主の祈り – 張ダビデ牧師


1. 愛なる神と「聖」の前提

張ダビデ牧師は「神は愛である(God is love)」という本質的メッセージを強調する。これはヨハネの手紙第一4章8節に記された「神は愛なり」という聖句によって明確に示されている。聖書が語る神の愛、そして人間がその愛をいかに理解すべきかという問題は非常に深く幅広いテーマである。「神が愛である」という真理は、単なる感傷的なレベルではなく、信仰者が必ず体得すべき「本質」に当たるものだ。その愛を理解するために、まず聖書が提示する核心的前提がある。その第一が「私たちと聖なる神との関係」を知ることである。

張ダビデ牧師は「愛の神」を語ると同時に、その愛には必然的に「聖(きよいこと)」という前提があることを強調する。人々は「神は愛である」という御言葉に惹かれやすい一方で、「神は聖なるお方である」というメッセージは見逃しがちである。愛を語る以前にまず押さえるべきは、この愛が聖の上に基礎を置いているという事実だ。神をただ「愛しやすい存在」としてだけ捉えるのでは不十分である。神は全能者であり、同時に私たちとはまったく異なる「聖なるお方」なのだ。旧約聖書において、モーセがミディアンの荒野で燃える柴の中の炎として現れた神と出会ったとき、神が「あなたの足から靴を脱げ」(出エジプト記3章5節)と命じた場面は、そのことを象徴的に示している。神と出会うためには、まず自分の「古いもの」を脱ぎ捨て、聖なる神の前に区別された姿勢で立つ必要があるのだ。燃える柴のエピソードは、旧約時代に神が具体的に姿を表された唯一無二の出来事である。一般的に旧約聖書の登場人物が出会ったのは「神の使い」であって、神の実体的顕現ではなかった。しかしモーセはイエスが来られる前に、神の「かたち」のような現れを最もはっきりと体験した。そしてそこで第一の命題を学ぶ。それは「神は聖なるお方である」ということだ。

では、「聖」とは何を意味するのか。「聖」とは「完全に異なる」という意味である。神の思いと道は、人間の思いと道とは異なる(イザヤ書55章8節)。言い換えれば、神はこの世界で最も高い方であり、何にも縛られない超越者であり、創造主である。また神は万物を創造されたのみならず、それらを保っておられるお方でもある。だからこそ私たちは神に礼拝と賛美を捧げるべきなのだ。人が神を礼拝し賛美することは、神が私たちに「わたしがおまえたちを造ったのだから従え」と強圧的に命じるということではなく、「創造主と被造物」というはっきりとした関係の中で当然なされるべき礼拝行為である。張ダビデ牧師はこれについて「神をあがめず感謝もないなら、ローマ人への手紙1章に記されている罪人たちの辿った轍を踏むことになる」と説明する。ローマ人への手紙1章は、神を知りながら神を崇めず、かえって偶像礼拝や肉の欲に溺れる人間の堕落を描く。その結果は永遠の刑罰、すなわち地獄である。パウロはこれを「彼らには弁解の余地がない」(ローマ1章20節)と言う。なぜなら、神はこの世界に対する明白な証を残しておられるからだ。自然界や人間の良心はもちろん、聖書を通しても神の存在と神を礼拝すべき明確な必然性を悟ることができるのに、それを無視して背を向けるならば裁かれて当然だという論理である。

では、「愛の神」という表現は「聖なる神」とどのように両立するのか。神が愛であり、同時に聖なるお方であることに矛盾はまったくない。神は全能の神(almighty God)であると同時に、時に「まるで無力な神(powerless God)」のようにも見えるほど私たちを待っておられる方でもある。神が「愛の神」として歴史に関わられるとき、人間に強権的に何かを押しつけるのではなく、人格的な招きを通して、人間自らの選択を許されるからだ。そこにおいて「全能の神」でありながら「無力に見える神」という両極的な表現が成り立つ。全能の審判者である神が、同時に人間を待ち忍耐してくださる愛の神なのである。

張ダビデ牧師は「聖と愛は決して切り離されるものではなく、愛を正しく理解するにはまず聖なる前提を理解する必要がある」と繰り返し語る。つまり、聖なることが伴わない愛は放縦や退廃に陥りやすく、愛のない聖は律法主義的な禁欲や形式主義に流れやすい。しかし聖書の語る神は「聖そのもの」であり「愛そのもの」である。このような神の属性は、唯一イエス・キリストを通して私たちに具体的に現れた。新約時代に入り、イエスが「神のかたち」(コロサイ1章15節)をもって地上に来られたことで、人間がそれほど知りたかった神の「愛」が決定的に啓示されたのだ。イエスは「神である父の独り子」であり、「同一の本質」を持つ方である。三位一体の教理の中で、イエスは父なる神と本質的に同じお方だ。だからこそヨハネによる福音書14章9節でイエスは「わたしを見た者は父を見たのです」と語られた。このイエスを通して神を知ることが、新約の信徒たちの特権となる。

「天におられるわたしたちの父よ。御名があがめられますように…」(マタイ6章9~10節)と始まる主の祈りの冒頭は、この聖なる神が同時に「わたしたちの父」となってくださるという驚くべき真理を宣言している。ここには神の高い威厳(Transcendence)と親密さ(Immanence)が交差している。神は超越しておられるが、同時に私たちを子として迎え、父として近づいてくださるのである。聖なる神を「父」と呼べることは、イエス・キリストにあってのみ可能なことだし、聖霊が内住してくださるゆえに私たちは恐れずに「アッバ、父よ」(ローマ8章15節)と呼ぶ特権を持つのだ。だからこそ張ダビデ牧師は「愛の神は、すなわち聖なる神」であるという前提に立脚し、信徒たちがますます神の前に「区別された人生」を歩むように促す。世にあって聖なる思い、聖なる行動、聖なる言葉と態度を保ち、神の栄光を表わすべきだというのである。そしてこの「聖なる姿勢」がしっかり築かれるとき、神との「愛の関係」を完全に結ぶ喜びを経験できる。要するに、愛の源である神を心から礼拝し仕えるためには、まずその聖なる性質を認め、恐れ敬う心を抱くべきなのである。


2. 神と顔と顔を合わせる愛の

張ダビデ牧師は、第一コリント13章を「愛の章」と呼び、その愛の究極的な姿は「そのときには顔と顔を合わせて見ることになる」(第一コリント13章12節)という一節に凝縮されていると語る。使徒パウロはこの御言葉を通して、やがて私たちが神を完全に知り、直接的な交わりに入る日が来ると宣言する。今は部分的にしか知らず、かすかに見ているに過ぎないが、「そのとき」にはすべてを完全に知るようになる。そして、そこにおける「知ること」の本質は愛である。人が神を愛し、隣人を愛するということは、最終的には「神と顔を合わせる信仰の深い交わり」へと至るプロセスであり、究極の目的なのだ。

張ダビデ牧師は「顔と顔を合わせるほど親密な関係になることが信仰の志向点だ」と語る。私たちがよく「神を知る」というとき、それは知識的次元の理解というよりも、人格と人格が触れ合う関係的な知を必要とする。これはヨハネによる福音書17章に記されたイエスの大祭司的祈りの中で、「父なる神と一つであるように、私たちも神のうちで一つとしてください」と祈られた部分ともつながる。イエスは父なる神のふところの中で完全な愛を享受され、その愛によって十字架という極度の苦難に耐えられた。そしてその愛が私たちのうちにも流れ込むことを望まれている。だからこそ「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)という新しい戒めをお与えになったわけである。言い換えれば、神の愛を味わった者たちが、その愛を隣人にも伝え、実践するように召されているのだ。

しかし、この「神と顔を合わせる関係」という表現は、神の臨在を実際に体験する生き方を意味する。旧約において、神は雲の柱と火の柱として現れ、幕屋と神殿を通して臨在されたが、新約においてはイエスご自身が神殿として来られ、さらに昇天後に送られた聖霊によって私たちの内に住まわれる。第一コリント3章16節は「あなたがたは自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちのうちに住んでおられることを知らないのですか」と問いかける。神の臨在とは、教会の建物の中だけで感じる制度的な宗教行為ではなく、「聖霊があなたがたの内に住んでおられる」という非常にダイナミックで実存的な事実なのである。だからこそ信徒は日常の中でも「顔と顔を合わせるように」神を見つめることができる。祈るときには神に語りかけ、御言葉を読むときには神の声を聞く。そうやって日々の生活の中で交わりを続けることが、まさに「人格的な出会い」であり、これこそが信仰の本質となる。

張ダビデ牧師は、ここで重要なのは自分自身を振り返る省察だと説く。「自分は本当に神と顔を合わせて対話する人だろうか。それとも宗教的な形式に閉じ込められ、義務感だけで祈りや礼拝をしているのではないか」という問いを投げかけねばならない、というわけだ。なぜなら愛は強制されて実るものではないからだ。愛は真実な交感があるときにのみ成り立つ。私たちが「神を愛し、また神がわたしを愛している」と告白するとき、その告白は生き生きとした関係の中から生まれるものでなければならない。朝を迎えるとき、道を歩むとき、食事をするとき、そして眠りにつく前に、いつでも神に心を開いて祈り、対話できるのは、キリスト教信仰の特権なのである。世には他にも宗教や瞑想法があるが、そこには明確な祈りの対象が存在しないことも多い。彼らの言う「観想」や「黙想」は自分自身を見つめ直したり、宇宙的エネルギーを感じたりすることが中心であって、キリスト教の祈りは「全能の方」であり「愛の父」であるお方に語りかける人格的な交わりだ。この点でキリスト教信仰は実に独特である。

「天におられるわたしたちの父よ」という主の祈りの最初の言葉は、祈りにこそはっきりした対象があると宣言する。目には見えないが生きておられ、この宇宙と歴史を司りながらも、同時に「父」と呼べるほど近くおられる方こそ、その対象である。だから小さな祈りにも応えてくださり、私たちの些細な願いや心配事にも耳を傾けてくださるのだ。親が子どもの言うことを軽んじないように、神も私たちの言葉を決してないがしろにされない。この点において、キリスト教の祈りは他と比べようのない慰めと力の通路となる。張ダビデ牧師は「祈ることができるのに、なぜ心配するのか」というフレーズをしばしば例に挙げつつ、「祈りこそ、神の全能を信頼する最も明白な行動だ」と力説する。実際、聖書に登場する人物たちの生涯を振り返ると、神は人々の祈りを一つも聞き漏らすことなく、ただ最善の時と方法で応えておられる。ある応えはすぐに表れ、ある応えは長い歳月を経てやっと明らかになることもあるが、決して無駄になることはない。

したがって、愛なる神との関係において「聖」と「顔を合わせる親密さ」は相互に結びついている。もし聖を失い、神をただ「手軽な存在」として扱うならば、真の畏敬の念のない祈りになってしまう。また、神と親密でなければ、神を「恐ろしい裁き主」としか思えず、遠くに逃げてしまうことになるだろう。張ダビデ牧師はこの二つの極端を戒め、「聖なる父、愛の父」というバランスのとれた神理解を提示する。そしてこれこそが第一コリント13章に示される愛のエッセンスであり、ヨハネの手紙第一4章に書かれている「私たちが神を愛したのではなく、神が先に私たちを愛された」という言葉が含む恵みでもある。神の愛が先に与えられたからこそ、私たちはその愛に応答することができるのだ。


3. 主の祈りの核心――神の聖と神の

主の祈りはマタイ6章9~13節、およびルカ11章2~4節に記されている。これはイエスが直接弟子たちに教えられたものであり、キリスト教史において最も重要な「原型的な祈り」と考えられている。特に張ダビデ牧師は、新年最初の主日礼拝において「今年一年、何度も繰り返す主の祈りを、本当に深く黙想すべきだ」と強調し、祈りの冒頭に出てくる三つの願い――「御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天で行われるように地でも行われますように」――が、信徒の人生の目的と方向を集約していると説く。

第一の願いである「御名があがめられますように」は、私たちが神をどれほど畏れ敬っているかを示す祈りである。「天におられるわたしたちの父」と呼びかけながらも、その方は決して世俗的な意味の「父」と同一視できない。神の御名はヤハウェであり、エロヒムであり、アドナイである。私たちは普段「神(God)」という非常に一般的な呼称を用いるが、それは本質的には「創造主であり主権者」である神の固有性を十分に含み切れていないことも多い。そこでイエスは弟子たちに「その御名を聖なるものとしてあがめよ」という祈りを教えられた。御名はすなわち、その人格と栄誉を代表するものだからだ。もし私たちが日常の中で「神の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)という戒めを犯し、神を冒瀆したり嘲笑する言葉を軽々しく口にするなら、それは神を偶像レベルに貶める重大な罪となる。それに対して神の御名をあがめるとは、神の人格と権威を心から尊び崇めることを意味する。その尊敬と畏敬が、礼拝と賛美という形で表現され、また生活の中での従順と感謝につながっていく。張ダビデ牧師はここに付け加え、「私たち自身が聖なる生き方をしなければ、最終的には神の御名が汚されることになる」と語る。イエスを信じる者たちが教会の外で争い分裂し、不正を働けば、世の人々はその姿を見て「神の名」までも嘲笑うからだ。ゆえに「神の御名をあがめる」ということは、私たちの生き方を通してその御名が現されるようにする「聖なる責任」でもある。

第二の願いである「御国が来ますように」は、主の祈りの中心思想である。イエスの公生涯全体を貫くキーワードは「神の国」または「天の御国」であった。イエスは「悔い改めよ。天の御国が近づいた」(マタイ4章17節)と宣言し、さまざまな場所でたとえを用いてその国がいかに来るのかを教示された。主の祈りでも「御国が来ますように」とはっきり願わせることで、信徒の祈りと生き方の目標が「神の国」に向けられるべきだと自覚させるのである。なぜなら神の国は、ただ死後に行く「来世の天国」だけを意味しないからだ。そこには、すでにこの地上から始まっている「神のご支配」、すなわち「王なる神の統治」が含まれている。これこそイエスが弟子たちに教えてくださった希望である。「神の国は目に見える形で来るものではない。また、ここにある、あそこにあるとも言えない。神の国はあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17章20~21節)という御言葉のように、神の国は聖霊を通してすでに私たちの心の内に到来している。しかし同時に「この世の国は、わたしたちの主とそのキリストの国となった」(ヨハネの黙示録11章15節)という究極的完成も待っている。張ダビデ牧師は、この二重の意味を決して見失ってはならないという。個々人の救いと生活の清さを通して「すでに来た神の国」を体現しつつ、一方で「主の再臨」とともに完全に実現する「神の王国」を待ち望むのである。

第三の願いである「御心が天で行われるように地でも行われますように」は、この地上に神の善なる御心が具現されるよう祈ることである。天においてはすでに神の御心が完全に行われている。天使たちが従い、罪や不正が一切存在しないところだ。「御心が天で行われるように地でも」という告白は、不完全さや矛盾、罪と苦しみに満ちた現実の中にあっても、神の正義と愛が広がっていくように願う信徒の切なる思いを反映している。アモス書5章24節にある「正義を河川のように、公正を尽きることのない川のように流れさせよ」という預言者の慟哭とも軌を一にする。世は不義や不正に満ち、政治的・社会的・個人的領域でも神の秩序に反することが多々ある。しかし信徒はそのただ中で「神の御心が成るように」と祈り、その御心を実践するために努力しなければならない。イエスは「まず神の国とその義を求めよ」(マタイ6章33節)と語られた。この「義こそ」が神の御心であり、私たちが追い求めるべき価値なのである。

張ダビデ牧師は、これは単に頭で理解する教理ではなく、実際の生活の指針とならなければならないと強調する。主の祈りを唱えるたびに、「わたしは今日も神の御名をあがめているだろうか。神の国を望みながら生きているだろうか。神の御心をこの地に反映する生き方を追求しているだろうか」と自問しなければならないのだ。主日礼拝で一度この祈りを唱えて終わりではなく、日常の中でも繰り返し思い起こすとき、信徒は祈りと行動を通して神の聖と神の国を現実に実らせていくことができる。ゆえに主の祈りの教えは単なる暗唱の課題ではなく、信仰の歩みを照らす灯台の役割を果たす。

張ダビデ牧師は最後に、ローマ8章26節を引き合いに出しながら「私たちはどう祈るべきかを知らないが、聖霊が私たちの弱さを助けてくださる」という事実を思い出すように促す。祈りは人間の限界の中で切実に試されることもあるが、主がはっきり「このように祈りなさい」と教えてくださった主の祈りがあるのだから、それを繰り返し黙想しなさい、というわけだ。私たちはその祈りの教えを通して、神がどれほど高く聖でありながら、同時にどれほど愛をもって私たちに近づいてこられるかを悟る。また神がこの地にどのような国を打ち立てようとしておられるのか、そして私たちがどうその御心を見分け、共に参与すべきかを学ぶのである。こうして主の祈りは信仰者の歩みを神に合わせ、この世の貪欲や不安、罪や不正から解き放つ強力な手立てとなる。

結局、「父なる神の御名をあがめるために生き、その御国が来るように献身し、その御心が地上に広がるように努めること」こそが、私たちの人生の目的だといえる。張ダビデ牧師は、この目的を見失うと人はさまよい、虚しさに陥り、罪の誘惑に陥りやすくなると指摘する。しかし、この目的がはっきりすれば、人生の大小の出来事――財産、名誉、快楽、人間関係――などに対する視点が変わる。それらすべては神から授かった賜物であり、神の国のために用いられる材料となる。もはやそれらが私たちの主人となることもなければ、私たちがそれらの奴隷になる必要もない。このように人生観が変わると、究極的には生きる幸いと安息が訪れる。その安息は「天の父のご計画のもとに自分が存在し、その御国のために生き、最後にはその御もとに帰る」という信仰から生まれる平安である。

まとめると、張ダビデ牧師が語る主の祈りの核心思想は大きく三つに集約される。第一に、神の御名を聖なるものとしてあがめること。私たちは神の威厳と栄光を覚え、その方に礼拝と感謝、従順を捧げるべきである。第二に、神の御国が来るように願うこと。この御国はイエスによってすでに始まっているが、再臨によって完成される未来的な王国でもある。第三に、神の御心がこの地上に成るように祈り行動すること。義に飢え渇く者が結局祝福を受け、その正義と公正が大河のように流れる世界こそが神の国の姿である。キリスト教的世界観は、この地上だけがすべてではなく、「あの世(永遠)」があるという前提で動く一方、地上の現実においても「神の御心」を実現するために尽力する。こうした信仰告白こそ主の祈りに込められている。

最終的に、新年最初の主日礼拝のメッセージで張ダビデ牧師は「私たちは何のために生きるのか?」という根源的な問いに対して、主の祈りを通して答えを示した。私たちは神をあがめ、その方に感謝するために生きる。そしてその御国を仰ぎ見ながら、天ですでに完成された聖なる御心が地上でも行われるように祈り、努力する。そうして生きるとき、「イエスを信じて天国へ、不信なら地獄へ」という単純で直接的な結論は、単に恐怖をあおる論理ではなく、むしろ命の福音として迫ってくる。死の彼方に永遠の裁きがあることを悟り、その裁きから救ってくださる恵みが「イエスのうちにある」と知るならば、これほど明確で確かな救いのメッセージはないのだ。だからこそ信徒は「祈ることができるのに、なぜ心配するのか」という言葉を実感しながら、日々の祈りによって神と顔を合わせ、「聖と愛」に満ちた神と親密に交わるべきだ。

このようにして信徒たちが新年を迎え、主の祈りの基本精神に忠実であろうとするならば、個人の魂の満足のみならず、教会共同体の真の一致が成り立ち、世の中でも神の御名が高められ、その御国が実際に拡張されていくだろう。そしてこの全過程を通して、神が愛であることを万人の前に宣言できるようになる。張ダビデ牧師は、それこそ「神の聖と愛を知る者たちが当然走るべき道」であると語る。主にあって今まさに始まろうとする新しい一年、このときにこそ私たちの祈りが主の祈りの核心を抱いているかを振り返り、心を尽くして「天におられるわたしたちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天で行われるように地でも行われますように」と告白する場所へと進みたい。そうするならば、神の民は主がすでに約束された力と答えを豊かに体験することになるだろう。そこには真のキリスト教信仰が生き生きと躍動する歴史が詰まっているのである。

The Lord’s Prayer – Pastor David Jang


1. The Love of God and the Premise of Holiness

Pastor David Jang emphasizes the essential message, “God is love.” This truth is clearly revealed in 1 John 4:8, which states, “God is love.” The love of God described in the Bible, and how humans ought to understand that love, is a vast and profound subject. The truth that “God is love” is not merely a sentimental concept but an essential reality that believers must internalize through faith. In order to understand this love, we must first acknowledge a key premise presented in Scripture. That premise is our relationship to God’s holiness.

In speaking of the God of love, Pastor David Jang also underscores that this love necessarily presupposes holiness. People are drawn to the phrase “God is love,” but can easily overlook the truth that “God is holy.” Before talking about love, we must first recognize that this love is founded upon holiness. It is not enough to think of God simply as a being who is easy to love; He is the Almighty and utterly distinct from us. The Old Testament scene in which Moses encounters God in the burning bush in the wilderness of Midian, where God says, “Take off your sandals” (Exodus 3:5), symbolizes this reality. In order to meet God, one must first cast off the “old” and stand set apart before the Holy God. The burning bush episode is a uniquely rare event in the Old Testament in which God appeared in a visibly manifested form. Generally, the Old Testament figures encountered “the angels of God,” not the direct, substantive presence of God. But Moses, even before Jesus arrived, experienced the form of God in the clearest way possible. From that encounter, he learned a primary truth: “God is holy.”

What does “holiness” mean? Holiness signifies being “utterly different.” God’s thoughts and ways are different from ours (Isaiah 55:8). In other words, God is the Most High in the universe, the transcendent Creator who is not bound by anything. Moreover, He not only created all things but also preserves them, which is why we owe Him worship and praise. When humans worship and praise God, it is not because He oppressively demands, “I made you, so obey Me.” Rather, it is a rightful act of worship within the clear relationship of “Creator and created beings.” Pastor David Jang explains that “if we fail to glorify God and give Him thanks, we end up following the same path of sin displayed in Romans 1.” Romans 1 shows the fallen condition of humans who, though they know God, do not serve Him, but instead worship idols and live in the lusts of the flesh. The result is eternal punishment, namely hell. Paul states that this is “without excuse” (Romans 1:20), because God has plainly left testimony of Himself in this world. Through nature, human conscience, and of course the Scriptures, we can come to know God’s existence and the necessity of worshiping Him. To ignore and turn away from this is rightly subject to judgment.

