서 사람이 들어가지 못하고 로봇을 개발해서 사고가 난 장소로 들여보내고 그곳을 파악하려고 하는 인간의 노력은 눈물 겹지만 원전보다 더 무서운게 우리의 죄가 아닌가? 그런데 우리의 죄를 우리가 그렇게 무서워하는가? 죽음 보다 죄를 더 무서워하는가? 아니다. 너무나 죄에는 익숙하다. 죄에 무디어지고 원전 사고는 무서워하는 아이러니한 모습이 우리에게 있다. 사순절에는 이러한 모습을 더 깊이 알아가야한다.

일본산 생선에 후쿠시마 원전의 열을 식히는데 쓰인 그 물을 바다에 방수하고 있는데 그것에 생선이 방사능 오염이 되었을 테니 우리가 먹으면 방사능 오염된 생선을 먹어 큰 일 난다는 뉴스가 나온다. 옛 날에 광우병 사태가 생각나더라.

오염된 생선이네 아니네를 따지자는건 아니다. 인간자신의 생명뿐 아니라 타인의 생명까지도 소중이 여기는 존재라는 거다. 나의 생명뿐 아니라 다른 이들의 생존권을 위해 스스로를 희생 할 줄도 아는 존재가 인간 아닌가? 지구를 위해서 환경 운동하는 그린피스도 존재하고 동물의 생존을 위해서 북극곰을 지키기 위해서 운동하는 단체도 있지 않은가? 유럽 어느 나라에서는 살아 있는 생선을 바로 칼로 죽인 후 음식을 만들어서는 안된다고 한다. 왜냐고? 생선이 고통을 느낄 거니까 기절 시킨 후 고통없이 죽여야 한다는 거다. 그렇게 타인을 배려하고 심지어 생선까지도 배려하는 존재가 인간 아닌가? 그렇게 고상한 존재가 인간 아닌가? 그런데 왜 예수는 죽였는가? 죄로 인해 죽어가는 자기 자신은 왜 돌아보지 못하는가? 나는 아니라고 할건가? 사순절이니 더 정직하게 나를 돌아보자.

요한복음19장4절로 5절

19:4 빌라도가 다시 밖에 나가 말하되 보라 이 사람을 데리고 너희에게 나오나니 이는 내가 그에게서 아무 죄도 찾지 못한 것을 너희로 알게 하려 함이로다 하더라

19:5 이에 예수께서 가시 면류관을 쓰고 자색 옷을 입고 나오시니 빌라도가 저희에게 말하되 보라 이 사람이로다 하매

채찍에 맞아 피를 흘리고 가시관을 쓴 33세의 젊은 청년 예수, 빌라도는 이런 예수님을 군중 앞에 보이면서 죄가 없다고 한다. 로마의 총독이 예수는 죄가 없다고 한다. 이방인이 죄가 없다고 한다. 빌라도는 어떤 자인가? 아주 흉폭한 자였다 그럼에도 불구하고 이 자는 예수에게서 죄를 찾을 수 없다고 다시 말 한다. 죄가 없는데 너희를 돌이키기 위해서 내가 채찍으로 그를 쳤다. 이 고통스러워하는 젊은 청년을 보라. 너희 마음에 이를 불쌍히 여기는 마음이 생기지 않느냐? 이 사람은 죄가 없다. 이게 빌라도의 외침이다.

하지만, 유대인들은 어떤가? 동정의 마음이 없다. 이 흠없는 어린양의 피를 보고도 그들은 동정심이 생기지 않고 오히려 뭐라고 하는가?

요한복음 19장 6절

19:6 대제사장들과 하속들이 예수를 보고 소리질러 가로되 십자가에 못 박게 하소서 십자가에 못 박게 하소서

​십자가에 못 박으라. 이 말은 너무나 우회적이다. 우리에게 쉽게 와닿는 직접적인 표현으로는 “예수를 죽여라”이 말이다. 이 말은 빌라도의 입에서 나온 말이 아니다. 하나님을 믿었던 자들 입에서 나온 말이다. 그 외침이 빌라도의 관정에서 크게 들린거다. 이런 잔인한 외침이..