So then, how can we reconcile the phrase “God of love” with the holiness of God? There is no contradiction at all in saying that God is both love and holiness. God is the Almighty (the “almighty God”), and at the same time He is a God who waits—appearing, in a sense, like a “powerless God.” When God enters human history as the “God of love,” He does not forcefully compel humanity, but rather allows them to choose through a personal invitation. In that sense, the apparent paradox of being both “Almighty God” and “the God who seems powerless” holds together. He is the almighty Judge, yet also the God who waits and endures in love.

Pastor David Jang repeatedly emphasizes that “holiness and love can never be separated, and to properly understand love, we must first understand the premise of holiness.” Without holiness, love easily leads to indulgence and decadence; without love, holiness easily turns into legalistic asceticism or mere formalism. However, the God described in Scripture is both holiness itself and love itself. These attributes of God have been concretely revealed to us only through Jesus Christ. In the New Testament era, Jesus came to earth as the “image of God” (Colossians 1:15). Through Him, humanity finally received the decisive revelation of the “love of God” we had longed to understand. Jesus is the “Only Begotten Son” of God the Father, sharing the same essence. Within the doctrine of the Trinity, Jesus shares the same substance as God the Father. Therefore, in John 14:9, Jesus says, “Anyone who has seen Me has seen the Father.” For New Testament believers, knowing God through Jesus is a special privilege.

The opening of the Lord’s Prayer—“Our Father in heaven, hallowed be Your name…” (Matthew 6:9–10)—declares the astounding truth that this holy God is also “our Father.” It is here that God’s lofty transcendence and His intimate immanence intersect. While God transcends all, He also adopts us as His children and draws near to us as a Father. Calling the holy God “Father” is possible only through Jesus Christ, and we can boldly say “Abba Father” (Romans 8:15) because the Holy Spirit indwells us. For this reason, Pastor David Jang urges believers to live lives increasingly set apart before God, based on the premise that “the God of love is the God of holiness.” In the world, we must exhibit holy thoughts, holy actions, holy words, and holy attitudes to reveal the glory of God. And when this “place of holiness” becomes firm, we can fully experience the joy of having a “relationship of love” with God. In short, in order to worship and serve the God who is the source of love, we must first perceive His holiness and maintain a reverent heart toward Him.


2. A Relationship of Love That Faces God

Pastor David Jang refers to 1 Corinthians 13 as the “love chapter,” noting that its ultimate portrayal of love is encapsulated in the phrase, “Then we shall see face to face” (1 Corinthians 13:12). Through this statement, the Apostle Paul proclaims that a day will come when we will fully know God and enter into direct fellowship with Him. For now, we know only in part and see but a dim reflection, yet “then” we shall know completely. And the essence of that knowledge is love. The reason humanity is called to love God and to love neighbor is, ultimately, to enter that “deep fellowship of faith where we see God face to face.” This is the final goal.

Pastor David Jang explains that “to become so close that we can see each other face to face is the aim of faith.” When we say “I know God,” we should not mean a mere intellectual knowledge but a relational knowledge, where person meets person. This connects to Jesus’ high priestly prayer in John 17, in which He prays that we might become one in God just as He and the Father are one. Jesus experienced perfect love in the bosom of His Father, and through that love He endured the extreme suffering of the cross. He desires that same love to flow into us. This is why Jesus gave us the new command: “As I have loved you, so you must love one another” (John 13:34). In other words, those who have tasted God’s love are called to pass that love on to their neighbors in practice.

However, the expression “a relationship that faces God” also refers to a life that truly experiences God’s presence. Just as God appeared in a pillar of cloud and fire in the Old Testament and made His presence known through the tabernacle and the temple, so in the New Testament Jesus Himself came as the temple. After His ascension, He sent the Holy Spirit to dwell within us. In 1 Corinthians 3:16, Paul asks, “Do you not know that you are God’s temple and that God’s Spirit dwells in you?” God’s presence is not limited to a church building or institutional religious activities. Rather, it is a dynamic and existential reality: “the Holy Spirit dwells within you.” Hence, even in daily life, believers can meet with God “face to face.” We speak to Him when we pray, and we hear His voice when we read His Word. This daily communication is an “intimate encounter”—the very essence of faith.

Pastor David Jang points out that self-examination is crucial in this regard. We must ask ourselves, “Do I genuinely converse with God face to face? Or am I merely praying and worshiping out of religious formality or a sense of duty?” The reason is that love cannot be forced. True love occurs only when there is sincere communion. When we confess, “I love God, and He loves me,” it must arise from a vibrant relationship. This is the wonderful privilege of the Christian faith: at any moment—starting your day, walking down the road, eating a meal, or before going to bed—you can open your heart, pray, and converse with God. Other religions or forms of meditation may exist, but in them there is no clear object of prayer. Their “contemplation” or “meditation” may involve self-reflection or tapping into some cosmic energy. By contrast, Christian prayer is a personal relationship in which we address an “almighty God” and a “loving Father.” In that sense, the Christian faith is truly unique.

The opening of the Lord’s Prayer—“Our Father in heaven”—declares that prayer has a clear addressee. Although invisible, God is alive, ruling over the universe and history, and yet close enough for us to call Him “Father.” He hears even our small prayers and pays attention to our every worry and desire. Just as parents do not dismiss the words of their children, God does not ignore our words. Thus, Christian prayer becomes an incomparable means of comfort and power. Pastor David Jang often quotes the phrase, “Why worry when you can pray?” and stresses that “prayer is the clearest demonstration that we trust in the almighty God.” Indeed, if we look at the lives of the people in the Bible, God never overlooks a single prayer. Though He sometimes answers quickly and at other times after many years, those prayers are never in vain.

Consequently, in our relationship with the God of love, “holiness” and “facing Him intimately” must converge. If we lose holiness and treat God simply as someone familiar or convenient, we will pray without genuine reverence. Conversely, if we are not intimate with Him, we may see Him only as a terrifying judge and run from Him in fear. Pastor David Jang warns against both extremes, presenting a balanced understanding of God as “the holy Father, the loving Father.” This is the core of the love described in 1 Corinthians 13 and the grace conveyed in 1 John 4, which says, “This is love: not that we loved God, but that He loved us first.” Because His love first came to us, we are able to respond to that love.


3. The Core of the Lord’s Prayer – God’s Holiness and God’s Kingdom

The Lord’s Prayer is recorded in Matthew 6:9–13 and Luke 11:2–4. Jesus Himself taught this prayer to His disciples, and throughout Christian history it has been regarded as the most important “model prayer.” Notably, Pastor David Jang, during a New Year’s Sunday service, stressed that “we will repeat the Lord’s Prayer countless times this year, so we must truly meditate on it.” He explained that the first three petitions at the beginning of the prayer—“hallowed be Your name, Your kingdom come, Your will be done on earth as it is in heaven”—encapsulate the purpose and direction of the believer’s life.

The first petition, “hallowed be Your name,” shows how much we revere God. Although we call Him “Our Father in heaven,” He cannot be equated with an earthly father. God’s name is Yahweh, Elohim, Adonai. We commonly refer to Him as “God,” but that is quite a generic term and may fail to convey the unique essence of the “Creator and Sovereign.” Hence Jesus taught His disciples to pray “hallowed be Your name.” A name represents a person’s character and honor. If in our everyday life we break the commandment, “You shall not take the name of the Lord your God in vain” (Exodus 20:7), and casually mock or blaspheme God, we reduce Him to the level of an idol, which is a grievous sin. Conversely, to hallow God’s name is to profoundly honor His character and authority. This respect and reverence find expression in worship and praise, and lead us to obedience and thankfulness in life. Pastor David Jang adds, “If we fail to live holy lives, God’s name becomes disgraced.” When believers quarrel, split, or commit corruption outside the church, onlookers mock not only them but the “name of God” as well. Thus, “hallowing God’s name” is also our responsibility to represent that name faithfully through our lives.

The second petition, “Your kingdom come,” is the central theme of the Lord’s Prayer. The central topic of Jesus’ earthly ministry was “the kingdom of God” or “the kingdom of heaven.” He declared, “Repent, for the kingdom of heaven has come near” (Matthew 4:17) and, through many parables, taught how that kingdom arrives. In the Lord’s Prayer, Jesus makes it clear that believers must align their prayers and their lives with the “kingdom of God.” This kingdom is not merely the afterlife heaven we enter upon death. It also refers to the “rule of God,” which begins even now on earth under the reign of the King. This is the hope Jesus imparted to His disciples. Luke 17:20–21 says, “The kingdom of God is not coming in ways that can be observed… for behold, the kingdom of God is in your midst.” As Pastor David Jang points out, we must not lose sight of this twofold meaning. Through personal salvation and holy living, we must manifest that the kingdom has “already come,” even as we look forward to the day of its complete fulfillment—the future kingdom of God that will come with the Lord’s return (cf. Revelation 11:15).

The third petition, “Your will be done on earth as it is in heaven,” is a prayer for God’s good will to be realized here on earth. In heaven, God’s will is perfectly accomplished. Angels obey Him, and there is no trace of sin or injustice. Praying, “Your will be done on earth as it is in heaven,” reflects our ardent desire for God’s justice and love to prevail in our world, filled as it is with imperfection, contradiction, sin, and suffering. This echoes the cry of Amos 5:24—“But let justice roll on like a river, righteousness like a never-failing stream!” The world is full of injustice and corruption, whether in politics, society, or individual lives, often contradicting God’s order. Yet believers pray for God’s will to be done in the midst of this, and also strive to put that will into action. Jesus said, “Seek first His kingdom and His righteousness” (Matthew 6:33). This “righteousness” is God’s will and is the value we must pursue.

Pastor David Jang insists that this is not just a doctrinal concept we grasp intellectually but a practical guide for how to live. Whenever we recite the Lord’s Prayer, we should ask ourselves, “Am I truly hallowing God’s name today? Do I live with God’s kingdom in view? Am I striving to realize His will on earth?” We should not merely recite these words once during Sunday worship. Instead, we should ponder them daily so that, through our prayers and actions, God’s holiness and God’s kingdom can be displayed. In this way, the Lord’s Prayer serves as a lighthouse on our faith journey rather than just a memorization task.

Finally, Pastor David Jang cites Romans 8:26, reminding us that “we do not know what to pray for as we ought, but the Spirit helps us in our weakness.” While we may face urgent challenges and feel our limitations in prayer, the Lord has given us the Lord’s Prayer as a sure guideline. By repeatedly meditating on it, we learn how lofty and holy God is, how lovingly He draws near to us, what kind of kingdom He longs to establish on earth, and how we can discern and participate in that will. Thus, the Lord’s Prayer is a powerful tool that aligns a believer’s life with God and frees us from the greed, anxiety, sin, and injustice of this world.

Ultimately, our life purpose is “to hallow the name of our Father God, to devote ourselves to bringing His kingdom, and to strive so that His will may be done on earth.” Pastor David Jang notes that when people lose sight of this purpose, they wander, feel empty, and fall easily into the snares of sin. But once this purpose is firmly established, perspectives on life’s big and small matters—wealth, honor, pleasure, human relationships—change. These all become gifts from God and resources to be used for God’s kingdom. They no longer rule us, nor do we become enslaved to them. When our outlook on life changes like this, we ultimately find happiness and rest. This rest comes from the assurance, “I exist under my Heavenly Father’s plan, I live for His kingdom, and I will finally return to Him.” It is the peace born of that conviction.

In summary, Pastor David Jang crystallizes the main message of the Lord’s Prayer into three points. First, hallow the name of God. We are to remember His majesty and glory and give Him worship, thanks, and obedience. Second, pray for God’s kingdom to come. This kingdom began with Jesus but will be fully consummated in the future at His return. Third, pray and act for God’s will to be done on earth as it is in heaven. The hungry and thirsty for righteousness will be blessed, and the flowing of justice like a mighty river is the hallmark of the kingdom of God. The Christian worldview moves forward with the premise that “there is a world beyond this one (eternity),” yet it also endeavors to see God’s will carried out in the here and now. This is precisely the confession of faith contained in the Lord’s Prayer.

In the New Year’s Sunday service message, Pastor David Jang thus offers the answer to the fundamental question, “Why do we live?” through the Lord’s Prayer. We live to glorify God and give Him thanks. We look to His kingdom, praying that the holy will already established in heaven may also be done on earth. When we live this way, the statement “Jesus saves, unbelief leads to hell” ceases to be merely a fear-based logic and instead becomes the Gospel of life. If one realizes there is eternal judgment after death, and that God’s saving grace is found “in Jesus,” there is no message of salvation more clear and certain. Hence, believers can experience the truth of “Why worry when you can pray?” and, by praying daily, we meet God face to face, intimately communing with the holy and loving God.

If believers, at the start of a new year, remain faithful to the spirit of the Lord’s Prayer, they will not only find contentment for their own souls but also bring about genuine unity within the church community. Furthermore, God’s name will be exalted in the world, and His kingdom will tangibly expand. Through this entire process, we will proclaim to all that “God is love.” According to Pastor David Jang, this is the path “those who know God’s holiness and love ought to run.” As we embark on a new year in the Lord, we must examine whether our prayers contain the essence of the Lord’s Prayer. We should then wholeheartedly confess, “Our Father in heaven, hallowed be Your name, Your kingdom come, Your will be done on earth as it is in heaven.” When we do, God’s people will abundantly experience the power and answers He has already promised. In that experience lies the living history of true Christian faith.

El Padre Nuestro – Pastor David Jang


1. El Dios de amor y la premisa de la santidad

El pastor David Jang enfatiza el mensaje esencial de que “Dios es amor” (1 Juan 4:8). Esta verdad, claramente expresada en la Escritura, no se limita a una dimensión meramente emocional, sino que constituye una realidad fundamental que todo creyente debe asimilar en su vida de fe. Ahora bien, para comprender el amor de Dios, la Biblia presenta una premisa clave: la relación entre nosotros y la santidad.

Cuando el pastor David Jang habla del Dios de amor, recalca al mismo tiempo que este amor conlleva inevitablemente la premisa de la “santidad”. Con frecuencia, las personas se sienten atraídas por la afirmación “Dios es amor”, pero pasan por alto el hecho de que “Dios es santo”. Antes de hablar del amor, debemos entender que este amor se basa en la santidad. No basta con considerar a Dios simplemente como un “ser a quien es fácil amar”; Él es omnipotente, totalmente otro y diferente a nosotros. En el Antiguo Testamento, cuando Moisés se encuentra con Dios en la zarza ardiente del desierto de Madián, Dios le ordena: “Quítate las sandalias de tus pies” (Éxodo 3:5). Esto simboliza la necesidad de despojarse de lo viejo y presentarse de manera consagrada ante el Dios santo. El episodio de la zarza ardiente es el único caso en el Antiguo Testamento donde Dios se manifiesta de una forma tan tangible. Normalmente, los personajes bíblicos del Antiguo Testamento se encontraban con “mensajeros de Dios” y no con la presencia sustancial misma de Dios. Sin embargo, Moisés, incluso antes de la venida de Jesús, tuvo la experiencia más clara de la “imagen” de Dios. Allí aprendió la primera gran lección: “Dios es santo”.

¿Qué significa ser santo? Santidad implica ser “totalmente distinto”. Los pensamientos y caminos de Dios difieren de los nuestros (Isaías 55:8). En otras palabras, Dios es el más alto sobre toda la creación, el Ser trascendente y Creador que no está sujeto a nada ni a nadie. Asimismo, además de haber creado todo cuanto existe, Él sostiene toda la creación. Por eso es digno de adoración y alabanza. Cuando el ser humano adora y alaba a Dios, no se trata de una exigencia represiva basada en “Yo los creé, así que obedezcan”, sino de un acto de culto que brota naturalmente de la relación entre Creador y criatura. El pastor David Jang explica que “si no glorificamos a Dios ni le damos gracias, caeremos en la misma senda de pecado descrita en Romanos 1”. Este capítulo muestra cómo el hombre, aun conociendo a Dios, se rehúsa a servirlo y, en su lugar, adora ídolos y vive según las pasiones de la carne. El resultado es la condenación eterna, el infierno. Pablo afirma que “no tienen excusa” (Romanos 1:20), porque Dios ha dejado un testimonio claro de Su existencia en la creación, en la conciencia humana y, sobre todo, en la Escritura. Ignorar esa evidencia y darle la espalda a Dios conduce inevitablemente al juicio.

¿Cómo se conciliará entonces el “Dios de amor” con el “Dios santo”? No existe ninguna contradicción en afirmar que Dios es amor y santo al mismo tiempo. Dios es el Todopoderoso (Almighty God), pero también es quien espera y da libertad al ser humano, manifestándose en cierto modo como un “Dios impotente” (powerless God). Cuando Dios, en Su condición de “Dios de amor”, irrumpe en la historia, no lo hace para imponer Su voluntad de manera forzosa, sino mediante una invitación personal que permite al ser humano decidir libremente. Por eso tiene sentido hablar de esta dualidad en Dios: todopoderoso y juez, pero también paciente y lleno de amor hacia el ser humano.

El pastor David Jang insiste en que “la santidad y el amor son inseparables, y para comprender verdaderamente el amor, antes debemos entender la premisa de la santidad”. La santidad sin amor puede derivar en ascetismo legalista o formalismo, y el amor sin santidad se vuelve libertinaje y decadencia. Sin embargo, la Biblia presenta a Dios como la santidad misma y el amor mismo. Estos atributos de Dios se revelan de manera concreta únicamente en Jesucristo. En la época del Nuevo Testamento, Jesús vino a este mundo como la “imagen de Dios” (Colosenses 1:15), revelando de manera definitiva el amor que tanto anhelaba conocer la humanidad. Jesús es el “Hijo unigénito de Dios Padre” y comparte la misma esencia divina. En el marco de la doctrina trinitaria, Él posee la misma naturaleza que Dios Padre. Por eso declara en Juan 14:9: “El que me ha visto a mí, ha visto al Padre”. Conocer a Dios a través de Jesús es el privilegio de los creyentes del Nuevo Testamento.

En la introducción del Padre Nuestro—“Padre nuestro que estás en los cielos, santificado sea tu nombre…” (Mateo 6:9-10)—observamos precisamente la verdad asombrosa de que el Dios santo se convierte al mismo tiempo en “nuestro Padre”. Aquí se revela el punto en el que la elevada majestad de Dios (trascendencia) y Su cercanía (inmanencia) se encuentran. Dios es trascendente, pero también nos hace Sus hijos y se nos acerca como un Padre. Que el Dios santo pueda ser llamado “Padre” es posible únicamente en Cristo y por la presencia del Espíritu Santo que habita en nosotros, lo cual nos permite tener la confianza de invocar: “Abba, Padre” (Romanos 8:15). Por esta razón, el pastor David Jang enseña que la premisa “Dios es amor y, a la vez, Dios es santo” debe sentar las bases de la vida cristiana, exhortando a los creyentes a llevar una vida cada vez más consagrada a Él. Esto se traduce en pensamientos santos, acciones santas y palabras y actitudes que reflejen la gloria de Dios en medio del mundo. Cuando se fortalece ese lugar de “santidad”, uno puede disfrutar plenamente de la relación de amor con Dios. En síntesis, para adorar y servir al Dios cuya esencia es el amor, primero debemos tomar conciencia de Su santidad y acercarnos a Él con reverencia.


2. Una relación de amor cara a cara con Dios

El pastor David Jang denomina el capítulo 13 de la Primera Carta a los Corintios como el “capítulo del amor” y destaca que la culminación del amor se expresa en la afirmación: “Entonces veremos cara a cara” (1 Corintios 13:12). Con estas palabras, el apóstol Pablo declara que llegará el día en que conoceremos a Dios plenamente y entraremos en una comunión directa con Él. Ahora lo conocemos de manera parcial y borrosa, pero “entonces” lo conoceremos plenamente. Y la esencia de ese conocimiento es el amor. El amor que el ser humano profesa a Dios y al prójimo es, en última instancia, un proceso y un fin que conduce a la “profunda comunión de fe de ver a Dios cara a cara”.

El pastor David Jang afirma que “llegar a ser tan íntimos como para ver ‘cara a cara’ a Dios es la meta de la vida de fe”. Cuando decimos “conocemos a Dios”, no se trata de un saber meramente intelectual, sino de un conocimiento que brota de la relación entre personas que se encuentran y se relacionan. Esto conecta con la oración sacerdotal de Jesús en Juan 17, cuando suplica: “Para que sean uno en nosotros, como tú y yo somos uno”. Jesús disfrutó del amor perfecto en el seno del Padre, y por ese amor soportó el sufrimiento extremo de la cruz. Además, ese mismo amor anhela derramarse en nosotros. De ahí que dé el “mandamiento nuevo”: “Amaos unos a otros, como yo os he amado” (Juan 13:34). En otras palabras, quienes han experimentado el amor de Dios están llamados a transmitirlo y ponerlo en práctica con los demás.

La expresión “una relación cara a cara con Dios” se refiere a vivir en la realidad de la presencia divina. En el Antiguo Testamento, Dios se manifestaba en columna de nube y de fuego, y Su presencia habitaba en el tabernáculo y en el templo. En el Nuevo Testamento, Jesús mismo se presentó como el verdadero templo y, tras Su ascensión, envió al Espíritu Santo para morar en nosotros. 1 Corintios 3:16 pregunta: “¿No sabéis que sois templo de Dios, y que el Espíritu de Dios habita en vosotros?”. La presencia de Dios no se limita a un edificio eclesiástico ni a una religión institucionalizada, sino que se hace efectiva, dinámica y existencial cuando “el Espíritu habita en nosotros”. Así, aun en la vida cotidiana, podemos “ver cara a cara” a Dios. Oramos para dirigirle nuestras palabras y leemos Su Palabra para oír Su voz. Esta comunicación diaria es la verdadera esencia de la fe y el encuentro personal con Él.

El pastor David Jang subraya que el aspecto crucial es la reflexión sobre uno mismo. Debemos preguntarnos: “¿De verdad hablo cara a cara con Dios? ¿O me limito a orar y adorar por obligación o rutina religiosa?”. El amor no puede ser forzado. El amor existe solo cuando hay un intercambio auténtico. Cuando proclamamos “Amo a Dios y Él me ama”, dicha confesión ha de surgir de una relación viva. Parte del privilegio del cristiano es poder orar y dialogar con Dios a cualquier hora—al iniciar el día, mientras caminamos, en la hora de la comida y antes de dormir—, sabiendo que nos escucha. Existen otras religiones y prácticas de meditación en el mundo, pero muchas de ellas carecen de un objeto de oración personal. En ellas se habla de “contemplación” o “meditación” como una introspección o sensación de energía cósmica, mientras que la oración cristiana es una comunicación personal con un “Dios Todopoderoso” y un “Padre amoroso”. En este sentido, la fe cristiana es algo único.

La primera línea del Padre Nuestro—“Padre nuestro que estás en los cielos”—proclama que hay un destinatario claro de nuestra oración. Aun siendo invisible, está vivo, gobierna el universo y la historia, y a la vez está tan cercano como para que le llamemos “Padre”. Él escucha nuestras peticiones más pequeñas y nuestras preocupaciones más triviales, del mismo modo que un padre amoroso no ignora la voz de su hijo. Por eso, la oración cristiana es un canal de consuelo y de poder que no admite comparación. A menudo, el pastor David Jang menciona la frase “¿Por qué preocuparse, si podemos orar?”, afirmando que “orar es la expresión más clara de la confianza en el Dios omnipotente”. Al examinar la vida de los personajes bíblicos, vemos que Dios jamás dejó de oír la más mínima oración; simplemente responde en el momento y de la forma más adecuada. A veces la respuesta llega de inmediato, otras veces después de mucho tiempo, pero nunca es en vano.

Por ende, en nuestra relación con Dios, el “Dios de amor” y la “santidad” deben ir de la mano. Si perdemos de vista la santidad y consideramos a Dios como alguien “accesible sin mayor reverencia”, nuestra oración carecerá de verdadera adoración. Y si no hay intimidad con Dios, solo lo veremos como un “juez temible” y huiremos de Su presencia. El pastor David Jang advierte sobre estos dos extremos, presentando una imagen equilibrada de Dios como “Padre santo, Padre amoroso”. Esta visión es la quintaesencia del amor descrito en 1 Corintios 13 y encierra la gracia de 1 Juan 4: “En esto consiste el amor: no en que nosotros hayamos amado a Dios, sino en que Él nos amó primero”. Solo porque Su amor se manifestó primero, podemos responder a Él.


3. El núcleo del Padre Nuestro: la santidad de Dios y el reino de Dios

El Padre Nuestro se encuentra en Mateo 6:9-13 y en Lucas 11:2-4. Esta oración, enseñada directamente por Jesús a sus discípulos, se considera la “oración original” más importante de la historia cristiana. El pastor David Jang, en un mensaje de Año Nuevo, instó a la congregación a “meditar profundamente en el Padre Nuestro, que repetiremos innumerables veces a lo largo del año”, subrayando que las tres primeras peticiones—“santificado sea tu nombre, venga tu reino, hágase tu voluntad, como en el cielo así también en la tierra”—resumen el propósito y la dirección de la vida de todo creyente.

La primera petición, “Santificado sea tu nombre”, revela en qué medida reverenciamos a Dios. Si bien invocamos “Padre nuestro que estás en los cielos”, no podemos asimilarlo a un padre terrenal más. Su nombre es Jehová, Elohim, Adonai. Normalmente decimos “Dios” (God), pero es un término muy general, que no siempre capta la singularidad del Creador y Soberano absoluto. Por eso Jesús enseña a sus discípulos a orar “que su nombre sea santificado”. En la cultura bíblica, el nombre representa la persona y su honor. Cuando en la vida cotidiana incumplimos el mandamiento “No tomarás el nombre de Jehová tu Dios en vano” (Éxodo 20:7) y usamos el nombre de Dios de forma irreverente o burlona, en realidad estamos rebajando a Dios al nivel de un ídolo, lo cual constituye un grave pecado. En cambio, santificar Su nombre es otorgar a Su persona y autoridad el máximo respeto, expresado en la adoración y la alabanza. Esto también se traduce en obediencia y gratitud en la vida diaria. El pastor David Jang añade que “si no vivimos en santidad, terminamos deshonrando el nombre de Dios”. Cuando los cristianos se pelean, se dividen o cometen actos inmorales, el mundo se burla no solo de ellos, sino del “nombre de Dios”. Por consiguiente, “santificar el nombre de Dios” implica la responsabilidad de que nuestras vidas reflejen esa santidad y dignifiquen Su nombre.

La segunda petición, “Venga tu reino”, representa la idea central del Padre Nuestro. Todo el ministerio público de Jesús gira en torno a la proclamación del “reino de Dios” o “reino de los cielos”. Desde el comienzo de su predicación—“Arrepentíos, porque el reino de los cielos se ha acercado” (Mateo 4:17)—hasta las numerosas parábolas, Jesús enseña sobre cómo llega el reino de Dios. En el Padre Nuestro, al enseñar “venga tu reino”, enfatiza que nuestro objetivo en la oración y en la vida debe orientarse a “ese reino de Dios”. Y esto no se limita al “cielo” al que vamos al morir, sino que incluye el gobierno y la autoridad de Dios que ya operan aquí y ahora. Ésta es la esperanza que Jesús transmitió a sus discípulos: “El reino de Dios no viene con señales visibles… porque he aquí el reino de Dios está entre vosotros” (Lucas 17:20-21). El reino ya está presente en nuestros corazones por la obra del Espíritu Santo, pero también esperamos su cumplimiento definitivo en la segunda venida de Cristo—“El reino del mundo ha venido a ser de nuestro Señor y de su Cristo” (Apocalipsis 11:15). El pastor David Jang recalca que no debemos perder de vista este doble significado. Tenemos que vivir la “realidad presente” del reino a través de la salvación personal y la santidad de vida, y al mismo tiempo anhelar la consumación plena del reino en la “segunda venida del Señor”.

La tercera petición, “Hágase tu voluntad, como en el cielo, así también en la tierra”, es una súplica para que los propósitos de Dios se cumplan en nuestro mundo. En el cielo, la voluntad de Dios se ejecuta a la perfección—los ángeles obedecen y no hay rastro de pecado ni injusticia. Rogar “hágase tu voluntad, como en el cielo, así también en la tierra” expresa el anhelo de que en nuestra realidad, aún plagada de imperfecciones, contradicciones, pecado y sufrimiento, se establezcan la justicia y el amor divinos. Esta oración tiene un eco en la exhortación profética de Amós 5:24: “Pero corra el juicio como las aguas, y la justicia como arroyo inagotable”. El mundo está lleno de injusticias, corrupción y prácticas opuestas al orden de Dios. Sin embargo, los creyentes debemos orar para que “se cumpla la voluntad de Dios” y esforzarnos en ello. Jesús nos manda: “Mas buscad primeramente el reino de Dios y su justicia” (Mateo 6:33). Esa “justicia” es la voluntad de Dios y el valor que hemos de perseguir.

El pastor David Jang subraya que este no es un mero conocimiento teológico, sino una pauta para la vida práctica. Cada vez que recitamos el Padre Nuestro, debemos preguntarnos: “¿Estoy santificando hoy el nombre de Dios? ¿Vivo con la mirada puesta en el reino de Dios? ¿Me esfuerzo porque Su voluntad se cumpla en la tierra?”. No basta con pronunciar esta oración en el culto dominical; debemos retomarla a diario y encarnarla en la oración y en la acción. Así, el creyente participa activamente en la manifestación de la santidad de Dios y Su reino. El Padre Nuestro no es solo un ejercicio de memorización, sino un “faro” que ilumina nuestro caminar en la fe.

El pastor David Jang, refiriéndose a Romanos 8:26, recuerda que “no sabemos orar como conviene, pero el Espíritu Santo ayuda en nuestra debilidad”. Aun cuando nos sintamos superados, contamos con el Padre Nuestro que el mismo Jesús nos enseñó, y podemos meditar en él una y otra vez. A través de esa oración, descubrimos cuán grande y santo es Dios y, al mismo tiempo, cuán lleno de amor se acerca a nosotros. También aprendemos cuál es Su plan para este mundo, y de qué manera discernir y cumplir Su voluntad. De ese modo, el Padre Nuestro se convierte en un medio poderoso para alinear nuestra vida con la de Dios, ayudándonos a escapar de la avaricia, la ansiedad, el pecado y la injusticia de este mundo.

En definitiva, vivir para “santificar el nombre del Padre, consagrarnos a la venida de Su reino y esforzarnos para que Su voluntad se cumpla en la tierra”, debe constituir la meta de nuestra existencia. El pastor David Jang señala que, cuando perdemos de vista este propósito, caemos en confusión, vacío y tentación. Pero si este propósito se asienta firmemente en nuestras vidas, cambia por completo nuestra perspectiva sobre los asuntos del día a día—el dinero, la fama, los placeres, las relaciones—. Todo ello pasa a ser un don de Dios puesto a nuestro servicio, con miras a la expansión de Su reino. Ya no somos esclavos de esas cosas, pues no son nuestras dueñas. Con este cambio radical en nuestra visión, hallamos verdadera felicidad y reposo en la certeza de que “existimos bajo el plan del Padre celestial, vivimos para Su reino y al final regresamos a Sus brazos”. De ahí emana la paz del corazón.

Para concluir, el mensaje central que el pastor David Jang extrae del Padre Nuestro podría resumirse en tres grandes ideas. Primera: “Santifica el nombre de Dios”. Hemos de recordar Su soberanía y gloria y rendirle adoración, gratitud y obediencia. Segunda: “Ruega por la venida del reino de Dios”. El reino empezó con la venida de Jesús, pero esperamos su culminación en Su regreso futuro. Tercera: “Ora y actúa para que se cumpla la voluntad de Dios en la tierra”. Los sedientos de justicia y rectitud obtendrán la bendición, y cuando la justicia fluya como un río incesante, entonces se manifestará el reino de Dios. La cosmovisión cristiana reconoce la existencia de “otra vida eterna” y, a la vez, se compromete con la implementación de la voluntad divina aquí y ahora. Ese es el espíritu del Padre Nuestro.

Así, en el primer culto dominical del año, el pastor David Jang responde a la pregunta fundamental “¿por qué vivimos?” a partir del Padre Nuestro. Vivimos para glorificar a Dios y darle gracias. Anhelamos Su reino y oramos para que “la voluntad celestial se cumpla también en la tierra”. Al vivir así, el mensaje “Jesús, cielo; incredulidad, infierno” deja de ser una simple amenaza, para convertirse en la Buena Nueva de la vida. Si comprendemos que más allá de la muerte nos espera un juicio, y que la salvación que nos libra de ese juicio está en Cristo Jesús, no hay mensaje más claro y certero. Por eso, el creyente que experimenta esta verdad puede decir con convicción: “¿Por qué preocuparme, si puedo orar?”. Diariamente, oremos cara a cara con Dios, profundizando en la comunión con Él, que es santo y lleno de amor.

Si los cristianos inician el nuevo año alineándose con la enseñanza esencial del Padre Nuestro, experimentarán la satisfacción de su alma, la unidad genuina en la comunidad de fe y la glorificación del nombre de Dios en medio del mundo. Así se extenderá en forma palpable Su reino. A través de todo ello, se proclamará ante todos que Dios es amor. El pastor David Jang subraya que ese es el camino que deben recorrer quienes conocen la santidad y el amor de Dios. Al comenzar el nuevo año, conviene reflexionar si nuestra oración encarna realmente el espíritu del Padre Nuestro; y acercarnos con todo el corazón a la confesión: “Padre nuestro que estás en los cielos, santificado sea tu nombre, venga tu reino, hágase tu voluntad, como en el cielo así también en la tierra”. Entonces, el creyente experimentará abundantemente el poder y las respuestas que el Señor ya ha prometido. Allí se encierra el dinamismo de la verdadera fe cristiana.

주기도문 – 장재형(장다윗)목사

1. 사랑의 하나님과 거룩의 전제

장재형(장다윗)목사는 “하나님은 사랑이시다(God is love)”라는 본질적 메시지를 강조한다. 이는 요한일서 4장 8절에 기록된 “하나님은 사랑이시라”는 구절에서 분명히 드러난다. 성경이 말하는 하나님의 사랑, 그리고 인간이 그 사랑을 어떻게 이해해야 하는지는 매우 깊고도 넓은 주제이다. “하나님이 사랑이시라”는 진리는 단순히 감상적인 차원이 아니라, 성도들이 신앙 안에서 반드시 체득해야 할 ‘본질’에 해당한다. 이 사랑을 이해하기 위해 먼저 성경이 제시하는 핵심적 전제가 있다. 그 첫 번째가 바로 ‘우리와 거룩의 관계’를 아는 것이다.

장재형목사는 사랑의 하나님을 언급하며, 동시에 그 사랑에 필연적으로 전제된 것이 바로 ‘거룩’임을 강조한다. 사람들은 “하나님은 사랑이시다”라는 구절에 마음이 끌리지만, 동시에 “하나님은 거룩하시다”는 메시지는 간과하기 쉽다. 사랑을 말하기 전에 먼저 알아야 할 것은 이 사랑이 거룩 위에 기초하고 있다는 사실이다. 하나님을 단지 ‘사랑하기 좋은 존재’로 생각하는 것으로는 충분치 않다. 그분은 전능자요, 동시에 전적으로 다른 분이시다. 구약 성경에서 모세가 미디안 광야의 떨기나무 불꽃 가운데 하나님을 만났을 때 하나님께서 “네 발에서 신을 벗으라”(출애굽기 3장 5절)고 명령하신 장면이 그것을 상징적으로 보여준다. 하나님을 만나기 위해서는 먼저 자기의 ‘옛것’을 벗고, 거룩하신 하나님 앞에 구별되게 서야 한다. 떨기나무 에피소드는 구약 시대에 하나님이 형상화된 모습으로 직접 나타나셨던 유일무이한 사건이다. 일반적으로 구약의 인물들이 만난 것은 ‘하나님의 사자들’이었지, 하나님의 실체적 현현이 아니었다. 그러나 모세는 예수님이 오시기 전에, 그 하나님의 형상 같은 모습을 가장 뚜렷하게 체험했다. 그리고 거기서 첫 번째 명제를 배운다. “하나님은 거룩하시다.”

거룩은 무엇을 의미하는가? 거룩은 ‘전적으로 다르다’는 뜻이다. 하나님의 생각과 길은 우리의 생각과 길과 다르다(이사야 55장8절). 다시 말해, 하나님은 이 세계에서 가장 높은 분이며, 어디에도 얽매이지 않으시는 초월자이자 창조주이시다. 또한 하나님은 모든 것을 지으셨을 뿐 아니라 보존하시는 분이시다. 그래서 그분을 향해 경배와 찬양을 드려야 한다. 사람이 하나님을 경배하고 찬양하는 것은 그분이 인간에게 “내가 너희를 지었으니 내게 순종하라” 하고 억압적인 요구를 하시는 것이 아니라, ‘창조주와 피조물’이라는 분명한 관계 속에서 마땅히 이루어져야 할 예배적 행위이다. 장재형목사는 이를 두고 “하나님을 영화롭게 하고 감사함이 없으면 로마서 1장에 나타난 죄인들의 전철을 밟게 된다”라고 설명한다. 로마서 1장은 하나님을 알면서도 하나님을 섬기지 않고, 오히려 우상을 숭배하며 육신의 정욕을 따라 사는 인간의 타락상을 보여준다. 그 결과는 영벌, 즉 지옥이다. 바울은 이것을 “핑계할 수 없다”(롬 1장 20절)라고 말한다. 왜냐하면 하나님이 이 세계에 대한 증거를 분명히 남겨놓으셨기 때문이다. 자연 만물과 인간의 양심은 물론, 성경을 통해서도 하나님의 존재와 하나님을 예배해야 할 분명한 당위를 깨달을 수 있는데, 이를 무시하고 등을 돌리면 심판받는 것이 마땅하다는 논리이다.

그렇다면 사랑의 하나님이라는 표현은 거룩하신 하나님과 어떻게 양립하는가? 하나님이 사랑이시며, 동시에 거룩하시다는 것은 전혀 모순이 없다. 하나님은 전능하신 분(almighty God)인 동시에 기다리시는 분, 곧 어떤 면에서는 ‘powerless God’처럼 보이기도 하시는 분이다. 하나님께서 ‘사랑의 하나님’으로서 역사 속에 들어오실 때는 인간에게 강권적으로 무엇인가를 강요하기보다, 인격적인 초청을 통해 인간이 스스로 선택하도록 허용하신다. 바로 그 점에서 ‘전능하신 하나님’이면서 ‘무력해 보이시는 하나님’이라는 양극적 표현이 성립된다. 전능자요 심판자이신 하나님이, 동시에 인간을 기다리시고 인내하시는 사랑의 하나님인 것이다.

장재형목사는 “거룩과 사랑은 결코 분리되지 않으며, 사랑을 바로 이해하려면 먼저 거룩의 전제를 이해해야 한다”고 거듭 강조한다. 즉, 거룩함 없는 사랑은 방종과 퇴폐로 이어지기 쉽고, 사랑 없는 거룩함은 율법적인 금욕주의나 형식주의로 흐르기 쉽다.그러나 성경이 말하는 하나님은 거룩 자체이시고 사랑 자체이시다. 이러한 하나님의 속성은 오로지 예수 그리스도를 통해 우리에게 구체적으로 드러났다. 신약시대에 이르러 예수님이 ‘하나님의 형상’(골로새서 1장 15절)으로 이 땅에 오심으로써, 인간이 그토록 알고 싶어 하던 하나님의 ‘사랑’이 결정적으로 계시되었다. 예수님은 “하나님 아버지의 독생자”이자 “동일본질”을 지니신 분이시다. 삼위일체 교리 안에서 예수님은 아버지 하나님과 본질이 같으시다. 그래서 요한복음 14장 9절에서 예수님은 “나를 본 자는 아버지를 보았다”라고 말씀하신다. 이 예수님을 통해 하나님을 아는 것이 신약성도들의 특권인 셈이다.

“하늘에 계신 우리 아버지여, 이름이 거룩히 여김을 받으시오며…(마태복음 6장 9절~10절)”라는 주기도문의 서두는, 바로 이 거룩하신 하나님이 동시에 ‘우리 아버지’가 되신다는 놀라운 진리를 선포한다. 이는 하나님의 높은 위엄(Transcendence)과 친밀성(Immanence)이 교차하는 지점이다. 하나님은 초월해 계시지만, 또한 우리를 자녀 삼으시고 아버지로 다가오신다. 거룩하신 하나님을 ‘아버지’로 부를 수 있다는 것은 예수 그리스도 안에서만 가능한 일이요, 성령의 내주하심이 있기에 우리가 감히“아빠 아버지”(로마서 8장 15절)라고 부르는 특권을 누린다. 그렇기에 장재형목사는 “사랑의 하나님은 곧 거룩의 하나님”이라는 그 전제에 기초하여, 성도들이 점점 더 하나님 앞에 구별된 삶을 살아갈 것을 촉구한다. 세상 속에서 거룩한 생각, 거룩한 행동, 거룩한 말과 태도를 지님으로써 하나님의 영광을 드러내야 한다는 것이다. 그리고 이러한 ‘거룩의 자리’가 견고해질 때, 하나님과 ‘사랑의 관계’를 온전히 맺는 기쁨을 경험할 수 있다. 요컨대, 사랑의 근원이신 하나님을 온전히 예배하고 섬기기 위해서는 먼저 그 거룩을 깨닫고 경외하는 마음을 가져야 한다.

2. 하나님과 얼굴을 맞대는 사랑의 관계

장재형목사는 고린도전서 13장을 ‘사랑장’이라고 부르면서, 사랑의 궁극적 모습이 “그 때에는 얼굴과 얼굴을 대하여 볼 것이요”(고전 13장 12절)라는 구절에 응축되어 있다고 말한다. 사도 바울은 이 말씀을 통해 장차 우리가 하나님을 온전히 알게 되고, 그분과 직접적인 사귐으로 들어가게 될 날이 온다고 선포한다. 지금은 부분적으로 알고, 희미하게 볼 뿐이나, ‘그 때’가 되면 완전히 알게 될 것이다. 그리고 그 아는 것의 본질은 바로 사랑이다. 인간이 하나님을 사랑하고, 이웃을 사랑하는 일은 결국 “하나님과 얼굴을 맞대어 보는 신앙의 깊은 교제”에 이르기 위한 과정이며 궁극적 목적이다.

장재형목사는 “얼굴과 얼굴을 맞대어 볼 정도로 친밀한 관계가 되는 것이 신앙의 지향점”이라고 말한다. 우리가 흔히 “하나님을 안다”라고 할 때, 지식적인 차원에서의 앎이 아니라, 인격과 인격이 부딪히는 관계적 앎이 필요하다. 그것이 요한복음 17장에 기록된 예수님의 대제사장적 기도에서 “하나님과 하나가 된 것처럼 우리도 하나님 안에서 하나 되게 해 달라”고 기도하신 부분과도 연결된다. 예수님은 아버지 하나님의 품 안에서 완전한 사랑을 누리셨고, 그 사랑으로 말미암아 십자가라는 극심한 고난을 견뎌냈다. 그리고 그 사랑이 우리 안에도 흘러들어오길 원하신다. 그래서 “내가 너희를 사랑한 것같이 너희도 서로 사랑하라”(요한복음 13장 34절)는 새 계명을 주신 것이다. 다시 말해, 하나님의 사랑을 맛본 사람들이 그 사랑을 이웃에게도 전하고 실천하도록 부르심을 받은 것이다.

하지만 이 ‘하나님과 얼굴을 맞대는 관계’라는 표현은 곧 하나님의 임재를 실제로 체험하는 삶을 말한다. 구약에서 하나님이 구름기둥과 불기둥으로 나타나셨고, 성막과 성전을 통해 임재하셨듯이, 신약에서는 예수님이 성전 자체로 오시고, 또 승천 후에 보내신 성령을 통해 우리 안에 내주하신다. 고린도전서 3장 16절에는 “너희는 너희가 하나님의 성전인 것과 하나님의 성령이 너희 안에 거하시는 것을 알지 못하느냐”라고 묻는다. 하나님의 임재란, 그저 교회 건물 안에서만 느껴지는 제도적 종교 활동이 아니라, “성령이 너희 안에 거하시는” 아주 역동적이고 실존적인 사실이다. 그래서 성도는 일상 속에서도 하나님을 ‘얼굴과 얼굴을 맞대어’ 바라볼 수 있다. 기도를 할 때는 하나님께 말하고, 말씀을 읽을 때는 하나님의 음성을 듣는다. 그렇게 매일의 삶에서 소통하는 관계가 바로 ‘인격적인 만남’이며, 이것이야말로 신앙의 본질이 된다.

장재형목사는 여기서 중요한 것은 자기 자신을 돌아보는 성찰이라고 말한다. “내가 진정으로 하나님과 얼굴을 맞대어 대화하는 사람인가? 혹은 종교적 형식에 갇혀 의무감으로만 기도하고 예배하는가?”라는 질문을 던져야 한다는 것이다. 왜냐하면 사랑은 강제로 이뤄지지 않기 때문이다. 사랑은 진실한 교감이 있을 때에만 가능하다. 우리가 ‘하나님을 사랑하고, 또 그분이 나를 사랑하신다’고 고백할 때, 그 고백은 생생한 관계에서 비롯되어야 한다. 하루를 시작할 때, 길을 걸을 때, 밥을 먹을 때, 그리고 잠자리에 들기 전에, 언제든지 하나님께 마음을 열어 기도하고 대화할 수 있는 것이 바로 기독교 신앙의 특권이다. 세상에 다른 종교나 명상법도 있지만, 그곳에는 분명한 기도의 대상이 없다. 그들이 말하는 ‘관상’이나 ‘묵상’은 자기 자신을 돌아보거나 우주적 에너지를 느끼는 것일 수 있지만, 기독교 기도는 ‘전능하신 분’이자 ‘사랑의 아버지’께 말을 건네는 인격적 교제다. 이런 점에서 기독교 신앙은 참으로 독특하다.