“예수를 죽여라” “예수를 가장 고통스럽게 죽여라”

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장재형 목사 사순절 묵상집

송축해 내 영혼(Bless The Lord, 10000 Reasons) – 맷 레드먼(Matt Redman)

안녕하세요~ 한글과 영어 찬양가사를 한 악보에! 오늘은 한글 영어 찬양 악보 송축해 내 영혼(Bless The Lord, 10000 Reasons) 포스팅합니다. 맷 레드먼(Matt Redman)의 유명한 찬양이죠.

10000_reasons 맷 레드먼 Matt redman

서정적이고, 멜로디어스하고, 동양적인 느낌? 민속적인 느낌? 이 납니다.

마찬가지로 예배 때에 불렀던 곡인데, 원곡 같이 G키 찬양으로 하면… 성대가 많이 아프더라구요. 영어 악보 가사가 더 좋은,, 한국어 번역이 완전하긴 좀 힘들겠지요 ㅠㅠ 어쨋든 은혜로운 찬양입니다. 특히, 맷 레드먼이 신앙으로 상처를 극복한 것을 생각하면 더더욱.. 그에겐 하나님이 전부였던 것 같습니다.

오늘 포스팅한 10000 reasons는 GPT도 맷 레드먼의 대표곡으로 뽑고 있네요 ㅎㅎ 맷 레드먼을 소개해달라고 물어보니 이렇게 답합니다

“맷 레드먼(Matthew Redman)은 영국의 기독교 음악 작곡가이자 뮤지션입니다. 그는 현대 기독교 음악계에서 중요한 인물 중 한 명으로 손꼽히며, 다양한 교회 음악, 찬양, 그리고 예배 음악을 작곡하고 노래해왔습니다. 맷 레드먼의 작품은 그의 강렬한 가사와 음악적 재능으로 유명하며, 이는 수많은 교회와 기독교 음악 단체에서 폭넓게 사용되고 있습니다. 그의 대표적인 곡으로는 “10,000 Reasons (Bless the Lord)” 등이 있습니다. 이 곡은 많은 사람들에게 큰 영감과 위로를 주었으며, 기독교 음악계에서 큰 인기를 끌었습니다.”

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제가 아는 어느 찬양목사님이 5년정도 전에 예배만 드렸다하면.. 장재형목사 님이 설교를 전해주셨던 예배들이었는데요. 아침이면 아침마다 이곡을 꼭 부르셨던 .. 1년은 부르셨는데 언제 함께 찬양해도 좋았던 기억이 있습니다. 마음을 울리니 장재형목사 님 설교 메시지도 오히려 집중해서 잘 듣고 은혜를 받았었네요. 요즘 장재형목사 님 예배에서는 사순절 찬양을 많이 부르시지만.. 그분의 favorite? 인생찬양? 이라는 것은 누구나 알 수 있었던 ㅎㅎ

이 찬양은 한국어 가사와 영어 가사를 섞어 부르기도 좋은 것 같습니다. 송축해 내영혼~ 살짝 느낌이 안삽니다. 블레쓰 더 롤~~~d 하면 또 느낌이 살고요 ㅎ 참고로 한글 영어 찬양 가사를 섞어서 부를 때 장단점이 있습니다. 제가 인도할 때는 다양한 나라의 분들이 예배드렸는데 어학당에서 온 학생들이 많았어요. 섞어불렀을 때 정말 아름다웠습니다.

물론 마지막에 ‘I worship Your Holy Name’ 반복할때는 6도 마이너코드로 해주는 센스!

찬양을 한글과 영어 가사를 섞어 부르는 것에는 몇 가지 장단점이 있을 수 있습니다.

장점:

  1. 문화적 다양성: 한글과 영어를 섞어 부르면 문화적인 다양성을 나타낼 수 있습니다. 다양한 언어를 사용함으로써 다양한 듣는 이들에게 접근성을 높일 수 있습니다.
  2. 국제적 인식: 한국과 외국 사람들 모두를 대상으로 한 공연이나 음악에서는 한글과 영어를 섞어 부르는 것이 국제적으로 인식될 수 있습니다.
  3. 예배 참여 증진: 외국인이나 외국어를 구사하는 교인들도 함께 찬양에 참여할 수 있도록 돕는 역할을 할 수 있습니다.