“하늘에 계신 우리 아버지여”라는 주기도문의 첫 구절은, 기도에는 분명한 대상이 있다고 선언한다. 눈에 보이지 않지만 살아계시고, 우주와 역사를 주관하시며, 동시에 내가 ‘아버지’라 부를 수 있을 만큼 가까우신 분이 바로 그 대상이다. 그래서 작은 기도에도 응답하시고, 우리의 사소한 바람과 염려까지도 들어주시는 하나님이시다. 부모가 자녀의 말을 소홀히 듣지 않듯이, 하나님도 우리의 언어를 결코 무시하지 않으신다. 이 점에서 기독교의 기도는 그 무엇과도 견줄 수 없는 위로와 능력의 통로가 된다. 장재형목사는 “기도할 수 있는데 왜 걱정하십니까?”라는 문구를 자주 예로 들며, “기도야말로 하나님의 전능하심을 신뢰하는 가장 분명한 행동”이라고 역설한다. 실제로 성경 속 인물들의 생애를 살펴보면, 하나님은 사람들의 기도를 하나도 놓치지 않고 들으시며, 다만 가장 선한 때와 방식으로 응답하신다. 어떤 응답은 금방 나타나고, 어떤 응답은 긴 세월이 지난 뒤에야 나타나기도 하지만, 결코 헛되지 않는다.

따라서 사랑의 하나님과의 관계에서 ‘거룩’과 ‘얼굴을 맞대는 친밀함’은 서로 결합되어야 한다. 거룩을 상실하고, 하나님을 그저 만만한 분으로 취급한다면, 참된 경외심 없이 기도하게 된다. 또 하나님과 친밀하지 않다면, 그분을 ‘두려운 심판자’로만 여기고 멀리 도망치게 될 것이다. 장재형목사는 이 두 극단을 경계하며, “거룩하신 아버지, 사랑의 아버지”라는 균형 잡힌 하나님 이해를 제시한다. 그리고 이것이 고린도전서 13장에 드러나는 사랑의 정수이며, 요한일서 4장에 나타난 “우리가 하나님을 사랑한 것이 아니요 하나님이 먼저 우리를 사랑하셨다”는 말씀이 내포한 은혜이기도 하다. 그분의 사랑이 먼저 임했기에 우리가 그 사랑에 응답할 수 있는 것이다.

3. 주기도문의 핵심 – 하나님의 거룩과 하나님의 나라

주기도문은 마태복음 6장 9절부터 13절, 그리고 누가복음 11장 2절부터 4절에 기록되어 있다. 이 기도문은 예수님께서 직접 제자들에게 가르쳐주신 것으로, 기독교 역사상 가장 중요한 ‘원형적 기도문’으로 여겨진다. 특히 장재형목사는 새해 첫 주일예배에서 “금년 한 해 수없이 반복될 주기도문을 ‘정말 깊이 묵상해야 한다’”고 강조하면서, 기도의 첫머리에 등장하는 세 가지 간구—“이름이 거룩히 여김을 받으시오며, 나라가 임하시오며, 뜻이 하늘에서 이루어진 것 같이 땅에서도 이루어지이다”—가 성도의 삶의 목적과 방향을 압축하고 있다고 설명한다.

첫 번째 간구인 “이름이 거룩히 여김을 받으시오며”는, 우리가 하나님을 얼마나 경외하고 있는지를 보여주는 기도다. “하늘에 계신 우리 아버지”라고 부르지만, 그분은 결코 세상적인 의미의 아버지와 동일시될 수 없다. 하나님의 이름은 여호와이시고, 엘로힘이시고, 아도나이이시다. 우리는 보통 ‘하나님(God)’이라고 부르지만, 그것은 매우 일반적인 호칭이고, 더 본질적으로는 “창조주요 주권자”이신 하나님의 고유성을 담아내지 못하기 쉽다. 그래서 예수님은 제자들에게 “그 이름을 거룩하게 여기라”는 기도를 가르치셨다. 이름은 곧 인격과 명예를 대표하기 때문이다. 우리가 일상에서 “하나님의 이름을 헛되이 일컫지 말라”(출 20장 7절)는 계명을 어기고, 하나님을 모독하거나 조롱하는 말을 쉽게 뱉는다면, 그것은 곧 하나님을 우상 수준으로 전락시키는 심각한 죄가 된다. 반대로 하나님의 이름을 거룩히 여기는 것은, 곧 그분의 인격과 권위를 지극히 존중하는 것이다. 그 존중과 경외심이 예배와 찬양이라는 형식으로 표현되며, 또 삶 속의 순종과 감사로 이어진다. 장재형목사는 여기에 덧붙여, “우리가 우리 자신을 거룩하게 살지 못하면, 결국 하나님의 이름이 욕되게 된다”고 말한다. 예수 믿는 이들이 교회 밖에서 싸우고 분열하고 비리를 저지르면, 세상 사람들은 그 모습을 보고 “하나님 이름”까지 비웃는다는 것이다. 따라서 ‘하나님의 이름을 거룩히 여김’은 곧 우리의 삶을 통해 그 이름이 드러나도록 하는 거룩의 책임이기도 하다.

두 번째 간구인 “나라가 임하시오며”는 주기도문의 중심사상이다. 예수님의 공생애 사역 전체를 아우르는 핵심 주제는 “하나님의 나라” 또는 “하늘나라”였다. 예수님은 “회개하라 천국이 가까이 왔느니라”(마 4장 17절)라고 선포하셨고, 곳곳에서 비유를 통해 그 나라가 어떻게 임하는지 가르쳐주셨다. 주기도문에서도 “나라가 임하시오며”라고 명확히 간구하게 함으로써, 성도들의 기도와 삶의 목표가 ‘하나님의 나라’에 맞춰져야 함을 일깨우신다. 왜냐하면 하나님의 나라는 단지 죽어서 가는 ‘내세 천국’만을 의미하지 않기 때문이다. 여기에는 이미 이 땅에서부터 시작되는 “하나님의 통치”, 곧 “왕 되신 하나님의 다스림”이 깃들어 있다. 이것이 예수님이 제자들에게 가르쳐주신 희망이다. “하나님의 나라는 볼 수 있게 임하는 것이 아니요 또 여기 있다 저기 있다고도 못하리니 하나님의 나라는 너희 안에 있느니라”(누가복음 17장 20절~21절)는 말씀처럼, 하나님의 나라는 성령을 통해 이미 우리 마음속에 임하고 있다. 그러나 동시에 “이 세상 나라가 우리 주와 그 그리스도의 나라가 되었다”(요한계시록 11장 15절)라는 궁극적 완성도 기다리고 있다. 장재형목사는 이중적 의미를 결코 놓쳐서는 안 된다고 말한다. 개인의 구원과 삶의 성결을 통해 “나라가 이미 임한 모습”을 살아내야 하며, 한편으로는 “주의 재림”과 함께 완전히 임할 ‘하나님의 왕국’을 소망해야 한다.

세 번째 간구인 “뜻이 하늘에서 이루어진 것 같이 땅에서도 이루어지이다”는, 이 땅에 하나님의 선하신 뜻이 구현되도록 기도하는 것이다. 하늘에서는 하나님의 뜻이 완전히 이루어져 있다. 천사들이 순종하며, 죄나 불의가 일체 존재하지 않는 곳이다. “뜻이 하늘에서 이루어진 것 같이 땅에서도 이루어지이다”라는 고백은, 우리 현실의 불완전함과 모순, 죄와 고통이 가득한 환경 안에서도 하나님의 정의와 사랑이 펼쳐지길 바라는 성도의 간절한 소망을 반영한다. 아모스 5장 24절에서 “오직 정의를 물 같이, 공의를 마르지 않는 강 같이 흐르게 할지어다”라고 했던 예언자적 절규와도 맥을 같이한다. 세상은 불의와 부정으로 가득 차 있고, 정치적·사회적·개인적 영역에서도 하나님의 질서와 반대되는 일이 허다하다. 그러나 성도는 그 안에서 “하나님의 뜻이 이루어지길” 기도하고, 또 그 뜻을 실천하기 위해 노력해야 한다. 예수님은 “너희는 먼저 그 나라와 그 의를 구하라”라고 말씀하셨다(마태복음 6장 33절). 바로 이 ‘의로움’이 하나님의 뜻이며, 우리가 추구해야 할 가치이다.

장재형목사는 이것이 단지 머리로만 이해되는 교리가 아니라, 실제적인 삶의 지침이 돼야 한다고 강조한다. 주기도문을 외울 때마다, “내가 오늘도 하나님의 이름을 거룩하게 하고 있는가? 하나님의 나라를 바라보며 살아가는가? 하나님의 뜻을 이 땅에 펼쳐내는 삶을 추구하고 있는가?”를 물어야 한다는 것이다. 주일예배에서 이 기도를 한 번 낭송하는 것에 그치지 않고, 매일의 삶에서 되새길 때, 성도는 기도와 행동을 통해 하나님의 거룩과 하나님의 나라를 실현해 갈 수 있다. 그러므로 주기도문의 가르침은 단순한 암송 과제가 아니라, 신앙 여정의 등대 역할을 한다.

장재형목사는 끝으로, 로마서 8장 26절을 언급하면서 “우리는 마땅히 기도할 바를 알지 못하나, 성령께서 우리 연약함을 도우신다”는 사실을 상기시킨다. 기도는 인간의 한계 속에서 절박하게 도전받을 때도 있지만, 주님이 분명히 “이렇게 기도하라”고 친히 가르쳐주신 주기도문이 있으니, 그것을 반복하여 묵상하라는 것이다. 우리는 그 기도의 가르침 속에서 하나님이 얼마나 높고 거룩하며, 동시에 얼마나 사랑으로 우리에게 다가오시는 분인지 깨닫게 된다. 또한 그분이 이 땅에 어떤 나라를 이루길 원하시는지, 그리고 우리가 어떻게 그 뜻을 분별하고 동참할 것인지를 배우게 된다. 그렇게 주기도문은 신앙인의 삶을 하나님께로 맞추고, 이 세상의 탐욕과 불안, 죄와 불의로부터 벗어나도록 돕는 강력한 수단이 된다.

결국 “하나님 아버지의 이름을 거룩히 하기 위해 살고, 그분의 나라가 임하도록 헌신하며, 그분의 뜻이 이 땅에 펼쳐지도록 노력하는 것”이 우리의 인생 목적이다. 장재형목사는, 이 목적이 흔들릴 때 사람들은 방황하고 허무해지며 죄의 유혹에 쉽게 빠진다고 지적한다. 그러나 이 목적이 분명해지면, 인생의 크고 작은 일들—재물, 명예, 쾌락, 인간관계—등에 대한 관점이 달라진다. 그 모든 것은 하나님께 받은 선물이며, 하나님의 나라를 위해 쓰임받을 재료가 된다. 더 이상 그것들이 우리의 주인이 아니고 우리가 그것들의 노예가 될 필요도 없다. 이처럼 인생관이 바뀌면, 궁극적으로는 삶의 행복과 안식이 찾아온다. 그 안식은 “하늘 아버지의 계획 아래 내가 존재하고, 그분의 나라를 위해 살아가며, 결국 그분 품으로 돌아간다”는 믿음에서 비롯되는 평안이다.

정리하자면, 장재형목사가 말하는 주기도문의 핵심 사상은 크게 세 부분으로 집약된다. 첫째, 하나님의 이름을 거룩히 여기라는 것이다. 우리는 하나님의 위엄과 영광을 기억하며, 그분께 경배와 감사, 순종을 드려야 한다. 둘째, 하나님의 나라가 임하기를 구하라는 것이다. 이 나라는 이미 예수님을 통해 시작되었지만, 재림을 통해 완성될 미래적 왕국이기도 하다. 셋째, 하나님의 뜻이 이 땅 가운데 이뤄지도록 기도하고 행동하라는 것이다. 의에 주리고 목마른 자가 결국 복을 받을 것이고, 그 정의와 공의가 강물같이 흐르는 세상이 곧 하나님 나라의 모습이다. 기독교적 세계관은 이 땅만이 전부가 아니라, “저 세상(영원)이 있다”는 사실을 전제로 움직이지만, 동시에 이 땅의 현실에서도 ‘하나님 뜻’을 실현하기 위해 애쓴다. 이런 신앙고백이 바로 주기도문에 담겨 있다.

결국, 새해 첫 주일예배의 메시지에서 장재형목사는 “우리가 왜 사느냐?”라는 근본적 물음에 대한 답을 주기도문을 통해 제시한다. 우리는 하나님을 영화롭게 하고, 그분께 감사하기 위해 산다. 나아가 그분의 나라를 바라보며, 하늘에서 이미 완성된 거룩한 뜻이 땅에서도 이루어지도록 기도하고 노력한다. 그렇게 살 때, “예수 천국, 불신 지옥”이라는 단순하고도 직설적인 결론이 단지 두려움의 논리가 아니라, 오히려 생명의 복음으로 다가온다. 죽음 너머 영원한 심판이 있음을 깨닫고, 그 심판에서 건져주시는 구원의 은혜가 ‘예수님 안에 있음’을 안다면, 그보다 더 분명하고 확실한 구원의 메시지는 없다. 그러므로 성도는 “기도할 수 있는데 왜 걱정하냐”라는 문구를 실감하며, 매일 기도를 통해 하나님과 얼굴을 맞대어 보고, 거룩과 사랑이 가득한 하나님과 친밀히 교제해야 한다.

이처럼 성도들이 새해를 맞아 주기도문의 기본 정신에 충실하게 된다면, 개인의 영혼의 만족과 더불어 교회 공동체 안에 진정한 연합이 이뤄지고, 세상 속에서도 하나님의 이름이 높여지며, 그분의 나라가 실제적으로 확장될 것이다. 그리고 이 모든 과정을 통해, 하나님이 사랑이심을 만천하에 선포할 수 있게 된다. 장재형목사는 그것이 바로 “하나님의 거룩과 사랑을 아는 자들이 마땅히 달려가야 할 길”이라고 말한다. 주님 안에서 이제 막 새로운 한 해를 시작하는 이 때, 우리의 기도가 주기도문의 핵심을 품고 있느냐를 되돌아보고, 마음을 다해 “하늘에 계신 우리 아버지여, 이름이 거룩히 여김을 받으시오며, 나라가 임하시오며, 뜻이 하늘에서 이루어진 것 같이 땅에서도 이루어지이다”라고 고백하는 자리까지 들어가야 한다. 그렇게 할 때, 하나님의 사람들은 주님이 이미 약속하신 능력과 응답을 풍성히 체험하게 될 것이다. 그곳에 진정한 기독교 신앙의 생동하는 역사가 담겨 있다.

Le chemin du salut qui renaît par la grâce – Pasteur David Jang

Le pasteur David Jang étudie simultanément l’Épître aux Galates et l’Épître aux Romains, montrant de manière méthodique comment le « soteriologie » (doctrine du salut) et la « promesse de Dieu » sont étroitement liés, au cœur de la foi chrétienne. La doctrine du salut est considérée comme l’élément central de la théologie chrétienne, car elle est directement reliée à la question cruciale de savoir comment l’homme peut échapper au jugement de Dieu après la mort et obtenir la vie éternelle. Selon le pasteur David Jang, si l’on analyse le raisonnement de Paul dans Galates 3 en parallèle avec la structure de l’Épître aux Romains, l’enchaînement des idées devient encore plus clair. L’Épître aux Romains est composée de 16 chapitres que l’on peut diviser en deux grandes sections : chapitres 1 à 8 et chapitres 9 à 16. Les chapitres 1 à 8 se subdivisent en trois parties : les chapitres 1 à 4 traitent de la « justification » ( justification), les chapitres 5 à 7 de la « sanctification » ( sanctification) et le chapitre 8 de la « glorification » (glorification). De même, l’Épître aux Galates présente une structure similaire : elle aborde d’abord la question de la justification du pécheur, puis le chemin de la sanctification, et enfin la voie de l’accomplissement ultime.

En particulier, le pasteur David Jang souligne que, tout comme l’Épître aux Romains, l’Épître aux Galates suit un mouvement progressif justification–sanctification–glorification. En Romains, jusqu’au chapitre 4, Paul met l’accent sur le fait que le pécheur obtient la justice (ou la justification) par la foi. Le début de Galates présente exactement le même raisonnement. Autrement dit, la réponse à la question « comment l’homme peut-il être délivré du péché et devenir juste ? » est la suivante : « c’est par la grâce de Christ ». Dans l’Épître aux Galates, Paul proclame que le Christ a accompli toutes les exigences de la Loi et qu’il a payé la dette du péché sur la croix pour nous sauver.

Finalement, le pasteur David Jang insiste sur le fait que nous obtenons la justice uniquement par la foi, c’est-à-dire par la seule grâce. Dans ce contexte, il rappelle le slogan de la Réforme protestante : « Sola fide, Sola gratia, Sola Scriptura » – « La foi seule, la grâce seule, l’Écriture seule ». Alors que l’Église catholique considérait les rites et la tradition de l’Église comme des conditions de salut, le protestantisme a tenu fermement au principe du « salut par la foi seule ». Selon l’explication du pasteur David Jang, si l’on introduit une idée telle que « il faut accomplir la Loi pour être sauvé », alors le mérite de la croix s’en trouve obscurci, et les œuvres de l’homme sont mises en avant, ce qui altère la nature même du salut.

Avant de proposer son commentaire détaillé sur Galates 3, le pasteur David Jang identifie trois concepts théologiques essentiels pour comprendre le processus du salut : 1) la christologie (Christology), 2) la sotériologie (Soteriology) et 3) l’eschatologie (Eschatology). Parmi ces trois, la sotériologie, qui porte sur « comment l’homme peut échapper au jugement après la mort et obtenir la vie éternelle », est la plus cruciale. En se référant à Hébreux 9.27, « Il est réservé aux hommes de mourir une seule fois, après quoi vient le jugement », il souligne que le jugement est inéluctable pour tous. Depuis que l’humanité a été chassée du jardin d’Éden, le véritable enjeu est de retrouver la « terre promise » (la cité céleste) perdue. Ce chemin de salut n’est pas fondé sur des œuvres légales, mais repose uniquement sur la foi placée dans la grâce du Christ, affirme le pasteur David Jang.

Lorsque Galates 3 traite de la question de la Loi et de la Promesse, Paul prend l’exemple d’Abraham pour illustrer « comment cet homme a été déclaré juste ». La Loi fut transmise à Moïse au Sinaï après la sortie d’Égypte, alors qu’Abraham avait reçu la promesse de Dieu 430 ans plus tôt. De plus, la circoncision mentionnée dans Genèse 17 intervient après l’alliance originelle de Genèse 15. L’apôtre Paul souligne donc que la promesse faite à Abraham précède non seulement la Loi mais aussi la circoncision. Le pasteur David Jang insiste à nouveau sur la logique de Paul : la véritable justification provient de la « promesse de grâce » antérieure à la Loi, et non de la Loi ou de la circoncision, institutions apparues plus tard. C’est là l’expression de la doctrine fondamentale selon laquelle le salut ne dépend pas des œuvres, mais découle de l’acceptation par la foi de la promesse de Dieu.

Aux versets 15 à 29 de Galates 3, Paul déclare que « la Promesse est venue d’abord, puis la Loi ensuite ». En concluant une alliance directe avec Abraham, Dieu a utilisé la forme rituelle de l’alliance de sang en passant entre les animaux coupés en deux (Genèse 15). Cela représente un serment inviolable de la part de Dieu. Hébreux 6.13-19 souligne également que Dieu a promis par lui-même et fait un serment à Abraham. Dans son commentaire, le pasteur David Jang explique que la foi ne se limite pas à un simple assentiment intellectuel, mais suppose un « croire en » (believe in), signifiant que l’on s’inscrit déjà dans l’accomplissement futur de la promesse de Dieu. Hébreux 11.1 – « La foi est une ferme assurance des choses qu’on espère, une démonstration de celles qu’on ne voit pas » – vient corroborer cette idée. Bien qu’il fût humainement impossible pour Abraham d’avoir une descendance, il a fait confiance à la parole de Dieu et à sa fidélité, et a « fait entrer l’avenir dans son présent ». C’est pourquoi Dieu a estimé sa foi comme justice (Genèse 15.6).

Ainsi, le pasteur David Jang explique avec clarté que le thème central de l’Épître aux Galates est : « Ce n’est pas la Loi, mais la Promesse ; ce ne sont pas les œuvres, mais la grâce reçue par la foi qui constitue le chemin du salut. » Abraham en est l’exemple : avant même l’apparition de Moïse et de la Loi, Dieu avait déjà préparé la promesse de salut pour toute l’humanité. Quand cette promesse s’est accomplie en Jésus-Christ, la voie s’est ouverte à la fois pour les Juifs et pour les païens pour devenir enfants de Dieu. C’est ce que proclame l’apôtre Paul. Selon le pasteur David Jang, on peut voir cette proclamation de Paul dans Galates 3.28-29 : « Si vous appartenez au Christ, vous êtes donc la descendance d’Abraham, héritiers selon la promesse. » Ces versets symbolisent le dynamisme de l’Évangile qui brise tout mur de séparation et unit Juifs et Grecs.

Le salut ne s’arrête toutefois pas à la dimension individuelle : il englobe aussi la restauration de toute la création. Comme le déclare Romains 8, la création entière soupire et attend avec impatience le jour où les fils de Dieu accéderont à la gloire (Rm 8.19). Si l’accent sur la libération du péché et la justification est mis dans les chapitres 1 à 7, le chapitre 8 montre que le salut concerne aussi « toute la création » qui se réjouit et participe à la rédemption. Le dernier chapitre de Galates (chapitre 6) insiste également sur le rôle du Saint-Esprit, tout comme Romains 8. De fait, c’est par l’Esprit que le pécheur peut être retenu de commettre le mal (la Loi lui révélant d’abord le péché), et qu’il peut vivre en tant que juste. Au bout du compte, la création tout entière partagera le jour où elle se joindra à la louange de Dieu – c’est l’accomplissement final du salut.

En confrontant ainsi les deux axes du salut (le salut personnel et le salut cosmique), le pasteur David Jang exhorte à ne pas négliger l’ampleur de l’Évangile, tout en soulignant l’importance de la repentance et de la foi individuelles. Alors que la Loi se contente de contenir le péché et de nous en faire prendre conscience, l’Évangile élimine le péché, justifie le pécheur et fait entrevoir à toute la création soumise à la souffrance du péché et de la mort un nouveau ciel et une nouvelle terre. Ainsi, toute tentative d’expliquer le salut par les œuvres en restreint fondamentalement la portée et finit par reléguer au second plan la croix sanglante de Jésus-Christ. C’est dans ce contexte que Paul, dans l’Épître aux Galates, réagit avec force : « Si vous dites qu’il faut être circoncis pour être sauvé, alors la croix du Christ est rendue vaine. »

En résumé, on peut définir le premier sous-thème comme « l’essence de la doctrine du salut et l’importance de la promesse ». En méditant Galates et Romains, le pasteur David Jang montre clairement comment l’homme est libéré du péché et déclaré juste devant Dieu, comment il progresse ensuite vers la sanctification véritable par le Saint-Esprit et parvient finalement à la glorification, et enfin comment ce salut ne se limite pas à la sphère individuelle mais s’étend à la restauration de l’univers entier. À chaque étape, tout commence en s’appuyant sur la « promesse de Dieu » et en accueillant par la foi la grâce du Christ, comme l’exemple d’Abraham le démontre déjà.

Le pasteur David Jang souligne que, dans Galates 3, Paul explique de manière convaincante, par le biais d’exemples historiques, que « la promesse est venue avant la Loi ». Paul s’appuie sur Abraham : la promesse faite à Abraham par Dieu apparaît dans Genèse 12 (son appel) et dans Genèse 15 (conclusion de l’alliance). La circoncision de Genèse 17 et la Loi transmise à Moïse au Sinaï après l’Exode sont venues bien plus tard. Paul résume cette chronologie en disant : « Il y a 430 ans qu’intervint la promesse » (Ga 3.17).

Cela signifie que « si Abraham a été déclaré juste », ce n’est pas parce qu’il aurait observé la Loi ou la circoncision. Le pasteur David Jang accorde une attention particulière au verset de Genèse 15.6 : « Abram eut confiance en l’Éternel, qui le lui compta comme justice. » C’est la première fois que la « foi » et la « justice » sont associées dans l’Écriture. Alors qu’Abraham était découragé car il n’avait pas d’enfant, il a accepté sans hésiter la promesse de Dieu selon laquelle « celui qui sortira de tes entrailles sera ton héritier ». La foi n’est pas « la preuve démontrable du présent », mais « la réalité de l’avenir invisible », et consiste à confier complètement sa vie à l’alliance que Dieu propose.

Cependant, de faux docteurs – parfois appelés « judaïsants » – s’étaient introduits dans les Églises de la région de Galatie et soutenaient que « même les païens, pour être vraiment sauvés, devaient observer la Loi et recevoir la circoncision ». Dans toute l’Épître aux Galates, Paul s’efforce de réfuter cet enseignement. Le pasteur David Jang qualifie cette controverse de « débat absolument fondamental sur la méthode du salut ». C’était en effet un conflit entre l’affirmation de Paul selon laquelle « le salut vient uniquement de la foi » et la prétention qu’« une part d’obéissance humaine (observation de la Loi) était indispensable ».

Dans Galates 3.16, Paul écrit : « Il n’est pas dit : “et à ses descendants” (au pluriel), mais au singulier : “et à sa descendance”, c’est-à-dire Christ. » L’alliance avec Abraham n’annonçait pas seulement un héritier charnel, mais elle préfigurait avant tout la venue du Messie, Jésus-Christ, par lequel toutes les nations recevraient la bénédiction. Ainsi, la promesse ne se limite pas à une ethnie particulière, et les païens qui croient au Christ deviennent eux aussi la descendance d’Abraham (Ga 3.29). Le pasteur David Jang décrit cette logique de Paul comme « la confluence de deux fleuves » : la puissance de l’Évangile qui abolit le mur de séparation entre Juifs et païens.

Mais alors, pourquoi la Loi ? Galates 3.19 répond : « Elle a été ajoutée à cause des transgressions. » La Loi empêche le péché, ou tout au moins le freine, et nous fait prendre conscience de la gravité du péché (Rm 3.20). Le pasteur David Jang renvoie à l’image du « pédagogue » (ou instituteur des enfants), évoquée au verset 24 de Galates 3 (« Ainsi la Loi a été comme un pédagogue pour nous conduire à Christ »). La Loi dévoile le péché et nous pousse à chercher la grâce et à nous tourner vers Jésus-Christ. Le problème n’est pas la Loi elle-même : elle a une fonction, celle d’un moyen limité, incapable de procurer la vie éternelle. Il est essentiel de reconnaître ses limites.

Le pasteur David Jang explique que, selon Paul, dire que la Loi est sans valeur n’est absolument pas son propos. Simplement, la Loi ne peut nous justifier. Elle révèle notre péché et nous accable de culpabilité, nous incitant finalement à nous réfugier dans le Christ. En Romains 7, Paul confesse lui-même qu’il a compris l’étendue de son péché précisément grâce à la Loi, confirmant ainsi le rôle d’accusateur qu’elle joue.

Le salut, pourtant, puise sa source dans la « promesse » et s’accomplit par la « foi ». Galates 3.22 dit que tout homme est pécheur sous la Loi, mais que la justice est donnée à ceux qui croient en Jésus-Christ. Le « pédagogue » a accompli sa fonction et, une fois la foi venue, nous sommes placés au rang d’enfants de Dieu. Nous ne sommes plus esclaves mais « fils de Dieu » (Ga 3.26). C’est pour cela que le pasteur David Jang répète que la promesse de Dieu est bien plus essentielle et fondamentale que la Loi.

En outre, le pasteur David Jang explique clairement pourquoi la perspective « nous sommes sauvés grâce à la Loi » est dangereuse : elle « voile et obscurcit la grâce de la croix ». Lorsqu’on met l’accent sur la circoncision et qu’on déclare que quiconque transgresse les rites de l’Ancien Testament ne peut être sauvé, on déplace progressivement le centre de gravité du « mérite de Jésus » vers les « réalisations humaines ». C’est exactement ce que les réformateurs ont reproché à l’Église catholique : la tendance à faire reposer le salut sur ses traditions et ses rites. Les protestants ont alors proclamé « la foi seule, la grâce seule, l’Écriture seule ». Quand on perd de vue le fait que le sacrifice sanglant de Jésus sur la croix est l’unique et suffisant fondement du salut, l’homme devient incapable d’avoir l’assurance de son salut et retombe inévitablement dans l’esclavage d’une religion légaliste où il cherche à mériter son salut par ses œuvres.

Ainsi, le deuxième sous-thème s’intéresse principalement à « la relation entre la Loi et la Promesse, et la raison pour laquelle la Promesse (la foi) est l’unique voie du salut ». Dans Galates 3, Paul développe sa pensée en s’appuyant sur quatre points : 1) le fait historique que la Loi a été donnée 430 ans après la promesse, 2) l’exemple d’Abraham justifié par la foi, 3) ce que la Loi peut et ne peut pas faire, et 4) l’affirmation que Jésus-Christ est la descendance (au singulier) annoncée. Aujourd’hui encore, nous pouvons en tirer la leçon suivante : le culte, la tradition et les rites ne sont pas des conditions absolues pour être sauvé. Ils appartiennent plutôt à l’ordre de la reconnaissance et de l’obéissance de la part d’un peuple déjà sauvé. Le salut ne dépend pas de ces pratiques, mais de « l’alliance de Dieu » que nous recevons par la foi.

Le pasteur David Jang aborde ensuite la question de la « sanctification » : comment les croyants justifiés deviennent-ils saints dans leur vie concrète ? Il met en parallèle les chapitres 6-7 de Romains (et le chapitre 8) avec le contenu de Galates 3. La justification (justification) induit un changement de statut, alors que la sanctification (sanctification) est un changement de condition (change of state). Les croyants sauvés reçoivent non seulement le pardon de leurs péchés, mais aussi l’Esprit du Christ, et ils doivent « revêtir un habit nouveau ». Le verset 27 de Galates 3 déclare : « Vous tous qui avez été baptisés en Christ, vous avez revêtu Christ. » Paul aime beaucoup cette métaphore de « revêtir un vêtement » pour évoquer l’idée que notre conduite, comme un vêtement, se voit à l’extérieur (Ap 19.8 : « Le fin lin, ce sont les œuvres justes des saints »).

Cependant, la nature humaine reste marquée par le péché et tend constamment à revenir à ses anciennes habitudes. L’approche légaliste ne peut venir à bout de cette racine profonde du péché, car la Loi ne fait que nous révéler nos fautes sans pouvoir les effacer. C’est pourquoi Paul, dans les chapitres 5 et 6 de Galates, met l’accent sur la « vie selon l’Esprit ». Romains 8 développe la même idée : c’est par la puissance de l’Esprit que nous pouvons vaincre les œuvres de la chair et marcher en liberté en tant qu’enfants de Dieu.

Selon le pasteur David Jang, c’est l’action de l’Esprit qui constitue la force libératrice que la Loi ne peut offrir. Alors que la Loi indique seulement la bonne conduite à adopter, l’Esprit produit en nous une régénération intérieure qui nous pousse à faire le bien spontanément et à fuir le mal. Lorsque Jésus nous commande « d’aimer nos ennemis » (Mt 5.44), la pensée légaliste, fondée sur « œil pour œil, dent pour dent », s’y refuse presque naturellement. Mais si l’Esprit transforme notre cœur, nous nous souvenons de l’amour de la croix qui nous a sauvés en tant que pécheurs, et nous sommes alors capables d’aimer même nos ennemis. C’est la naissance d’une « nouvelle nature ».

Le pasteur David Jang précise que la sanctification n’est pas un simple exercice de développement personnel ou de vertu morale. Elle est essentiellement l’œuvre du Saint-Esprit, qui opère une transformation intérieure, laquelle se manifeste ensuite par des fruits tangibles dans la vie. Ce processus est rendu possible parce que nous sommes devenus « enfants de Dieu » en Jésus-Christ. Galates 3.28 : « Il n’y a plus ni Juif ni Grec, il n’y a plus ni esclave ni libre, il n’y a plus ni homme ni femme : car vous êtes tous un en Jésus-Christ. » Cette parole révèle que notre « identité » est radicalement changée : nous ne sommes plus des esclaves, mais des enfants de Dieu, et la joie et la liberté qui découlent de cette nouvelle position sont la force de l’Évangile.

Le pasteur David Jang remarque aussi que Galates (chapitres 5-6) et Romains 8 se concluent en insistant sur l’œuvre du Saint-Esprit. Alors que sous la Loi l’homme demeure incapable de faire le bien, sous la puissance de l’Esprit, la promesse de « vie éternelle » se concrétise et l’être humain se transforme réellement. Romains 8.19 et les versets suivants décrivent même la création entière aspirant au jour où les enfants de Dieu se manifesteront pour l’accomplissement final du salut. Ainsi, l’Évangile ne se limite pas à « mon » salut individuel, mais s’étend jusqu’à la restauration de l’univers. Apocalypse 4 décrit ce jour où « tout ce qui est au ciel et sur la terre » louera le Seigneur. Telle est la promesse de la Bible concernant le salut.

Ce point rejoint l’eschatologie : le pasteur David Jang souligne que le salut ne consiste pas seulement à « aller au ciel après la mort », mais qu’il se déploie dès à présent sur cette terre, à travers l’expérience progressive et tangible de l’Esprit. À long terme, il englobe la restauration et le chant de louange de toutes les créatures. C’est pourquoi il exhorte à vivre non pas sous « la malédiction de la Loi » et dans l’inquiétude de devoir tout accomplir par ses propres forces, mais dans l’assurance de l’alliance déjà scellée en Jésus-Christ, en marchant avec le Saint-Esprit.

Selon le pasteur David Jang, Galates 3 montre comment « celui qui est justifié est désormais un enfant de Dieu », et comment cela peut se traduire concrètement en une vie sainte. « Si vous avez été baptisés et unis à Jésus, vous êtes déjà revêtus de Christ. Ne souillez pas ce vêtement, mais lavez-le chaque jour. Il s’agit de votre conduite, et l’Esprit est là pour vous aider à la purifier », tel est le message qui parcourt Galates, Romains et l’ensemble de la Bible. La seule puissance capable de vaincre le péché et le mal de ce monde est celle du Saint-Esprit, et c’est vers cette foi qu’il faut tendre.

En conclusion, le troisième sous-thème concerne « la liberté issue de l’Esprit et la restauration de la communauté ». Déclarés justes, nous ne sommes plus sous la tutelle de la Loi en tant que pédagogue, mais nous suivons la direction du Saint-Esprit, dans la liberté, l’amour et la sainteté. Le pasteur David Jang appelle cela « le privilège des fils ». De même qu’un fils vit en pleine confiance dans la maison de son père, le croyant justifié a maintenant l’audace de s’approcher de Dieu et d’assumer la mission de servir son prochain. Au-delà des divisions, de l’exclusion et de la condamnation qu’engendre le légalisme, le peuple réuni en Christ devient un corps uni, qui s’aime et se soutient. Il participe en définitive à la restauration de toute la création. Ce n’est pas une simple utopie, mais la « promesse » déjà garantie par la croix de Jésus, et le Saint-Esprit agit en nous pour réaliser aujourd’hui ce salut. Le pasteur David Jang insiste : c’est la réalité même du salut présent, non une vague espérance, et c’est une invitation à marcher dans la foi en la puissance de l’Esprit.

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借着恩典重生的救恩之路——张大卫牧师

张大卫牧师在研读加拉太书与罗马书的过程中,系统地讲解了基督教信仰核心——“救恩论”与“上帝的应许”之间的关联。救恩论之所以被视为基督教神学的中心,是因为它与人类在死亡后如何免受上帝审判并获得永生的终极命题紧密相连。张大卫牧师指出,若将加拉太书第3章中保罗的论点与罗马书的结构相并行进行分析,就能更清楚地把握保罗思路的脉络。罗马书共16章,大体可分为1-8章与9-16章两大部分,其中1-8章又可拆分为三个部分:1-4章是“称义(justification)”,5-7章是“成圣(sanctification)”,而第8章则是“得荣(glorification)”的内容。加拉太书同样在前半部分讨论罪人如何得称为义,继而谈到成圣之路,以及最终圆满完成之路,与罗马书有着结构上的相似性。

尤其值得注意的是,张大卫牧师强调,加拉太书与罗马书一样,也体现了“称义——成圣——得荣”这种阶段式的救恩进程。如果说罗马书1-4章突出罪人如何藉着“信心”而得称义,那么加拉太书的前半部分也呈现了同样的逻辑:人如何从罪中得释放并成为义人,其答案就是“因着基督的恩典”。在加拉太书中,保罗宣告,基督已经成全了一切律法的要求,并在十字架上付清罪的代价,从而拯救了我们。

因此,张大卫牧师再三强调,唯有“信心”,也就是唯有“恩典”,我们才能得称为义。在此背景下,新教所提出的“唯独信心、唯独恩典、唯独圣经”这一宗教改革口号再次被提及。过去天主教会曾将教会礼仪、传统等视为救恩的必要条件,而新教则坚定地宣告“惟有信心才能带来救恩”。如果在此基础上再加上“务必守律法才能得救”之类的主张,就会使基督十字架的功劳被淡化,人的行为反而被突出,从而偏离救恩的本质。对此,张大卫牧师提醒,如果我们将人的行为与十字架的恩典混为一谈,就会模糊福音的核心。

在正式讲解加拉太书第3章之前,张大卫牧师先指出了与人的救恩过程相关的三大神学核心概念:1)基督论(Christology),2)救恩论(Soteriology),3)末世论(Eschatology)。其中,救恩论关乎“人在死后如何逃避审判并获得永生”这一问题,因此最为关键。他引用希伯来书第9章27节“按着定命,人人都有一死,死后且有审判”这句话,强调所有人在死后都无可避免地要面对审判。自从人被赶出伊甸园,就失去了“应许之地(天城)”,而重获那失落之地的途径正是救恩之路,而这条路并不在于律法的行为,而在于对基督恩典的信靠。正如张大卫牧师所言,“唯有信心”才是进入救恩的大门。


当加拉太书第3章讨论“律法与应许”的问题时,保罗首先举例说明“亚伯拉罕如何被称为义”。律法是借着摩西在出埃及之后于西乃山所颁布的,而亚伯拉罕比摩西更早430年就从上帝领受了应许。至于割礼,出现在创世记第17章,比上帝在创世记第15章与亚伯拉罕立约更晚。因此,张大卫牧师紧扣保罗的论点,一再解释:真正使人得称为义的途径并不是“在律法或割礼之后才出现的制度”,而是“早在律法之前就已存在的上帝恩典之应许”。这清楚地表达了救恩并非基于人的行为,而是通过相信上帝的应许而得。

在加拉太书3章15-29节,保罗宣告:“应许先于律法,而律法后来才出现。”上帝与亚伯拉罕立约时,采用了古代近东“把祭牲剖开,双方从剖开的肉块之间经过”的血约方式(参见创世记15章)。这实际上等同于上帝不改变的誓言。希伯来书6章13-19节同样强调了上帝向亚伯拉罕亲自宣誓并赐下应许的事实。张大卫牧师在解读这段经文时,指出“信心”并非只是“精神层面的认同”,而是“believe in”的含义,也就是完全进入到那未来的应许之中去的状态。希伯来书11章1节所说“信就是所望之事的实底,是未见之事的确据”,也说明了这一点。亚伯拉罕在完全没有生育希望的情况下,却信靠上帝的话语、相信上帝的信实,并将“未来”当作“现在”来活;正因此,上帝就以他的信心为义(参见创世记15章6节)。

张大卫牧师据此强调了加拉太书的中心议题:“不是律法,而是应许;不是行为,而是恩典;唯有因信领受这恩典才是得救的道路。”亚伯拉罕的例子就是明证。在摩西与律法出现之前,上帝早已为全人类预备了救恩之约定。后来此应许借着耶稣基督得以实现,不再区分犹太人与外邦人,所有人都可成为上帝的儿女——这是保罗在加拉太书3章28-29节所宣告的真理:“若是属乎基督,就是亚伯拉罕的后裔,是照着应许承受产业的了。”张大卫牧师解释,这一宣告拆毁了隔断的墙,将犹太人和希腊人合二为一,象征着福音的强大动力。

进而,他还强调救恩不仅局限于个人层面,也包括恢复万有、更新整个受造界。正如罗马书第8章所言,受造之物热切盼望上帝众子显现并进入荣耀(罗8:19)。如果说罗马书1-7章主要聚焦于个人如何脱离罪与定罪,那么第8章则告诉我们救恩超越个人,乃是连同所有受造之物一同欢呼并参与救赎的“宇宙性救恩”。加拉太书在最后第6章也同样强调圣灵的角色,与罗马书第8章相映衬。唯有在圣灵的帮助下,我们才能真正胜过罪(律法所指明的罪),过上义人的新生活,并且在那万物向上帝赞美的日子与全宇宙一同欢腾,这才是救恩的最终完成。

张大卫牧师在对比个人得救与宇宙性救赎这两个焦点时,不仅强调个人悔改与信心的重要性,也提醒我们不要忽视福音对整个受造世界的恢宏图景。律法虽然能抑制罪恶、让人知道什么是罪,却并不能彻底消除罪;而福音则是除罪,并使罪人得称为义,使原本在罪与死亡之中受苦的所有受造物都能仰望新天新地。正因如此,想要用“行为”来解释救恩本质,实际上是缩小了福音的规模,让耶稣基督宝血所成就的十字架被遮蔽。保罗在加拉太教会中之所以如此强烈地宣告“若说一定要受割礼才得救,那基督的十字架就落了空”,也正是这个原因。

总而言之,可以将小主1概括为“救恩论的本质与应许的重要性”。张大卫牧师透过加拉太书与罗马书的默想,清晰地揭示了人如何从罪中得自由,在上帝面前得称为义,并在圣灵引导下经历真正的成圣,以及最终的得荣。这不仅局限于个人的灵魂得救,还扩展至整个宇宙的更新。而这一切的起点,就在于“依靠上帝的应许、以信心领受基督的恩典”,正如亚伯拉罕的例子已经证明的一样。


张大卫牧师提到,加拉太书第3章中,保罗透过“应许比律法更先存在”这一历史例证,提出了极具说服力的观点。保罗所举的例子就是亚伯拉罕:上帝对亚伯拉罕的应许,在创世记12章(蒙召)与15章(立约)已有明确记载,而创世记17章出现的割礼,或出埃及后在西乃山所颁布的律法,都远晚于亚伯拉罕之约。因此,保罗总结说“应许比律法早了430年”(加3:17)。

这意味着亚伯拉罕得称为义,并非因为他“很好地遵守了律法或割礼”。张大卫牧师尤其聚焦于创世记15章6节:“亚伯兰信耶和华,耶和华就以此为他的义”。这是圣经中首次将“信心”和“义”这两个概念并置在一起。亚伯拉罕虽因无子而困惑绝望,却毫不怀疑地接受了上帝的应许(“那从你身所生的才要成为你的后裔”)。信心抓住的,不是“目前可理解的证据”,而是“尚未看见的未来实质”,是一种将自己完全交托给上帝所立之约的态度。

然而,加拉太教会中出现的假教师,也就是犹太主义派基督徒,则主张“外邦人若要真正得救,必须遵守律法,也要受割礼”。加拉太书整体背景就是保罗对这一观点的驳斥。张大卫牧师指出,这场争论实质上是关于“救恩方式”的核心之争:到底是“唯独信心”带来救恩,还是“部分必须加上人的行为(守律法)”才能得救?