단점:

  1. 언어 이해의 어려움: 한글과 영어를 섞어 부를 경우, 듣는 이들 중 한 언어를 이해하지 못하는 사람들에게 혼동을 줄 수 있습니다. 특히 언어적인 표현이나 문화적 차이로 인해 가사의 의미를 제대로 이해하지 못할 수 있습니다.
  2. 발음과 억양의 차이: 한글과 영어는 발음과 억양이 다르기 때문에, 가사를 부를 때 자연스러운 전환이 어려울 수 있습니다. 이로 인해 부자연스러운 느낌을 줄 수 있습니다.
  3. 음악적 통일성: 한글과 영어를 섞어 부를 경우, 음악적인 통일성이 떨어질 수 있습니다. 가사의 언어적인 차이로 인해 음악의 흐름이 끊어질 수 있습니다.

따라서 한글과 영어를 섞어 부를 때에는 듣는 이들의 언어적 이해도와 문화적 배경을 고려하여 적절히 혼용하는 것이 중요합니다. 음악적 통일성을 유지하면서 다양한 언어를 활용하여 듣는 이들에게 다가갈 수 있는 방법을 모색하는 것이 좋습니다.

어학당에 다니시는 분들이 한국어 가사로 노래를 부를 때에는 다양한 느낌을 경험할 수 있다고 해요. GPT에 물어보니 이런 답을 주네요

  1. 자부심과 자신감: 언어를 배우고 있는 상황에서 해당 언어로 노래를 부르는 것은 큰 도전일 수 있습니다. 그러나 노래를 부를 때 자신의 발음과 억양이 개선되고 있다는 느낌을 받을 수 있으며, 이는 자부심과 자신감을 높일 수 있습니다.
  2. 문화적 이해와 연결: 한국어 노래를 부르는 것은 한국 문화에 대한 이해를 높이고 해당 언어와 문화에 대한 연결을 강화할 수 있는 좋은 방법입니다. 이를 통해 언어 학습에 대한 동기부여를 얻을 수 있습니다.
  3. 즐거움과 흥분: 언어 학습의 일환으로 노래를 부를 때는 새로운 경험과 도전으로 인해 흥분되고 즐거움을 느낄 수 있습니다. 노래를 통해 언어를 연습하는 과정 자체가 즐거운 시간이 될 수 있습니다.
  4. 커뮤니케이션 기술 향상: 노래를 부르는 것은 발음, 억양, 감정 전달 등을 연습하는 데 도움이 됩니다. 언어 학습뿐만 아니라 실제 커뮤니케이션에도 도움이 되는 능력을 향상시킬 수 있습니다.
  5. 문화 교류와 친밀감: 언어를 통해 노래를 부르는 것은 다른 언어와 문화를 가진 사람들과의 교류를 촉진시키며, 이를 통해 친밀감과 이해도를 높일 수 있습니다.

총체적으로 보면, 한국어 노래를 어학당에서 부르는 것은 언어 학습에 대한 새로운 시도와 도전으로 다가올 수 있으며, 이를 통해 학습의 효과를 높일 수 있습니다.

아 참, 맷 레드먼의 소개를 GPT는 ‘강렬한 가사’라고 하는데, 저는 오히려 부드럽고 마음을 울리는 가사라고 생각합니다. GPT는 역시 한참 멀었네요 ㅋ

여하튼 장재형목사(올리벳대학교 설립자인 그분 맞습니다!)님도 한결같이 강조하시는 것이 예수님의 완벽한 대속의 십자가 은혜를 말씀하십니다. 보혈의 은혜에 힘입어 살아가라고. 은혜를 놓치면 안된다고. 오직 예수 그리스도! 다른 이름은 없고 오직 나사렛 예수 그리스도!

맷 레드먼의 찬양 중에는 정말 좋아하는 찬양인 Once Again (다시 한 번)이 그 대속의 은혜에 대해.. 맷 레드먼의 마음 깊이에서 우러나오는 감사와 묵상을 느낄 수 있었어서 또 사순절에 많이 불렀던 것 같습니다.