保罗在加拉太书3章16节清楚说明:“上帝所应许的,并不是指‘众子孙’(复数),而是指‘那一个后裔’(单数),就是基督。”这表示亚伯拉罕之约并非仅仅指某个血统后代,而是终将透过弥赛亚耶稣临到万邦,使列国得福。因此,应许并非某个特定民族的专利,凡信耶稣基督的外邦人也能成为亚伯拉罕的子孙(加3:29)。张大卫牧师将保罗的这一主张比喻为“两条大河的汇合”,暗示犹太人和外邦人之间曾经的隔阂如今被福音的大能所打破。

那么,律法究竟是为何而设?在加拉太书3章19节,保罗说:“这是为过犯添上的。”律法能够抑制罪恶、使人对罪有更清楚的认识(罗3:20)。张大卫牧师也引用了加拉太书3章24-25节,将律法比作“启蒙教师(蒙学导师)”,即把孩子带到学校的护卫者(παιδαγωγός)。律法所做的,是指认我们的罪,从而让人更加意识到自己需要恩典,需要投奔耶稣基督。律法本身并没有错,它只是有着自身的局限性:它不能赐予人永生,也没有使人称义的能力。

张大卫牧师总结说,“保罗并非否定律法的存在意义,只是强调律法本身并不能使人称义。它的功能在于指明人的罪,并让人意识到自己的罪责,最终把人引向基督。”保罗在罗马书第7章的自白也佐证了这一点:“因着律法,我才更清楚地知道自己是何等的罪人。”律法就像一个揭示罪恶的“控诉者”。

但救恩最终是“由应许发端,借着信心得以成全”。加拉太书3章22节指出,所有人在律法之下都被证明是罪人,但那应许的义却借着信耶稣基督赐给他们。当这位“启蒙教师”的职责完成,信心来到之时,我们就不再是奴仆,而成为儿子(加3:26)。在此,张大卫牧师再次强调,“上帝的应许”比律法更关键,更根本。

同时,张大卫牧师也指出“若教导人能藉着律法得救”的危险性,因那样会“遮蔽并淡化十字架的恩典”。若强调割礼或守旧约礼规之类的外在行为是得救的必需条件,焦点就会从“耶稣的功劳”转移到“人的表现”,这与宗教改革时期对天主教传统与礼仪救恩观的批判不谋而合。当时,新教高呼“唯独信心、唯独恩典、唯独圣经”,就是为重申唯有耶稣基督的宝血——祂在十字架上的舍命才是充足且唯一的救恩根基。如果忽视这点,人的内心终究难以获得得救的确信,最终很可能落入不断自我捆绑的律法式“行为宗教”陷阱中。

因此,在小主2中所聚焦的重点就是“律法与应许的关系,以及为何唯有应许(信心)才是唯一的得救之道”。保罗在加拉太书3章的论证主线包括:1)律法是在430年后才出现的历史事实,2)亚伯拉罕因信称义的典范,3)律法所能做到与做不到的事情,4)耶稣基督正是那应许的种子(单数后裔)等。应用到今日教会时,我们可以说:礼拜、传统和教规等,并非得救所必需的前提条件,而是已经得救的子民出于感恩和顺服而遵守的秩序;真正的救恩仍然在于“上帝之约以及因信心接受此约”。


张大卫牧师在谈到加拉太书第3章里“因信称义”之后的信徒如何在实际生活中活出圣洁(即“成圣”)时,也将其与罗马书6-7章以及第8章相连起来说明。称义(justification)表示身份地位的改变(change of status),而成圣(sanctification)则意味着状况或状态的改变(change of state)。得救的信徒不仅蒙赦免,也领受了基督的灵,当“穿上”新人。加拉太书3章27节所说“你们受洗归入基督的,都是披戴基督了”正是这一象征。保罗常用“穿衣”比喻我们的行为表现,启示录19章8节也说“这细麻衣就是圣徒所行的义”,可见外在行为如同衣裳,会显明我们内在的真实状况。

然而,人性本身仍旧带着罪性,很容易回到“旧习惯”里去。律法式方法无法根本改变这罪性,因为律法只能让人意识到罪,却无力除掉罪的根源。所以保罗在加拉太书5-6章里强调“随从圣灵而行”,而罗马书第8章也同样以圣灵的大能为中心,让人胜过罪性,享受上帝儿女的自由。

张大卫牧师由此强调:唯有圣灵的帮助,才能带给我们从律法无法获得的强大解放力量。律法固然指出了什么是正义之举,却只能停留在规范层面;而圣灵则从内里更新信徒,使其自发地行善远恶。耶稣教导我们“爱你们的仇敌”(太5:44),对律法思维而言,“以眼还眼,以牙还牙”才合乎常理,让人觉得爱仇敌几乎不可能。但若圣灵更新了我们的心,我们就会因记得自己也是罪人,却被钉十字架的主拯救,从而生出爱敌人的新本性。

张大卫牧师指出,成圣并非简单的“人性修炼”或“道德训练”,而是圣灵主导的内在蜕变,继而自然流露在生活的果子上。这归根到底是因为我们在基督里得着了“上帝儿女”的身份。加拉太书3章28节宣告:“并不分犹太人或希腊人,为奴的或自主的,或男或女,因为你们在基督耶稣里都成为一了。”这彰显了“身份的转变”。我们不再是“奴仆”,乃是“儿子”;而儿子所拥有的自由和喜乐,才是真正的福音大能。

同时,张大卫牧师也注意到,加拉太书结尾(5-6章)与罗马书第8章同样以圣灵的工作作为结束。人在律法之下无法成为良善,但在圣灵能力之中,却能盼望并且开始真实地改变。罗马书8章19节以后提到,连受造之物也切望上帝众子显现,一同分享那救恩完成的荣耀。启示录第4章描绘出将来“天上地上一切都要赞美主”的图景,这表明福音不只是关乎我个人的得救,更要延伸至宇宙万物的复兴。

这也与末世论相关。张大卫牧师多次提醒:救恩不仅仅是“死后上天堂”,更是从现今此世开始,在圣灵里一步步经历真实而确定的改变;最终将与万有一同进入新创造的完成。因此,我们不必在律法的咒诅下挣扎,而应当坚信上帝已赐下的应许和基督十字架的救赎,大胆依靠圣灵同在而生活。

张大卫牧师通过这些教导,解释了加拉太书第3章如何在“已得称义,即成为上帝儿女”这一身份之上,具体落实到“如何活出圣洁生活”。他说:“若你与耶稣联合、受洗归入基督,就等同于穿上了基督;既已穿上,就当努力保持干净,天天洗涤;这涉及到你的行为,需要依靠圣灵的大能而更新。”这也呼应了整卷加拉太书、罗马书以及整本圣经的主线:我们惟有在圣灵的能力里,才能胜过世上的罪恶与败坏。

最终,小主3的核心就是“借着圣灵得自由,并恢复群体的合一”。得称为义的我们,不再受“启蒙教师”——律法的捆绑,而是活在圣灵的带领之中,走向自由、爱与圣洁之路。张大卫牧师将其称为“儿子的特权”。正如儿子可以坦然无惧地在父家生活一般,因信称义的信徒也能在上帝面前坦然无惧,并在彼此服事的事工上勇敢承担使命。这样,原本由律法主义产生的分裂、排斥、定罪文化就能被超越;在基督里成为一体的子民彼此相爱,彼此服事,最终也能参与到上帝对万有的恢复大计中。这并非空想,而是主借着十字架已向我们保证的“应许”,也是现今圣灵在我们心中运行、能使我们真实经历的“救恩现实”。

恵みによって生まれ変わる救いの道 – 張ダビデ牧師

張ダビデ牧師は、ガラテヤ書とローマ書をあわせて考察しながら、キリスト教信仰の核心である「救いの教理(救済論)」と「神の約束」がどのようにつながっているかを体系的に教えている。救済論は、人間が死を迎えた後、いかにして神の裁きを免れ、永遠のいのちを得るのかという絶対的な課題と直結するため、キリスト教神学の中心に位置づけられる。張ダビデ牧師は、ガラテヤ書3章におけるパウロの論旨を分析する際、ローマ書の構造と並行して見ると、その論の流れがいっそう明確になると述べる。ローマ書は全16章で構成されており、大きく前半(1~8章)と後半(9~16章)に分けることができる。さらに1~8章を3つの部分に区分すると、1~4章が「義認(justification)」、5~7章が「聖化(sanctification)」、そして8章が「栄化(glorification)」という内容で構成されている。ガラテヤ書もまた、冒頭で罪人がどのように義とされるかという「義認」の問題を扱い、続いて聖化の道、そして究極的完成の道について語るという構造的類似性を持つ。

とりわけ張ダビデ牧師は、ガラテヤ書もローマ書と同様に「義認―聖化―栄化」という段階的流れを持っていると説明する。ローマ書4章までが「罪人である人間がいかにして義とされる(称義)に至るか」を「信仰によって」と力説しているならば、ガラテヤ書の冒頭部分も同じ論理を示しているというのである。すなわち、人間がどのように罪から自由を得て義とされるかに対する答えは、「キリストの恵みによる」という主張だ。ガラテヤ書の中でパウロは、キリストが律法の要求をすべて満たし、罪の代価を十字架で支払うことによって私たちを救ってくださった、と宣言している。

結局、張ダビデ牧師は、私たちがただ信仰、すなわち恵みによってのみ義とされるのだと強調する。そしてこの強調の文脈において、プロテスタントが掲げてきた「ただ信仰によって、ただ恵みによって、ただ聖書によって」という宗教改革のスローガンが改めて言及される。カトリック教会が教会の典礼や伝統などを救いの条件に提示したのに対し、プロテスタントは「ただ信仰によって」救いを受けるという真理を固く握ったというのである。もしここに「律法を守らなければ救いに至れない」というような主張が混在すると、十字架の功績が曖昧になり、人間の行いが際立ってしまい、救いの本質が損なわれやすいというのが張ダビデ牧師の説明である。

張ダビデ牧師は、ガラテヤ書3章を本格的に解説する前に、まず人間の救いの過程における3つの神学的核心概念を押さえる。それは、1) キリスト論(Christology)、2) 救済論(Soteriology)、3) 終末論(Eschatology)である。このうち救済論が「人間が死んだ後、いかにして裁きを免れ、永遠のいのちを得るか」という問題を扱うため、核心中の核心であることを強調する。ヘブル9章27節の「人間には一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」という御言葉を通して、すべての人に死後の避けられない裁きがあることを確認するのだ。人間がエデンの園から追放されて以来失った「約束の地(天の故郷)」を取り戻す道こそが救いの道であり、そのための方法は律法的行いではなく、ただキリストの恵みを信じ、より頼む「信仰」だけであると、張ダビデ牧師は力説する。

ガラテヤ書3章が律法と約束の問題を扱う際、パウロはまず「アブラハムがどのようにして義とされたのか」を例に挙げて主張を展開する。律法はモーセを通して出エジプト後にシナイ山で与えられたが、アブラハムはそれより430年も前に神の約束を受けた。さらに割礼も創世記17章に登場するが、アブラハムに初めて与えられた約束(創世記15章)は割礼よりも先であることを指摘する。したがって張ダビデ牧師は、パウロの論旨に着目しながら、本当に義とされる道は「律法以前に存在した神の恵みの約束」を信じることであり、後代に設けられた律法や割礼といった制度ではないという点を重ねて説明する。これは救いが行いによるのではなく、ただ神の約束を「信仰によって受け入れる」ことから始まるという核心的な思想を明確に示している。

ガラテヤ書3章15~29節を見ると、パウロは「まず約束があって、それから律法があった」と宣言する。神がアブラハムに直接契約を結び、その約束を成就するために「切り裂いた動物の肉片の間を通る」という古代近東の血の契約方式を用いられた(創世記15章)。これは神が変わることのない誓いをされたことに他ならない。ヘブル6章13~19節もまた、神がアブラハムにご自身で誓われて約束を下さった事実を強調している。張ダビデ牧師はこの箇所を解釈しながら、信仰とは単なる精神的同意ではなく “believe in” の意味、すなわち未来的な約束の中に自分自身が既に入っている状態を指すのだと語る。ヘブル11章1節の「信仰は望んでいる事柄を保証し、まだ見ぬ事実を確証するもの」という御言葉がこれを裏付ける。アブラハムが自分には子どもを得る望みなど全くない状況でも、神の言葉、神の真実な約束を信頼し、「未来を今日に取り込み」生き抜いたゆえに、神はその信仰を「義」と見なされたのだ(創世記15章6節)。

このように張ダビデ牧師は、ガラテヤ書の中心テーマである「律法ではなく約束、行いではなく恵み、その恵みを信仰によって受けることこそ救いの道」という点を明確に示している。アブラハムもそうであったし、モーセと律法が存在する以前から、神はすでに全人類に拡大される救いの約束を用意しておられた。その約束は後にイエス・キリストを通して成就し、ユダヤ人と異邦人の区別なくすべての人が神の子どもとなる道が開かれたのだとパウロは宣言する。張ダビデ牧師は、このパウロの宣言をガラテヤ書3章28~29節で確認できると述べる。「もしあなたがたがキリストのものなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人です」というこの宣言は、仕切りの壁を打ち壊し、ユダヤ人とギリシア人を一つに束ねる福音の力動性を象徴していると解釈する。

さらに救いは個人的次元を超えて、すべての被造物が回復される宇宙的次元まで含むという点も強調される。ローマ書8章が語るように、被造物は神の子たちが栄光に至るその日を待ち望んでいる(ローマ8章19節)。個人が罪から自由になり、義とされる焦点が1~7章にあるとすれば、ローマ書8章は救いが個人を超えて被造物全体をも含み、ともに喜びながら贖いにあずかる「宇宙的救い」であることを示す。ガラテヤ書も最後の6章で御霊(聖霊)の役割を強調して結ばれており、これがローマ書8章と酷似しているというのだ。最終的には聖霊によって罪を抑制し(律法が指摘する罪を自覚し)、義なる者としての新しい生を生き、最終的に全被造物が神を賛美するその日にともに参加することが救いの完成である。

張ダビデ牧師は、このように救済論の二つの中心軸(個人的救いと宇宙的救い)を対比的に考察しつつ、個人の悔い改めと信仰を強調するのはもちろん、被造世界全体が新しい創造へと入る福音のスケールを見失わないようにと勧める。律法が単に罪を抑制し、罪を罪として認識させる機能を果たすに過ぎないとすれば、福音は罪を取り除き、罪人を義と認め、罪と死で苦しんでいたすべての被造物を含め、新しい天と新しい地を仰がせる。ゆえに、救いを行いによって説明しようとする試みは、本質的に福音のスケールを縮小し、イエス・キリストが血を流された十字架を隠してしまう不幸をもたらすと述べるのである。パウロがガラテヤの諸教会で激しく「もし割礼を受けなければ救われないと主張するならば、キリストの十字架は虚しいものになる」と宣言した背景には、まさにこれがある。

結論として、小主題1は「救済論の本質と約束の重要性」と要約できる。張ダビデ牧師は、ガラテヤ書とローマ書をあわせて黙想しつつ、人間が罪からいかにして自由とされ、神の御前に義と認められ、さらに聖霊による真の聖化と究極的な栄化に至りうるか、そしてそれが単なる個人的救いにとどまらず全宇宙の回復にまで及ぶということを明確に示す。そのすべての過程の出発点は「神の約束」を拠り所とし、信仰によってキリストの恵みを受け入れることにある。これはアブラハムの例を通して既に確証されている事実でもある。

張ダビデ牧師は、ガラテヤ書3章でパウロが「約束が先にあり、律法は後にできた」という事実を歴史的証拠をもって説得力をもって提示している点を強調する。パウロが例に挙げた人物はアブラハムだが、アブラハムに与えられた神の約束は創世記12章(召し出し)と15章(契約締結)で確認できる。そして創世記17章に登場する割礼や、出エジプト後のシナイ山で与えられた律法は、アブラハムとの契約のはるか後のことである。パウロはこれを指して「約束は律法より430年先立っていた」とまとめる(ガラテヤ3章17節)。

この事実はすなわち「アブラハムが義とされた理由」が、律法や割礼をよく守ったからではないことを意味している。張ダビデ牧師は、創世記15章6節「アブラムは主を信じた。それが彼の義と認められた」という御言葉にとりわけ注目する。ここで初めて「信仰」と「義」が同時に言及されるが、アブラハムは子どもがおらず失望していた状況下でも、「あなたの身から生まれる者があなたの跡を継ぐ」という神の約束を疑わずに受け入れた。信仰とは「理解できる現在の証拠」ではなく、「見えない未来の実体」をつかむ姿勢であり、神が提示された契約の中に自分を完全に委ねることである。

ところが、ガラテヤ地方の教会に入り込んだ偽教師たち、いわゆるユダヤ主義的キリスト者は、「異邦人も真の救いを受けるには律法を守り、割礼も受けなければならない」と主張していた。ガラテヤ書全体の文脈は、パウロがこの主張を反駁することに多くを費やしている。張ダビデ牧師はこれを指して「救いの方法論」に関する極めて本質的な論争だと解説する。救いは「ただ信仰による」というパウロの教えと、「少しでも人間の行い(律法遵守)が加わるべきだ」という主張との衝突だったのである。

パウロは、ガラテヤ書3章16節で「約束は『子孫たち(複数)』と言わず、『子孫(単数)』と言った。その方こそキリストである」と明確に言及する。これはアブラハムとの契約が、単に血統上の子孫一人を指すのではなく、究極的には来るべきメシアであるイエス・キリストによって諸国民が祝福されるという意味であることを示している。したがって約束は特定の民族だけに限定されるものではなく、イエス・キリストを信じるすべての異邦人もまたアブラハムの子孫となり得る、という結論に至る(ガラテヤ3章29節)。張ダビデ牧師は、このパウロの主張を「二つの大河が合流する事件」にたとえる。ユダヤ人と異邦人を隔てていた壁を打ち砕く福音の力が、ここに秘められているからだ。

では、律法はなぜ与えられたのか。ガラテヤ書3章19節でパウロは「違反が増すために付け加えられた」と述べる。律法は罪を抑止し、罪が罪であると気づかせる役割を担う(ローマ3章20節)。張ダビデ牧師は、律法の機能を「私たちを学校まで導く家庭教師(パイダゴーゴス)」にたとえたガラテヤ書3章24~25節の言葉に言及する。律法が指摘するのは罪であり、その罪を悟ることで、最終的に人間は恵みを求め、イエス・キリストにすがるように導かれる。律法自体が誤りなのではなく、律法には限界があり、それ自体に永遠のいのちを与える決定的な力はないという点に注目すべきなのだ。

張ダビデ牧師は、律法の時代と約束(福音)の時代の関係を説明しつつ、「パウロが律法を無意味だと言っているわけでは決してない。ただ、律法には私たちを義とする能力がなく、私たちの罪を浮き彫りにし、罪責感を刻みつけ、最終的にキリストを求めるように導く道具としての役割がある」とまとめる。実際、パウロ自身がローマ書7章で「自分がどれほどの罪人であるかをいっそう深く知ることになったのは、律法によってである」と告白しているのを見ても、律法が罪を罪として明確に示す「告発者」の役割を果たすことは明らかだ。

しかし救いは結局「約束」に始まり、「信仰」によって成就する。ガラテヤ書3章22節が語るように、すべての人は律法の下で罪人であることが明らかにされるが、イエス・キリストを信じることによって与えられる義を自分のものとすることができるのだ。家庭教師(律法)の役割が終わり、信仰が到来するとき、私たちは子どもの身分に入る。奴隷の身分を脱し、「神の子ども」となる権威が与えられる(ガラテヤ3章26節)。まさにこの点で、律法よりはるかに重要で根本的なのが「神の約束」であると、張ダビデ牧師は強調する。

また張ダビデ牧師は「律法によって救いを得る」という見解がなぜ危険なのかを語り、それが「十字架の恵みを隠し、ぼやけさせてしまう」ことにつながると説明する。割礼を強調し、旧約の規定を破った者には救いがないと言い始めれば、結局そのすべての焦点が「イエスの功績」ではなく、「人間の実行力」に移りやすい。これは宗教改革当時、カトリック教会の伝統と典礼を通じた救済観を批判し、プロテスタントが「ただ信仰、ただ恵み、ただ聖書」と叫んだ歴史的文脈と正確に重なる。イエスが私たちの罪を背負い、十字架にかかり、血を流された出来事こそが救いの唯一にして十分な根拠であることを見失うならば、人は結局救いの確信を得られず、自らを絶えず縛りつける律法的「行為宗教」に陥ってしまうというのだ。

結局、小主題2では「律法と約束の関係、そしてなぜ約束(信仰)が救いの唯一の道なのか」が核心となる。パウロはガラテヤ書3章の論理展開を通じ、1) 律法が430年後に与えられたという歴史的事実、2) アブラハムが信仰によって義と認められた手本、3) 律法ができることとできないこと、4) イエス・キリストが約束の「子孫(単数)」であるという真理を説いている。これを現代の教会に適用すれば、礼拝・伝統・規定などは救いのために必ず備えなければならない必須条件というより、救いを得た民が感謝と従順をもって守る秩序であり、真の救いは「神の契約と、その契約を信仰によって受け入れること」にかかっていると言えるだろう。

張ダビデ牧師は、ガラテヤ書3章において義とされた信徒が、どのように実生活で聖なる歩みを成し遂げるか、すなわち「聖化の過程」をローマ書6~7章、そして8章と結びつけて説明する。義と認められたというのは、身分の変化(称義、change of status)であり、続く聖化(sanctification)は状態の変化(change of state)だというのである。救われた信徒は、罪の赦しを受けただけではなく、キリストの御霊を受けて新しい衣を着るべきである。ガラテヤ書3章27節の「キリストと結ばれてバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのです」という御言葉が、それを象徴的に示している。パウロが「衣を着る」という表現を好んで使う理由は、私たちの「行い」がまるで衣のように外側に表れるからである(黙示録19章8節「この亜麻布は聖徒たちの正しい行いである」)。

しかし人間の本性は依然として罪性を帯びており、「以前の習慣」に戻ろうとする傾向が強い。律法的アプローチでは、この罪性を根本的に変えることはできない。なぜなら、律法は罪を悟らせるだけであって、罪をなくしたり、罪の根を取り除いたりすることはできないからである。したがってパウロはガラテヤ書5~6章で「御霊に従う生き方」を強調する。ローマ書8章でも同じく、御霊の力によって罪の体に打ち勝ち、神の子どもとして自由へと導かれる過程を紹介している。

張ダビデ牧師は、この点において聖霊の助けこそが律法にはない強力な解放の力だと主張する。律法は正しい行いが何かを指し示すだけだが、聖霊は信徒を内面から新たに生まれ変わらせ、自発的に善を行い悪を避けるよう導くからである。イエスが「敵を愛しなさい」(マタイ5章44節)と言われたとき、律法的な考え方では「目には目を、歯には歯を」が当然なので、敵を愛するなど不可能に近い。しかし聖霊が私たちの心を変えてくださるとき、罪人である自分を生かしてくださった十字架の愛を思い起こして、敵までも愛することができる「新しい本性」が成長していく。

張ダビデ牧師は、聖化を単なる「人間的修養」や「道徳的修練」として理解してはならないと言う。聖化は本質的に聖霊が主導される内面的変革であり、その変化が自然に生活の実として現れる。これは究極的には私たちがキリストのうちにあって神の子というアイデンティティを得たからこそ可能となることだ。ガラテヤ書3章28節「もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたは皆キリスト・イエスにあって一つだからです」という宣言は、まさに「アイデンティティの変化」を示している。宗教的区分、民族的区別、性別や社会的身分を超越して、キリストにあって神の子どもとなったことを告げ知らせる。私たちにはもはや「奴隷の身分」ではなく、「子どもの身分」が与えられ、この確固とした身分がもたらす自由と喜びこそ福音の力なのだ。