맷 레드먼 Matt redman

원곡을 들어도, 악기들이 다 들어가는데도 사운드가 어딘가 절제되어있는 그 특유의 구성도 좋은 것 같습니다. 노래가 무겁지 않고 가볍습니다. 오히려 맷 레드먼의 노래 성향을 물어보니 답을 잘해줍니다

“그의 노래는 찬양과 예배를 중심으로 하며, 종종 신앙과 하나님에 대한 경배와 감사를 다룹니다. 그의 음악은 심오한 가사와 흔하지 않은 음악적 재능을 결합하여 많은 듣는 이들에게 영감과 위로를 줍니다.

맷 레드먼의 노래는 보통 감정적이고 진실된 표현을 갖추고 있습니다. 그의 음악은 종종 감사와 찬양의 기분을 전달하며, 하나님과의 개인적인 관계에 대한 사색을 담고 있습니다. 그의 목소리와 악기 연주는 그의 음악에 깊은 정신적인 층위를 부여합니다.

또한, 맷 레드먼은 현대적이고 다양한 음악 스타일을 사용하여 기독교 음악을 선보입니다. 그의 곡은 어쿠스틱 기타, 피아노, 현악기, 그리고 퍼커션 등 다양한 악기를 활용하여 다채로운 소리를 구현합니다. 그의 음악은 교회에서 사용되는 것뿐만 아니라, 개인적인 예배 시간이나 신앙 생활에서도 자주 들을 수 있는 형태로 인기를 끌고 있습니다.”

사실 맷레드먼의 찬양중에는 정말 마음을 울리는 곡들이 많습니다. Heart of worship 마음의 예배 / Blessed Be Your Name 주 이름 찬양 / Father’s Song 아버지의 노래 곡들 모두 다 잘 아실 것 같습니다.

이런 가사가 나오는 이면에는, 아주 깊은 묵상과 체험들이 있었을 것 같습니다. 하나님이 영감을 공연히.. 아 물론 공연히 주실 때도 있겠지만, 정말 가사들을 보면 하나님과의 교제가 깊은 분이구나 합니다. 이것은 의무감에서 오는 신앙으로 절대 따라갈 수 없을 것입니다.

의무감에서 오는 신앙의 단점은 여러 가지 측면에서 나타날 수 있습니다:

의미 없는 형식적인 신앙실천: 의무감에서 비롯된 신앙은 종종 형식적이며 의미 없는 행위로 이어질 수 있습니다. 사람들은 예를 들어 교회에 출석하거나 기도하는 것을 단순히 의무적으로 수행할 수 있으며, 이는 내면적인 영성적인 경험과 연결되지 않을 수 있습니다.

가짜 신앙: 의무감에서 비롯된 신앙은 종종 가짜로 비춰질 수 있습니다. 사람들은 다른 사람들의 기대나 사회적 압력에 따라 행동할 수 있으며, 이는 신앙이나 영성적인 성장과는 별개일 수 있습니다.

내면적 공감 부족: 의무감에 의해 신앙을 실천할 경우, 내면적인 공감과 연결이 부족할 수 있습니다. 이는 하나님과의 진정한 관계 형성을 어렵게 만들 수 있습니다.

심리적 스트레스: 종교적인 의무감은 종종 심리적인 부담으로 이어질 수 있습니다. 사람들은 무거운 의무감과 책임감에 시달리며, 이는 스트레스와 불안을 유발할 수 있습니다.

신앙의 위태로움: 의무감에서 비롯된 신앙은 어려움이나 시련이 발생할 때 쉽게 흔들릴 수 있습니다. 이러한 상황에서는 의무감만으로는 신앙을 유지하기 어렵고, 진정한 내면적인 신앙이 필요합니다.

따라서 종교적인 신앙은 의무감에만 의존하는 것보다는 내면적으로 고려하고 수용하는 것이 중요합니다. 진정한 신앙은 개인의 내면에서 비롯되고, 영적인 성장과 경험을 통해 발전해야 합니다.