さらに張ダビデ牧師は、ガラテヤ書の結論部(5~6章)とローマ書8章が聖霊の役割を強調して締めくくられている点に注目する。律法の下では決して善人になれない人間が、聖霊の力のうちにあって「永遠のいのち」を見つめながら、実際に変えられていく。ローマ書8章19節以下で、被造物さえも神の子どもたちが現れるのを待ち望み、救いの完成にあずかろうとしていると語るように、福音は私一人の救いにとどまらず、宇宙的回復へと拡張していく。「天と地にあるすべてのものが主を賛美する日」(黙示録4章)へと至ることこそ、聖書が約束する救いなのである。

結局、これは終末論とも結びつくが、張ダビデ牧師は救いが単に「死んで天国に行くこと」だけではなく、現在この地上で聖霊のうちに経験する漸進的かつ確かな変化であり、最終的には世界のすべての被造物の回復と賛美までを包含する完全な救いであることを繰り返し説き明かす。だからこそ、律法の呪いの下で不安に駆られながら行いによって救いを成し遂げようとするのではなく、既に私たちに与えられている神の約束とキリストの十字架の贖いを確信し、聖霊とともに歩む生き方を選ぶように勧める。

張ダビデ牧師は、こうした教えを通して、ガラテヤ書3章が「義とされた者は神の子ども」であるというアイデンティティに基づき、いかにして聖なる生を具体化できるかを示していると語る。「もしイエスと連合してバプテスマを受けたなら、すでにイエスの衣を着ているのと同じだ。その衣を汚さないように、日々洗いなさい。それはあなたの行いと深く関係しており、聖霊が助けてくださる力によって行いも新たにされるのだ」というメッセージが、ガラテヤ書とローマ書、そして聖書全体を貫いているというのである。この世の罪と悪に打ち勝つことのできる道は、ただ聖霊の力によるのであり、信仰をもって進むべきだという点が結論として提示されるのだ。

結局、小主題3で扱われる核心要点は「聖霊による自由と共同体の回復」である。義とされた私たちはもはや家庭教師としての律法に縛られず、聖霊の導きの中で自由と愛、聖なる道を歩むことができる。張ダビデ牧師はこれを「子どもの特権」と呼び、子どもは父の家で大胆に生きる存在であるように、信仰によって義とされた信徒は神の御前に堂々と進み出て隣人に仕える使命を担うことができると教える。律法主義が生み出す分裂や排除、断罪の文化を越え、キリストにあって一つになった民が互いに愛し、仕え合い、究極的にはすべての被造物の回復に参与するビジョンを味わうのである。それは単なる理想論ではなく、主がすでに十字架によって保証された「約束」であり、聖霊が私たちのうちに働かれることによって実現されていく「救い」の現実そのものだと、張ダビデ牧師は改めて強調している。

The Path of Salvation Reborn by Grace – Pastor David Jang

Pastor David Jang systematically teaches how the core of the Christian faith, namely the “doctrine of salvation,” is connected to “God’s promise” by examining Galatians in parallel with Romans. Salvation is regarded as the heart of Christian theology because it directly deals with how human beings, upon facing death, can avoid God’s judgment and attain eternal life. According to Pastor David Jang, when analyzing Paul’s argument in Galatians 3, observing it alongside the overall structure of Romans makes Paul’s flow of thought even clearer. Since Romans has 16 chapters, one may split it into chapters 1–8 and 9–16. Furthermore, chapters 1–8 can be divided into three parts: chapters 1–4 address “justification,” chapters 5–7 address “sanctification,” and chapter 8 addresses “glorification.” Galatians, similarly, deals at the outset with how a sinner is justified, then proceeds to the path of sanctification, and finally speaks of the path to ultimate completion, displaying a structural parallel to Romans.

In particular, Pastor David Jang points out that Galatians follows the same progressive flow of justification–sanctification–glorification as Romans does. While Romans up to chapter 4 emphasizes that human beings, who are sinners, can be justified “by faith,” the early portion of Galatians demonstrates this same logic. In other words, the solution to how humans can be freed from sin and counted righteous is “through the grace of Christ.” In Galatians, Paul proclaims that Christ has fulfilled all the demands of the law and paid the penalty for sin on the cross, thereby saving us.

Consequently, Pastor David Jang underlines that we are justified only by faith—indeed, only by grace. In this context, the Reformation slogans “by faith alone, by grace alone, by Scripture alone” are once again highlighted. While the Catholic Church presented church rites and traditions as conditions for salvation, Protestantism clung to the truth of salvation “by faith alone.” Pastor David Jang explains that if notions such as “you must keep the law to be saved” infiltrate our belief, the merit of the cross is weakened and human works take center stage, thereby distorting the true nature of salvation.

Before delving into a full exposition of Galatians 3, Pastor David Jang first identifies three core theological concepts regarding humanity’s path to salvation: 1) Christology, 2) Soteriology, and 3) Eschatology. Among these, he emphasizes that Soteriology—which asks “how can humans avoid judgment and attain eternal life after death?”—is the most crucial. By citing Hebrews 9:27—“And just as it is appointed for man to die once, and after that comes judgment”—he shows that no one can avoid the judgment that follows death. Ever since mankind was expelled from Eden, the way to regain the “promised land (the heavenly city)” is precisely the path of salvation, and Pastor David Jang declares that this path depends not on law-keeping but solely on “faith” that trusts in Christ’s grace.

When Galatians 3 takes up the issue of the law and promise, Paul first points to the example of “how Abraham was reckoned righteous.” The law was given through Moses at Mount Sinai after the Exodus, but Abraham received God’s promise 430 years earlier. Likewise, circumcision is introduced in Genesis 17, whereas the initial promise to Abraham (Genesis 15) comes before that. Accordingly, Pastor David Jang repeatedly highlights Paul’s argument: the genuine way to be justified lies in “God’s gracious promise that existed before the law,” not in the systems of the law or circumcision that arose later. This clearly reveals the foundational idea that salvation is not from works but from “accepting God’s promise by faith.”

Looking at Galatians 3:15–29, Paul declares, “The promise came first, and the law came later.” When God made a covenant with Abraham, He employed the ancient Near Eastern covenant ritual of passing between the pieces of torn flesh (Genesis 15), which is equivalent to God’s unbreakable oath. Hebrews 6:13–19 likewise emphasizes how God swore by Himself when He made His promise to Abraham. Interpreting this passage, Pastor David Jang observes that faith is not mere mental assent but “believing in”—that is, seeing oneself already included within that future promise. Hebrews 11:1—“Now faith is the assurance of things hoped for, the conviction of things not seen”—supports this point. Even though Abraham had no realistic chance of having a child, he trusted in God’s word and God’s faithfulness, effectively “bringing the future into today,” for which God counted his faith as righteousness (Genesis 15:6).

Thus, Pastor David Jang elucidates the main theme of Galatians: “not the law, but the promise; not works, but grace; and receiving that grace by faith is the only way to salvation.” This was true for Abraham. Even before Moses and the law, God had already prepared a promise of salvation that would extend to all humanity. Once that promise was fulfilled in Jesus Christ, both Jews and Gentiles alike were welcomed to become God’s children—a point that Paul announces. According to Pastor David Jang, Paul’s proclamation can be seen in Galatians 3:28–29: “If you belong to Christ, then you are Abraham’s offspring, heirs according to promise.” He interprets this as symbolizing the gospel’s dynamic energy that breaks the dividing wall and unites Jews and Greeks as one.

Furthermore, salvation expands beyond the individual level to include the universal restoration of creation. Romans 8 demonstrates that all creation waits with eager longing for the day when the children of God will be revealed in glory (Rom 8:19). While chapters 1–7 of Romans focus on how an individual is liberated from sin and justified, chapter 8 teaches that salvation is “cosmic” in scope, wherein all creation rejoices together. Galatians, too, closes in chapter 6 by emphasizing the role of the Holy Spirit, echoing Romans 8. Ultimately, through the Holy Spirit, believers can restrain sin (which the law exposes) and live as those declared righteous, eventually participating in the final day when all creation worships God—this is the completion of salvation.

Pastor David Jang contrasts these two pillars of soteriology—personal salvation and cosmic salvation—urging believers to emphasize personal repentance and faith while also remembering the grandeur of the gospel that leads to a “new creation” of all things. If the law merely restrains sin and reveals it, the gospel removes sin, justifies sinners, and encompasses the entire creation that has suffered under sin and death, setting its sights on the new heavens and the new earth. For this reason, efforts to explain salvation by human works fundamentally diminish the gospel’s scope and obscure the blood-stained cross of Jesus Christ. This aligns precisely with Paul’s fierce warning to the Galatians: “If you say one must be circumcised to be saved, then Christ’s cross is in vain.”

In conclusion, Subtopic 1 can be summarized as “the essence of salvation and the importance of the promise.” Reflecting on Galatians and Romans, Pastor David Jang clarifies how humanity, trapped in sin, can be freed and declared righteous before God, progress toward genuine sanctification by the Holy Spirit, and ultimately reach glorification, all culminating in the restoration of the universe, not merely individual salvation. At every stage, the starting point is to trust in God’s promise and receive Christ’s grace by faith, a fact already confirmed by Abraham’s example.

Pastor David Jang stresses that Galatians 3 demonstrates through historical examples how Paul persuasively shows “the promise came first, and the law arose later.” The figure chosen is Abraham. God’s promise to Abraham is found in Genesis 12 (his calling) and Genesis 15 (the making of the covenant). The circumcision scene in Genesis 17 and the law given at Mount Sinai after the Exodus occur significantly later. Paul captures this point by noting that “the law, which came 430 years afterward, does not annul a covenant previously ratified by God” (Gal 3:17).

This observation proves that Abraham was not counted righteous for meticulously keeping the law or circumcision. Pastor David Jang pays special attention to Genesis 15:6: “And he believed the Lord, and he counted it to him as righteousness.” This verse first brings together “faith” and “righteousness.” Even while despairing over his lack of offspring, Abraham embraced God’s promise (“He who shall come from your own body shall be your heir”) without doubting. Faith is not “a tangible, current proof we can rationally grasp” but “the posture of seizing an unseen future reality,” committing oneself entirely to the covenant God established.

However, in the Galatian churches, certain false teachers—Judaizers—insisted, “Gentiles also must keep the law and undergo circumcision if they truly wish to be saved.” The overall context of Galatians is largely Paul’s rebuttal of this claim. Pastor David Jang explains that this was a fundamental dispute concerning the “method of salvation.” It was a clash between Paul’s teaching that salvation comes “by faith alone” and the assertion that at least a measure of human works (law-keeping) must be included.

In Galatians 3:16, Paul unequivocally declares, “The promises were made to Abraham and to his offspring (singular), not ‘offsprings’ (plural). That offspring is Christ.” He thus makes it clear that Abraham’s covenant refers not just to one blood-related heir but that, ultimately, through the Messiah Jesus Christ, all nations would be blessed. Hence, the promise is not the privilege of a single people group; every Gentile who believes in Jesus Christ can likewise become Abraham’s descendant (Gal 3:29). Pastor David Jang likens Paul’s statement to “two rivers merging into one,” for it expresses the gospel’s power in tearing down the barrier between Jew and Gentile.

Why, then, was the law given? Galatians 3:19 says it was “added because of transgressions.” The law restrains wrongdoing and teaches that sin is indeed sin (Rom 3:20). Pastor David Jang recalls the “guardian/tutor” analogy in Galatians 3:24–25, comparing the law to a paidagōgos who escorts a child to school. The law identifies our sin and helps us acknowledge it, ultimately directing us toward grace and to Jesus Christ. The law itself is not flawed; rather, it is a limited instrument, lacking any decisive power to grant eternal life.

Pastor David Jang elucidates the interplay between the era of law and the era of promise (the gospel), saying, “Paul does not dismiss the law as irrelevant. Rather, the law cannot make us righteous but makes us aware of our sin, imprints guilt, and eventually functions as a tool that drives us to Christ.” Indeed, Paul confesses in Romans 7 that he came to grasp his sinfulness more deeply through the law, confirming the law’s role as an accuser that plainly reveals sin.

Yet salvation is ultimately rooted in “promise” and fulfilled through “faith.” As Galatians 3:22 explains, although the law exposes everyone as a sinner, righteousness is given through faith in Jesus Christ. Once we move beyond the guardian function of the law and faith has come, we enter the status of children of God. We are no longer slaves; we are endowed with the privilege of becoming God’s children (Gal 3:26). For this reason, Pastor David Jang keeps underscoring the primacy of “God’s promise” over the law.

Pastor David Jang also explains why the stance that “salvation comes through the law” is so dangerous—namely, because it “overshadows and blurs the grace of the cross.” If one begins placing weight on circumcision or declaring that any breach of Old Testament ordinances nullifies salvation, the focal point shifts from “Christ’s merit” to “human achievement.” This resonates exactly with the historical backdrop of the Reformation, when Protestants cried “by faith alone, by grace alone, by Scripture alone” as they criticized the Catholic emphasis on salvation by its traditions and ceremonies. Losing sight of the fact that Jesus bore our sins on the cross and shed His blood as the complete and sufficient basis for salvation leaves believers lacking assurance, ultimately sliding into the perpetual bondage of a “works-based religion.”

Hence, Subtopic 2 centers on “the relationship between law and promise, and why promise (faith) is the sole path to salvation.” Through Galatians 3, Paul lays out 1) the historical fact that the law arrived 430 years afterward, 2) Abraham’s example of being reckoned righteous by faith, 3) what the law can and cannot do, and 4) the truth that Jesus Christ is the singular “offspring” of the promise. Applied to today’s church, rituals, traditions, and regulations are not essential prerequisites for salvation. Rather, they are the orderly expressions of gratitude and obedience shown by those who are already saved. True salvation fundamentally hinges on “God’s covenant and our faith-acceptance of that covenant.”

Next, in Galatians 3, Pastor David Jang connects the question of how a justified believer actually walks in holiness—in other words, the process of sanctification—with Romans 6–7 and 8. Being justified means one’s status changes (justification), whereas sanctification is a transformation of one’s condition (sanctification). Not only has the believer, once saved, received forgiveness of sins, but they also receive the Spirit of Christ and must now “put on” Christ as if wearing new garments. Galatians 3:27 declares, “For as many of you as were baptized into Christ have put on Christ,” symbolizing this truth. Paul often uses “put on” language because our “conduct” is visible externally, much like clothing (Revelation 19:8, “the fine linen is the righteous deeds of the saints”).

However, because human nature still retains sinful tendencies, there is always a pull to return to “old habits.” A legalistic approach cannot fundamentally eliminate this sinfulness, for the law may expose sin but cannot erase or uproot it. That is why Paul emphasizes “life by the Spirit” in Galatians 5–6. Romans 8 likewise highlights that through the power of the Holy Spirit, we conquer the sinful body and gain true freedom as God’s children.

In this respect, Pastor David Jang insists that the Holy Spirit’s help is the powerful freedom that the law cannot provide. The law shows what is right, but the Holy Spirit renews us from within so that we willingly practice good and renounce evil. When Jesus says, “Love your enemies” (Matt 5:44), a legalistic mindset would maintain, “eye for eye, tooth for tooth,” making it nearly impossible to love one’s enemies. But when the Holy Spirit transforms our hearts, we recall the love of the cross that saved sinners like ourselves, allowing a “new nature” to flourish, even extending love to our enemies.

Pastor David Jang warns that sanctification should not be reduced to mere “human self-improvement” or “moral training.” Rather, sanctification is fundamentally an inner transformation led by the Holy Spirit, which naturally yields visible fruit in one’s life. This becomes feasible because we possess a new identity in Christ as children of God. Galatians 3:28 proclaims, “There is neither Jew nor Greek, there is neither slave nor free, there is no male and female, for you are all one in Christ Jesus,” revealing this “new identity.” Religious, ethnic, gender, or social distinctions are transcended, for we have become God’s children in Christ. We are no longer “slaves” but “sons,” and Pastor David Jang points out that this sure identity is precisely what sets us free and fills us with the joy of the gospel.

Moreover, Pastor David Jang highlights how Galatians ends (chapters 5–6) and Romans 8 likewise concludes by underscoring the Holy Spirit’s role. Under the law, humans can never become truly righteous; under the Spirit’s power, however, we begin to anticipate and experience “eternal life.” Romans 8:19 indicates that even creation waits eagerly for the unveiling of God’s children and the completion of salvation. As the gospel broadens beyond the salvation of a single individual, all of creation is drawn into restoration. Finally, “everything in heaven and on earth praises the Lord” (Revelation 4), fulfilling what Scripture promises about salvation.

Ultimately, this leads to eschatology. Pastor David Jang underscores again and again that salvation is not solely “going to heaven after we die”; rather, we progressively and certainly experience transformation on earth through the Holy Spirit, culminating in the restoration and rejoicing of all creation. Therefore, instead of laboring anxiously under the curse of the law through human effort, we should place our assurance in God’s promise and Christ’s redemptive cross, walking in step with the Holy Spirit.

Through this teaching, Pastor David Jang explains that Galatians 3 concretely illustrates how those who have been justified can live a holy life rooted in their identity as God’s children. “If you have been united with Jesus in baptism, you have already put on Christ as you would put on new garments. Don’t defile these garments; wash them daily. This pertains to your conduct, so let the Holy Spirit help you renew your behavior.” According to Pastor David Jang, this message resonates across Galatians, Romans, and indeed the entire Bible. The only way to overcome the sin and evil of this world is the Spirit’s power, and we must remember to press on in faith.

In conclusion, Subtopic 3 focuses on “the freedom through the Holy Spirit and the restoration of community.” Having been justified, we are no longer under the “guardian” of the law; rather, in the Holy Spirit we enter freedom, love, and holiness. Pastor David Jang calls this “the privilege of a son,” for just as a son freely lives in his father’s household, so a believer justified by faith can boldly approach God and serve others. Surpassing the divisions, exclusions, and condemnation that legalism fosters, the people united in Christ live in mutual love and service, ultimately participating in the redemption of all creation. Pastor David Jang reiterates that this is not mere idealism but the “promise” guaranteed by the cross and the “salvation” that the Holy Spirit is already unfolding among us.

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Le chemin du salut qui renaît par la grâce – Pasteur David Jang

Le pasteur David Jang étudie simultanément l’Épître aux Galates et l’Épître aux Romains, montrant de manière méthodique comment le « soteriologie » (doctrine du salut) et la « promesse de Dieu » sont étroitement liés, au cœur de la foi chrétienne. La doctrine du salut est considérée comme l’élément central de la théologie chrétienne, car elle est directement reliée à la question cruciale de savoir comment l’homme peut échapper au jugement de Dieu après la mort et obtenir la vie éternelle. Selon le pasteur David Jang, si l’on analyse le raisonnement de Paul dans Galates 3 en parallèle avec la structure de l’Épître aux Romains, l’enchaînement des idées devient encore plus clair. L’Épître aux Romains est composée de 16 chapitres que l’on peut diviser en deux grandes sections : chapitres 1 à 8 et chapitres 9 à 16. Les chapitres 1 à 8 se subdivisent en trois parties : les chapitres 1 à 4 traitent de la « justification » (의인, justification), les chapitres 5 à 7 de la « sanctification » (성화, sanctification) et le chapitre 8 de la « glorification » (영화, glorification). De même, l’Épître aux Galates présente une structure similaire : elle aborde d’abord la question de la justification du pécheur, puis le chemin de la sanctification, et enfin la voie de l’accomplissement ultime.

En particulier, le pasteur David Jang souligne que, tout comme l’Épître aux Romains, l’Épître aux Galates suit un mouvement progressif justification–sanctification–glorification. En Romains, jusqu’au chapitre 4, Paul met l’accent sur le fait que le pécheur obtient la justice (ou la justification) par la foi. Le début de Galates présente exactement le même raisonnement. Autrement dit, la réponse à la question « comment l’homme peut-il être délivré du péché et devenir juste ? » est la suivante : « c’est par la grâce de Christ ». Dans l’Épître aux Galates, Paul proclame que le Christ a accompli toutes les exigences de la Loi et qu’il a payé la dette du péché sur la croix pour nous sauver.

Finalement, le pasteur David Jang insiste sur le fait que nous obtenons la justice uniquement par la foi, c’est-à-dire par la seule grâce. Dans ce contexte, il rappelle le slogan de la Réforme protestante : « Sola fide, Sola gratia, Sola Scriptura » – « La foi seule, la grâce seule, l’Écriture seule ». Alors que l’Église catholique considérait les rites et la tradition de l’Église comme des conditions de salut, le protestantisme a tenu fermement au principe du « salut par la foi seule ». Selon l’explication du pasteur David Jang, si l’on introduit une idée telle que « il faut accomplir la Loi pour être sauvé », alors le mérite de la croix s’en trouve obscurci, et les œuvres de l’homme sont mises en avant, ce qui altère la nature même du salut.

Avant de proposer son commentaire détaillé sur Galates 3, le pasteur David Jang identifie trois concepts théologiques essentiels pour comprendre le processus du salut : 1) la christologie (Christology), 2) la sotériologie (Soteriology) et 3) l’eschatologie (Eschatology). Parmi ces trois, la sotériologie, qui porte sur « comment l’homme peut échapper au jugement après la mort et obtenir la vie éternelle », est la plus cruciale. En se référant à Hébreux 9.27, « Il est réservé aux hommes de mourir une seule fois, après quoi vient le jugement », il souligne que le jugement est inéluctable pour tous. Depuis que l’humanité a été chassée du jardin d’Éden, le véritable enjeu est de retrouver la « terre promise » (la cité céleste) perdue. Ce chemin de salut n’est pas fondé sur des œuvres légales, mais repose uniquement sur la foi placée dans la grâce du Christ, affirme le pasteur David Jang.

Lorsque Galates 3 traite de la question de la Loi et de la Promesse, Paul prend l’exemple d’Abraham pour illustrer « comment cet homme a été déclaré juste ». La Loi fut transmise à Moïse au Sinaï après la sortie d’Égypte, alors qu’Abraham avait reçu la promesse de Dieu 430 ans plus tôt. De plus, la circoncision mentionnée dans Genèse 17 intervient après l’alliance originelle de Genèse 15. L’apôtre Paul souligne donc que la promesse faite à Abraham précède non seulement la Loi mais aussi la circoncision. Le pasteur David Jang insiste à nouveau sur la logique de Paul : la véritable justification provient de la « promesse de grâce » antérieure à la Loi, et non de la Loi ou de la circoncision, institutions apparues plus tard. C’est là l’expression de la doctrine fondamentale selon laquelle le salut ne dépend pas des œuvres, mais découle de l’acceptation par la foi de la promesse de Dieu.