진솔한 고백을 담은 맷 레드먼의 찬양 같은, 마음을 울리는 많은 찬양들이 어디서나 불려졌으면 좋겠습니다.

한글 가사는 이렇습니다

송축해 내 영혼 내 영혼아 거룩하신 이름 이전에 없었던 노래로 나 주님을 경배해 해가 뜨는 새 아침 밝았네 이제 다시 주님 찬양 무슨 일이나 어떤일이 내게 놓여도 저녁이 올때 나는 노래해 송축해 내 영혼 내 영혼아 거룩하신 이름 이전에 없었던 노래로 나 주님을 경배해 노하기를 더디하시는 주 그의 크신 사랑 넘치네 주의 선하심 내가 노래하리 수 많은 이유로 나 노래해 송축해 내 영혼 내 영혼아 거룩하신 이름 이전에 없었던 노래로 나 주님을 경배해 곧 그 날에 나의 힘 다하고 나의 삶에 여정 마칠 때 끝없는 찬양 드리리라 수 많은 세월 지나 영원히 송축해 내 영혼 내 영혼아 거룩하신 이름 이전에 없었던 노래로 나 주님을 경배해 송축해 내 영혼 내 영혼아 거룩하신 이름 이전에 없었던 노래로 나 주님을 경배해 나 주님을 경배해 나 주님을 경배해

한글 영어 악보도 있는 찬양 추천 부탁드려요^^

https://blog.naver.com/tidus_03/220934429637

한글 영어 찬양 악보 1. 새 힘 얻으리(Everlasting God)

한글 영어 찬양 악보를 한 번에! 첫 악보는 새 힘 얻으리(Everlasting God)입니다. 저희 교회 예배에서 외국인 친구들도 많이 오기에, 찬양 인도할 때에 영어 가사를 함께 적고, 섞어서 함께 부르니 더 은혜가 되네요

새 힘 얻으리, Everlasting God

새 힘 얻으리(Everlasting God)는 8비트 빠른 찬양의 대명사입니다. 원곡은 B키이지만, 한국에서는 A나 Bb으로 많이 불립니다. 인트로는 어쿠스틱 기타로 인도할 때는 sus4 코드를 이용해서 느낌을 살린 플레이도 가능합니다. 악기가 간소할 때는 키가 너무 낮아지면 늘어지는 느낌이 있어서 B나 Bb을 추천합니다!

이 곡은 하나님의 영원한 힘과 신실함에 대한 찬양으로, 어려움과 도전에 직면했을 때 주님의 힘과 지혜를 빌어 이겨내고자 하는 마음을 담고 있습니다. 이 곡은 많은 교회와 크리스천 그룹에서 경배와 찬양 시간에 자주 사용되는 곡 중 하나입니다.

관련된 성구는 이사야 40장 31절입니다.

사40:31 오직 여호와를 앙망하는 자는 새 힘을 얻으리니 독수리가 날개치며 올라감 같을 것이요 달음박질하여도 곤비하지 아니하겠고 걸어가도 피곤하지 아니하리로다

여기서 잠깐, 이사야 40장의 배경을 좀 더 깊이 살펴봅시다!

이사야 40장은 구약 성경의 한 장으로, 이사야의 예언 중 하나입니다. 이 장은 이스라엘을 위로하고 위로의 소식을 전하는 내용을 담고 있습니다. 주석을 통해 이 장을 이해해 보겠습니다:

  1. “너희 하나님께서 말씀하시되 너희를 위로하라 너희를 위로하라 내 백성들에게 말하라” – 이 시작 부분에서 하나님은 그의 백성을 위로하라고 이사야에게 명령합니다. 이는 이스라엘의 포로가 어떤 어려움 속에 있을 때 하나님의 위로와 힘을 받을 수 있음을 알려줍니다.
  2. “너희 죄를 속하게 하는 소리를 듣고 너희를 위해 보응하는 하나님” – 하나님은 그들의 죄를 용서하고, 그들에게 보응하는 하나님이라고 설명됩니다. 이는 하나님의 자비와 은혜를 강조하며, 그의 백성이 회개하고 돌아오면 하나님은 그들을 용서하실 것임을 약속합니다.
  3. “사막에서 외치는 자의 소리를 들으라 너희는 길을 곧게 하여 우리 하나님을 위하여 광야에서 길을 만들라” – 이는 예수 그리스도의 등장을 예고하는 부분 중 하나로, 선지자 요한 바티스트의 역할을 언급합니다. 그는 사막에서 외쳐 이르되 “주의 길을 예비하라”고 전파할 것임을 예언합니다.
  4. “물이나 산들로 높이를 낮추고 골짜기를 평지로 만들고 험한 땅으로 평지가 되게 함은 여호와의 영광이 나타나게 함이라” – 이 부분은 예수 그리스도의 임방을 예고하는 부분 중 하나로, 예수 그리스도의 등장은 하나님의 영광을 나타내며 모든 산과 골짜기를 평지로 만들 것이라는 의미를 지닙니다.
  5. “여호와의 말씀이 항상 영원할 것이라” – 마지막으로, 이 장은 하나님의 말씀이 영원하고 변함이 없음을 강조합니다. 하나님의 약속과 말씀은 늘 이루어질 것이며, 이는 그의 백성에게 희망과 안정을 줍니다.

이사야 40장은 이스라엘의 소망과 위로에 관한 예언을 담고 있으며, 그리스도의 임방과 하나님의 영원한 약속에 대한 예고도 함께 포함되어 있습니다. 이런 배경 가운데 영원하신 하나님의 은혜, 변치 않는 사랑을 찬양한 것이 Everlasting, 새힘 얻으리입니다.

새 힘 얻으리의 한글 가사는 아래와 같습니다.

새 힘 얻으리 주를 바랄 때
주를 바랄 때 우리 주를 바랄 때
새 힘 얻으리 주를 바랄 때
주를 바랄 때 우리 주를 바랄 때

주님 통치하시네
소망 구원 주시네

당신은 영원하신 주
내 영원하신 주
지치지 않으시는 주님

약한 자 방패되시며 위로자 되신 주
독수리 같은 힘 주시네

Everlasting God으로 영어 가사는 아래와 같습니다.

Strength will rise as we wait upon the Lord
We will wait upon the Lord, we will wait upon the Lord
Strength will rise as we wait upon the Lord
We will wait upon the Lord, we will wait upon the Lord

Our God, You reign forever
Our hope, our strong Deliverer

You are the everlasting God
The everlasting God
You do not faint
You won’t grow weary

개인적으로는 Lincoln Brewster의 버전을 좋아합니다. 이것은 B키네요.

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링컨 브루스터에 대해서도 간단히 소개드려봅니다.

린컨 브루스터(Lincoln Brewster)는 미국의 기독교 음악가이자 싱어송라이터입니다. 그는 주로 현대 크리스천 음악 장르에서 활동하며, 전문 기타 연주자로서도 유명합니다. 브루스터는 자신의 음악에서 신앙과 예배를 중심으로 다루며, 그의 곡들은 많은 크리스천 교회에서 찬양과 예배 시간에 자주 사용됩니다.

린컨 브루스터는 주요 앨범과 곡들로 크리스천 음악계에서 큰 인기를 끌었습니다. 그의 대표적인 앨범 중 일부는 다음과 같습니다:

  1. “Amazed” (2002): 이 앨범은 그의 세 번째 스튜디오 앨범으로, “Everlasting God”와 “Love the Lord” 등의 인기 곡을 수록하고 있습니다.
  2. “Today Is the Day” (2008): 이 앨범은 “Today Is the Day”, “Salvation Is Here” 등의 히트 곡을 포함하고 있으며, 그의 음악적 스타일과 신앙적 메시지를 잘 대변하는 작품입니다.
  3. “Real Life” (2010): 브루스터의 다섯 번째 스튜디오 앨범으로, “Reaching for You”, “Real Life” 등의 곡이 수록되어 있습니다.
  4. “God of the Impossible” (2018): 최근 발매된 앨범 중 하나로, “While I Wait”, “Here I Am” 등의 곡이 수록되어 있습니다.

린컨 브루스터는 그의 음악을 통해 수많은 사람들에게 희망과 영감을 전하고 있으며, 그의 기타 연주 실력과 뛰어난 음악적 재능은 크리스천 음악계에서 많은 사랑을 받고 있습니다.

원 글 링크는 아래와 같습니다!

https://blog.naver.com/tidus_03/220934427176

일본 여행 하코네. 우오가 스시, 아시노 호수, 이즈 리조트&스파 여행!

요즘 핫한 일본 여행와서 내가 장담 컨데 한국 서울에 있는 어느 특급 호텔 보다 맛있는 스시집! 일본여행에서 스시는 빠질 수 없다.

Uogashizushi, 沼津魚がし鮨 流れ鮨 伊豆の国大仁店

한국 사람 대부분은 일본어를 자판에 못 칠거니까 오우가시 스시 집으로 검색하면 된다.

구글 맵은 아래

https://www.google.com/maps/place/Uogashizushi/@35.0036738,138.9382362,17z/data=!3m1!4b1!4m6!3m5!1s0x60199340f0cf3d75:0xd66966f9c9a66883!8m2!3d35.0036694!4d138.9408111!16s%2Fg%2F12hk88yg7?entry=ttu

https://www.uogashizushi.co.jp/shop/e-shop/nagare-oohito/

위에는 홈페이지 주소

이것은 이 가게 주소이다.

여기는 일본 시즈오카현 이즈노쿠니시에 있는 오우가시 스시집이다. 내가 듣기로는 프렌차이 시스집이라고 하더라. 한국 사람들은 이곳으로 여행을 잘 가는지 모르지만 이 근처에 한국어 간판이 있는 식당도 있는데….음….추천하고 싶지는 않지만…가보고 싶다면…

주차장은 넓었다. 단, 반드시 예약을 하고 가야 한다.

작년 여름 이즈시로 비지니스와 여행을 겸해서 다녀 왔다. 이곳에서 스시를 먹고 난 다음에 바로 며칠 후 워커힐 호텔 뷔페에 가서 점심을 먹었다. 왜냐고? 일본의 이 스시집이 너무 생각 나서 스시를 또 먹고 싶어서다.

워커힐 호텔에서 그때 뷔페가 얼마였는지 기억은 안나는 데 지금 워커힐 ‘더 뷔페’의 가격은 17만원 정도 한다. 1인 가격이다.

일본 오우가시 스시집에 가서 한 테이블에 6명씩 두 테이블이 정말 배가 터지게 먹고 또 먹고 입에서 비린내가 날 때까지 먹으라고 했다. 며칠 간 나 때문에 너무 고생했던 이들이어서 마음껏 먹으라고 했다. 24만원 나왔더라.

모든게 다 맛있다. 기가 막히다. 성게알도 너무 맛있다 뭐 하나 안 맛있는게 하나도 없더라. 새우도 너무 맛있었다

워커힐 더 뷔페로 갔다. 워커힐이라면 특급 호텔 아닌가? 여러 음식을 먹을 수 있지만 나는 스시만 골라 먹고 싶었는데…더 뷔페 더 힘을 내야 한다. 이래 가지고는 안된다. 새우가 오우가시 스시집의 그 새우 보다는 2배는 더 맛이 없다. 그 스시집과 비교해서 신선하지도 않다.

워커힐 일식당에도 가봤다. 오우가시 스시 집 보다 못하다.

한국에 좋다는 특급 호텔 다 가봤다. 그 나마 나은 곳이 소공동 롯데호텔 뷔페인데 이것도 최근에 가봤더니…영…

오우가시 스시, 우리 나라 사람들이 자주 가는 후쿠오카에도 있더라. 반드시 이 스시집을 가라. 다른 곳도 많겠지만 내가 다시 간다면 이 스시집을 간다.

이 생선은 살아 있더라…입을 벌리고…

이건 꼭 먹어야 한다. 반드시. 성게알이며…새우며…

국물이 있는 건 추천하지 않는다

하코네 마치라는 곳에 위치한 이시노 호수라는 곳을 갔다. 우리 나라 사람들은 제주도에 백록담과 백두산 천지가 영험하다고는 한다. 나는 백록담도 안 가봤고 천지도 안가봤다.

그런데 아시노 호수는 가 봤다. 대충 찾아 보니 둘레가 거의 백두산 천지 보다는 두배에 가깝다.

아시노 호는 일본 가나가와현 아시가라시모군 하코네정에 있는 호수이다. 약 3000년 전에 하코네 산의 중앙화구구의 대규모의 수증기 폭발에 인해 이루어진 폐색호이다. 면적은 7.1 평방km, 깊이는 43.5m이며 수면 높이는 해발 723m이다 – 위키 백과

이게 산 정상에 위치한 호수더라. 그런데 저렇게 큰 여객선들이 호수를 왔다 갔다 하면서 관광객들을 실어 나른다. 와…정말 엄청나게 컸다. 이 산 정상에 있는 호수에 물고기가 있더라 ^^ 이 물고기는 원래 있었나? 사람이 풀었으려나?

일본의 저런 디테일한 맛집이 인상이 깊었다. 나는 먹지 않았지만 예쁘고 작고 비싸더라 ㅋㅋ

아시노 호수 건너편의 카페

이 호수를 건너 가는 데 신사? 이런게 많이 보였다. 주황색 비슷한 색인데…어딜 가나 저런게 보인다.

거대한 온천이 존재하는 일본, 자연의 힘에 두려움이 커서 저런 신을 믿게 된건가? 아니면 오래전 이 국가를 지배하던 이들의 계획인가? 그 것이 현재도 유지 된다. 여기도 신 저기도 신…존중은 하지만…마음에 내키지 않는다.

www.tfyjapan.com

번역을 하면, 시즈오카현 이즈 요시나 온천이다. Resort&Spa- Izu로 검색하면 된다. 일본에 여러개의 지점이 있다.

아 여길 가야한다. 너무 너무 근사하고 좋다. 온천수에 발을 담그고 차를 마실 수 있는 공간이 저기다. 그리고 건너편 호텔은 상상을 초월할 정도의 가격이기 때문에 잘 수는 없다. 그리고 이곳은 정원도 있고 계곡 옆에 앉아서 쉴 테라스도 있다. 정말 환상적인 곳이다.

작년 7월경 사진과 올해 3월 초 사진

하코네 온천은 일본의 유명한 온천 지역 중 하나로, 도쿄와 나가노 현의 경계에 있다. 이곳은 일본 최고의 온천 명소 중 하나로 인정받고 있으며, 아름다운 자연환경과 탁 트인 산세가 유명하다.

하코네 온천은 일본의 역사적인 온천 지역 중 하나이며, 오랜 역사와 전통을 자랑한다. 온천 지역에는 다양한 종류의 온천이 있으며, 이곳을 찾는 관광객들은 다양한 온천을 즐기며 휴식을 취할 수 있었다.

하코네 온천 지역에는 호텔, 리조트, 료칸 등 다양한 숙소가 있어 편안한 숙박을 즐길 수 있다. 또한, 온천을 테마로 한 다양한 레저 활동과 문화 프로그램도 제공되어 있다.

또한, 하코네 온천 지역 주변에는 아름다운 자연 경관과 명소들이 많이 있어 관광객들이 풍성한 여행을 즐길 수 있었다. 예를 들어, 온천을 배경으로 한 하이킹 코스나 간단한 산책로 등이 있다.

하코네 온천은 일본의 전통과 아름다움을 경험하고자 하는 여행객들에게 추천하는 여행지 중 하나다. 아름다운 자연과 편안한 온천으로 힐링하고 휴식을 취하며, 일본의 전통과 문화를 감상할 수 있는 좋은 장소였다.

너무 힐링이 되는 공간이다. 더군다나 한국 사람은 거의 보이지 않는다. 좋은 건지 나쁜 건지 모르지만 여튼 한국 사람 찾아 보기 힘들다. 골프장에서도 한국 사람을 만나지를 못했다.

다음엔 이곳의 골프장에 대해서 써보기로!!! 아예 사버리자!!!!! ㅋㅋㅋ

https://solafide.kr/