Aux versets 15 à 29 de Galates 3, Paul déclare que « la Promesse est venue d’abord, puis la Loi ensuite ». En concluant une alliance directe avec Abraham, Dieu a utilisé la forme rituelle de l’alliance de sang en passant entre les animaux coupés en deux (Genèse 15). Cela représente un serment inviolable de la part de Dieu. Hébreux 6.13-19 souligne également que Dieu a promis par lui-même et fait un serment à Abraham. Dans son commentaire, le pasteur David Jang explique que la foi ne se limite pas à un simple assentiment intellectuel, mais suppose un « croire en » (believe in), signifiant que l’on s’inscrit déjà dans l’accomplissement futur de la promesse de Dieu. Hébreux 11.1 – « La foi est une ferme assurance des choses qu’on espère, une démonstration de celles qu’on ne voit pas » – vient corroborer cette idée. Bien qu’il fût humainement impossible pour Abraham d’avoir une descendance, il a fait confiance à la parole de Dieu et à sa fidélité, et a « fait entrer l’avenir dans son présent ». C’est pourquoi Dieu a estimé sa foi comme justice (Genèse 15.6).

Ainsi, le pasteur David Jang explique avec clarté que le thème central de l’Épître aux Galates est : « Ce n’est pas la Loi, mais la Promesse ; ce ne sont pas les œuvres, mais la grâce reçue par la foi qui constitue le chemin du salut. » Abraham en est l’exemple : avant même l’apparition de Moïse et de la Loi, Dieu avait déjà préparé la promesse de salut pour toute l’humanité. Quand cette promesse s’est accomplie en Jésus-Christ, la voie s’est ouverte à la fois pour les Juifs et pour les païens pour devenir enfants de Dieu. C’est ce que proclame l’apôtre Paul. Selon le pasteur David Jang, on peut voir cette proclamation de Paul dans Galates 3.28-29 : « Si vous appartenez au Christ, vous êtes donc la descendance d’Abraham, héritiers selon la promesse. » Ces versets symbolisent le dynamisme de l’Évangile qui brise tout mur de séparation et unit Juifs et Grecs.

Le salut ne s’arrête toutefois pas à la dimension individuelle : il englobe aussi la restauration de toute la création. Comme le déclare Romains 8, la création entière soupire et attend avec impatience le jour où les fils de Dieu accéderont à la gloire (Rm 8.19). Si l’accent sur la libération du péché et la justification est mis dans les chapitres 1 à 7, le chapitre 8 montre que le salut concerne aussi « toute la création » qui se réjouit et participe à la rédemption. Le dernier chapitre de Galates (chapitre 6) insiste également sur le rôle du Saint-Esprit, tout comme Romains 8. De fait, c’est par l’Esprit que le pécheur peut être retenu de commettre le mal (la Loi lui révélant d’abord le péché), et qu’il peut vivre en tant que juste. Au bout du compte, la création tout entière partagera le jour où elle se joindra à la louange de Dieu – c’est l’accomplissement final du salut.

En confrontant ainsi les deux axes du salut (le salut personnel et le salut cosmique), le pasteur David Jang exhorte à ne pas négliger l’ampleur de l’Évangile, tout en soulignant l’importance de la repentance et de la foi individuelles. Alors que la Loi se contente de contenir le péché et de nous en faire prendre conscience, l’Évangile élimine le péché, justifie le pécheur et fait entrevoir à toute la création soumise à la souffrance du péché et de la mort un nouveau ciel et une nouvelle terre. Ainsi, toute tentative d’expliquer le salut par les œuvres en restreint fondamentalement la portée et finit par reléguer au second plan la croix sanglante de Jésus-Christ. C’est dans ce contexte que Paul, dans l’Épître aux Galates, réagit avec force : « Si vous dites qu’il faut être circoncis pour être sauvé, alors la croix du Christ est rendue vaine. »

En résumé, on peut définir le premier sous-thème comme « l’essence de la doctrine du salut et l’importance de la promesse ». En méditant Galates et Romains, le pasteur David Jang montre clairement comment l’homme est libéré du péché et déclaré juste devant Dieu, comment il progresse ensuite vers la sanctification véritable par le Saint-Esprit et parvient finalement à la glorification, et enfin comment ce salut ne se limite pas à la sphère individuelle mais s’étend à la restauration de l’univers entier. À chaque étape, tout commence en s’appuyant sur la « promesse de Dieu » et en accueillant par la foi la grâce du Christ, comme l’exemple d’Abraham le démontre déjà.

Le pasteur David Jang souligne que, dans Galates 3, Paul explique de manière convaincante, par le biais d’exemples historiques, que « la promesse est venue avant la Loi ». Paul s’appuie sur Abraham : la promesse faite à Abraham par Dieu apparaît dans Genèse 12 (son appel) et dans Genèse 15 (conclusion de l’alliance). La circoncision de Genèse 17 et la Loi transmise à Moïse au Sinaï après l’Exode sont venues bien plus tard. Paul résume cette chronologie en disant : « Il y a 430 ans qu’intervint la promesse » (Ga 3.17).

Cela signifie que « si Abraham a été déclaré juste », ce n’est pas parce qu’il aurait observé la Loi ou la circoncision. Le pasteur David Jang accorde une attention particulière au verset de Genèse 15.6 : « Abram eut confiance en l’Éternel, qui le lui compta comme justice. » C’est la première fois que la « foi » et la « justice » sont associées dans l’Écriture. Alors qu’Abraham était découragé car il n’avait pas d’enfant, il a accepté sans hésiter la promesse de Dieu selon laquelle « celui qui sortira de tes entrailles sera ton héritier ». La foi n’est pas « la preuve démontrable du présent », mais « la réalité de l’avenir invisible », et consiste à confier complètement sa vie à l’alliance que Dieu propose.

Cependant, de faux docteurs – parfois appelés « judaïsants » – s’étaient introduits dans les Églises de la région de Galatie et soutenaient que « même les païens, pour être vraiment sauvés, devaient observer la Loi et recevoir la circoncision ». Dans toute l’Épître aux Galates, Paul s’efforce de réfuter cet enseignement. Le pasteur David Jang qualifie cette controverse de « débat absolument fondamental sur la méthode du salut ». C’était en effet un conflit entre l’affirmation de Paul selon laquelle « le salut vient uniquement de la foi » et la prétention qu’« une part d’obéissance humaine (observation de la Loi) était indispensable ».

Dans Galates 3.16, Paul écrit : « Il n’est pas dit : “et à ses descendants” (au pluriel), mais au singulier : “et à sa descendance”, c’est-à-dire Christ. » L’alliance avec Abraham n’annonçait pas seulement un héritier charnel, mais elle préfigurait avant tout la venue du Messie, Jésus-Christ, par lequel toutes les nations recevraient la bénédiction. Ainsi, la promesse ne se limite pas à une ethnie particulière, et les païens qui croient au Christ deviennent eux aussi la descendance d’Abraham (Ga 3.29). Le pasteur David Jang décrit cette logique de Paul comme « la confluence de deux fleuves » : la puissance de l’Évangile qui abolit le mur de séparation entre Juifs et païens.

Mais alors, pourquoi la Loi ? Galates 3.19 répond : « Elle a été ajoutée à cause des transgressions. » La Loi empêche le péché, ou tout au moins le freine, et nous fait prendre conscience de la gravité du péché (Rm 3.20). Le pasteur David Jang renvoie à l’image du « pédagogue » (ou instituteur des enfants), évoquée au verset 24 de Galates 3 (« Ainsi la Loi a été comme un pédagogue pour nous conduire à Christ »). La Loi dévoile le péché et nous pousse à chercher la grâce et à nous tourner vers Jésus-Christ. Le problème n’est pas la Loi elle-même : elle a une fonction, celle d’un moyen limité, incapable de procurer la vie éternelle. Il est essentiel de reconnaître ses limites.

Le pasteur David Jang explique que, selon Paul, dire que la Loi est sans valeur n’est absolument pas son propos. Simplement, la Loi ne peut nous justifier. Elle révèle notre péché et nous accable de culpabilité, nous incitant finalement à nous réfugier dans le Christ. En Romains 7, Paul confesse lui-même qu’il a compris l’étendue de son péché précisément grâce à la Loi, confirmant ainsi le rôle d’accusateur qu’elle joue.

Le salut, pourtant, puise sa source dans la « promesse » et s’accomplit par la « foi ». Galates 3.22 dit que tout homme est pécheur sous la Loi, mais que la justice est donnée à ceux qui croient en Jésus-Christ. Le « pédagogue » a accompli sa fonction et, une fois la foi venue, nous sommes placés au rang d’enfants de Dieu. Nous ne sommes plus esclaves mais « fils de Dieu » (Ga 3.26). C’est pour cela que le pasteur David Jang répète que la promesse de Dieu est bien plus essentielle et fondamentale que la Loi.

En outre, le pasteur David Jang explique clairement pourquoi la perspective « nous sommes sauvés grâce à la Loi » est dangereuse : elle « voile et obscurcit la grâce de la croix ». Lorsqu’on met l’accent sur la circoncision et qu’on déclare que quiconque transgresse les rites de l’Ancien Testament ne peut être sauvé, on déplace progressivement le centre de gravité du « mérite de Jésus » vers les « réalisations humaines ». C’est exactement ce que les réformateurs ont reproché à l’Église catholique : la tendance à faire reposer le salut sur ses traditions et ses rites. Les protestants ont alors proclamé « la foi seule, la grâce seule, l’Écriture seule ». Quand on perd de vue le fait que le sacrifice sanglant de Jésus sur la croix est l’unique et suffisant fondement du salut, l’homme devient incapable d’avoir l’assurance de son salut et retombe inévitablement dans l’esclavage d’une religion légaliste où il cherche à mériter son salut par ses œuvres.

Ainsi, le deuxième sous-thème s’intéresse principalement à « la relation entre la Loi et la Promesse, et la raison pour laquelle la Promesse (la foi) est l’unique voie du salut ». Dans Galates 3, Paul développe sa pensée en s’appuyant sur quatre points : 1) le fait historique que la Loi a été donnée 430 ans après la promesse, 2) l’exemple d’Abraham justifié par la foi, 3) ce que la Loi peut et ne peut pas faire, et 4) l’affirmation que Jésus-Christ est la descendance (au singulier) annoncée. Aujourd’hui encore, nous pouvons en tirer la leçon suivante : le culte, la tradition et les rites ne sont pas des conditions absolues pour être sauvé. Ils appartiennent plutôt à l’ordre de la reconnaissance et de l’obéissance de la part d’un peuple déjà sauvé. Le salut ne dépend pas de ces pratiques, mais de « l’alliance de Dieu » que nous recevons par la foi.

Le pasteur David Jang aborde ensuite la question de la « sanctification » : comment les croyants justifiés deviennent-ils saints dans leur vie concrète ? Il met en parallèle les chapitres 6-7 de Romains (et le chapitre 8) avec le contenu de Galates 3. La justification (justification) induit un changement de statut, alors que la sanctification (sanctification) est un changement de condition (change of state). Les croyants sauvés reçoivent non seulement le pardon de leurs péchés, mais aussi l’Esprit du Christ, et ils doivent « revêtir un habit nouveau ». Le verset 27 de Galates 3 déclare : « Vous tous qui avez été baptisés en Christ, vous avez revêtu Christ. » Paul aime beaucoup cette métaphore de « revêtir un vêtement » pour évoquer l’idée que notre conduite, comme un vêtement, se voit à l’extérieur (Ap 19.8 : « Le fin lin, ce sont les œuvres justes des saints »).

Cependant, la nature humaine reste marquée par le péché et tend constamment à revenir à ses anciennes habitudes. L’approche légaliste ne peut venir à bout de cette racine profonde du péché, car la Loi ne fait que nous révéler nos fautes sans pouvoir les effacer. C’est pourquoi Paul, dans les chapitres 5 et 6 de Galates, met l’accent sur la « vie selon l’Esprit ». Romains 8 développe la même idée : c’est par la puissance de l’Esprit que nous pouvons vaincre les œuvres de la chair et marcher en liberté en tant qu’enfants de Dieu.

Selon le pasteur David Jang, c’est l’action de l’Esprit qui constitue la force libératrice que la Loi ne peut offrir. Alors que la Loi indique seulement la bonne conduite à adopter, l’Esprit produit en nous une régénération intérieure qui nous pousse à faire le bien spontanément et à fuir le mal. Lorsque Jésus nous commande « d’aimer nos ennemis » (Mt 5.44), la pensée légaliste, fondée sur « œil pour œil, dent pour dent », s’y refuse presque naturellement. Mais si l’Esprit transforme notre cœur, nous nous souvenons de l’amour de la croix qui nous a sauvés en tant que pécheurs, et nous sommes alors capables d’aimer même nos ennemis. C’est la naissance d’une « nouvelle nature ».

Le pasteur David Jang précise que la sanctification n’est pas un simple exercice de développement personnel ou de vertu morale. Elle est essentiellement l’œuvre du Saint-Esprit, qui opère une transformation intérieure, laquelle se manifeste ensuite par des fruits tangibles dans la vie. Ce processus est rendu possible parce que nous sommes devenus « enfants de Dieu » en Jésus-Christ. Galates 3.28 : « Il n’y a plus ni Juif ni Grec, il n’y a plus ni esclave ni libre, il n’y a plus ni homme ni femme : car vous êtes tous un en Jésus-Christ. » Cette parole révèle que notre « identité » est radicalement changée : nous ne sommes plus des esclaves, mais des enfants de Dieu, et la joie et la liberté qui découlent de cette nouvelle position sont la force de l’Évangile.

Le pasteur David Jang remarque aussi que Galates (chapitres 5-6) et Romains 8 se concluent en insistant sur l’œuvre du Saint-Esprit. Alors que sous la Loi l’homme demeure incapable de faire le bien, sous la puissance de l’Esprit, la promesse de « vie éternelle » se concrétise et l’être humain se transforme réellement. Romains 8.19 et les versets suivants décrivent même la création entière aspirant au jour où les enfants de Dieu se manifesteront pour l’accomplissement final du salut. Ainsi, l’Évangile ne se limite pas à « mon » salut individuel, mais s’étend jusqu’à la restauration de l’univers. Apocalypse 4 décrit ce jour où « tout ce qui est au ciel et sur la terre » louera le Seigneur. Telle est la promesse de la Bible concernant le salut.

Ce point rejoint l’eschatologie : le pasteur David Jang souligne que le salut ne consiste pas seulement à « aller au ciel après la mort », mais qu’il se déploie dès à présent sur cette terre, à travers l’expérience progressive et tangible de l’Esprit. À long terme, il englobe la restauration et le chant de louange de toutes les créatures. C’est pourquoi il exhorte à vivre non pas sous « la malédiction de la Loi » et dans l’inquiétude de devoir tout accomplir par ses propres forces, mais dans l’assurance de l’alliance déjà scellée en Jésus-Christ, en marchant avec le Saint-Esprit.

Selon le pasteur David Jang, Galates 3 montre comment « celui qui est justifié est désormais un enfant de Dieu », et comment cela peut se traduire concrètement en une vie sainte. « Si vous avez été baptisés et unis à Jésus, vous êtes déjà revêtus de Christ. Ne souillez pas ce vêtement, mais lavez-le chaque jour. Il s’agit de votre conduite, et l’Esprit est là pour vous aider à la purifier », tel est le message qui parcourt Galates, Romains et l’ensemble de la Bible. La seule puissance capable de vaincre le péché et le mal de ce monde est celle du Saint-Esprit, et c’est vers cette foi qu’il faut tendre.

En conclusion, le troisième sous-thème concerne « la liberté issue de l’Esprit et la restauration de la communauté ». Déclarés justes, nous ne sommes plus sous la tutelle de la Loi en tant que pédagogue, mais nous suivons la direction du Saint-Esprit, dans la liberté, l’amour et la sainteté. Le pasteur David Jang appelle cela « le privilège des fils ». De même qu’un fils vit en pleine confiance dans la maison de son père, le croyant justifié a maintenant l’audace de s’approcher de Dieu et d’assumer la mission de servir son prochain. Au-delà des divisions, de l’exclusion et de la condamnation qu’engendre le légalisme, le peuple réuni en Christ devient un corps uni, qui s’aime et se soutient. Il participe en définitive à la restauration de toute la création. Ce n’est pas une simple utopie, mais la « promesse » déjà garantie par la croix de Jésus, et le Saint-Esprit agit en nous pour réaliser aujourd’hui ce salut. Le pasteur David Jang insiste : c’est la réalité même du salut présent, non une vague espérance, et c’est une invitation à marcher dans la foi en la puissance de l’Esprit.

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Le salut par la foi – Pasteur David Jang


1. La nature de la foi et l’importance du chapitre 3 de l’Épître aux Galates

Comprendre correctement le chapitre 3 de l’Épître aux Galates, c’est obtenir la clé essentielle qui ouvre tout le message de l’épître. L’apôtre Paul y répète en effet quatorze fois le terme “foi” et y expose la relation entre la Loi et la foi, tout en soulignant le caractère universel du salut qui inclut non seulement le peuple d’Israël, mais aussi les païens. Depuis l’époque de la Réforme, l’Épître aux Galates a été qualifiée de “l’Évangile de la liberté”, car elle proclame avec force la liberté, la grâce et la foi. Et au cœur de ce message, on trouve l’enseignement fondamental de Paul développé dans le chapitre 3.

Le pasteur David Jang, qui a prêché l’Évangile pendant des décennies en Corée et dans différentes régions du monde, a sans cesse souligné le message central du chapitre 3 de l’Épître aux Galates face à ceux qui, enfermés dans le légalisme, perdaient de vue la nature véritable du salut. En particulier, il a souvent réaffirmé que « c’est par la foi que nous obtenons le salut », doctrine connue sous le nom de “以信得義”, qui doit occuper la place la plus importante dans l’enseignement chrétien. Cet accent rejoint directement la conclusion du Concile de Jérusalem (Actes 15), où l’Église a officiellement affirmé que « les païens aussi sont sauvés, non par la Loi, mais par la foi ».

En effet, lors de ce Concile de Jérusalem, la vérité confirmée fut que « nous sommes sauvés par la foi ». On réaffirma alors que la Loi ne pouvait délivrer ni du péché ni de la mort. Les judaïsants (ou faux docteurs) prétendaient qu’on ne pouvait être sauvé sans la circoncision et sans l’observance de la Loi, mais les apôtres Pierre, Paul et Jacques déclarèrent que la circoncision ou diverses pratiques rituelles ne pouvaient être des conditions essentielles du salut. « C’est uniquement par la grâce, uniquement par la foi, que nous sommes justifiés » : voilà la pierre angulaire de la sotériologie chrétienne depuis l’Église primitive, et Galates 3 la présente de manière limpide.

Tout au long de son Épître aux Galates, Paul cherche à prouver que l’Évangile qu’il a prêché est authentique et qu’il est en harmonie avec celui des apôtres de Jérusalem. Cet Évangile se résume ainsi : « Nous ne sommes pas sauvés par la Loi, mais par la foi en Jésus-Christ ». Cet enseignement a provoqué la résistance de nombreux faux docteurs d’obédience judaïsante, et c’est particulièrement dans le chapitre 3 que Paul réfute leurs arguments de la manière la plus directe.

Paul constate que ces faux enseignants s’infiltrent dans l’Église pour inciter les croyants à penser : « Même si vous croyez en Jésus, il vous faut observer la Loi et recevoir la circoncision pour parvenir à un salut complet. » Certains fidèles de Galatie, qui avaient d’abord reçu la liberté par la grâce et la foi, se retrouvaient à nouveau prisonniers d’un « formalisme religieux » lié à la Loi. C’est pourquoi Paul les interpelle vigoureusement dès le premier verset du chapitre 3 : « Ô Galates dépourvus de sens! » (Ga 3.1). Alors qu’ils avaient déjà contemplé l’unique chemin du salut dans l’œuvre de la croix du Christ, ils se laissaient détourner par un autre Évangile. Paul les admoneste en disant : « Vous, sous les yeux de qui Jésus-Christ a été peint comme crucifié, qui vous a ensorcelés ? » (cf. Ga 3.1). Cette interpellation reste, encore aujourd’hui, un avertissement solennel pour l’Église.

Le pasteur David Jang, dans de nombreuses prédications, conférences et écrits, souligne que « le point focal du chapitre 3 de l’Épître aux Galates se trouve dans la croix, la résurrection et la certitude du salut obtenu par la foi ». Il répète inlassablement la vérité biblique selon laquelle la Loi sert à révéler le péché et à montrer qu’on ne peut se sauver par ses propres forces, mais que la Loi n’a pas le pouvoir de résoudre le péché. Le « salut » réside dans le fait que Jésus a pris sur Lui, à la croix, toute la malédiction et la dette du péché, mettant ainsi fin au problème du péché mis en évidence par la Loi. Croire en ce message, voilà l’essence même du salut chrétien.

Si le terme “foi” est fréquent dans le langage religieux, Galates 3 en approfondit la définition et la signification. Paul y explique ce qu’est réellement la foi, comment elle opère et pourquoi le salut par la foi est possible, en recourant notamment à l’exemple de l’Ancien Testament (celui d’Abraham). Il y met en lumière les enseignements suivants :

  1. Le salut vient de la grâce de Dieu.
  2. Cette grâce se manifeste de façon décisive à la croix et dans la résurrection de Jésus-Christ.
  3. Il nous suffit de recevoir cette grâce par la foi.

Dans le chapitre 3 de l’Épître aux Galates, Paul expose ce thème de la manière la plus logique et la plus percutante. Pour ne pas perdre le cœur de la doctrine du salut, l’Église se doit de préserver l’enseignement de Galates 3. Le pasteur David Jang remarque qu’aujourd’hui encore, beaucoup de croyants « savent dans leur tête qu’ils sont sauvés par la foi, mais ne l’appliquent pas vraiment dans leur vie quotidienne ». Il exprime sa tristesse face au fait que « les gens restent souvent attachés aux réglementations, aux traditions ecclésiastiques ou aux normes socio-culturelles, et s’auto-condamnent ou condamnent les autres », oubliant ainsi la liberté procurée par la grâce. Il exhorte l’Église à recouvrer dans sa vie communautaire l’« Évangile de la liberté » mis en avant par Paul.

En fin de compte, dans Galates 3, Paul oppose deux pôles majeurs, « la foi » et « la Loi », pour montrer que c’est seulement par la foi que nous sommes justifiés, et il présente ainsi la vérité universelle et ultime du salut. Son ton véhément – « Ô Galates dépourvus de sens! » – n’est pas une simple réprimande, mais une supplication ardente pour qu’ils ne se laissent pas de nouveau asservir par le joug de la Loi. Aujourd’hui, nous devons entendre à nouveau ce cri de l’apôtre et vivre la véritable liberté qui découle de la grâce.


2. La foi d’Abraham, le conflit avec le légalisme et la démonstration de Paul

Dans la première partie du chapitre 3 de l’Épître aux Galates, Paul pose la question suivante : « Avez-vous reçu l’Esprit par les œuvres de la Loi, ou par la prédication de la foi ? » (Ga 3.2). Son objectif est de rappeler aux croyants de Galatie qu’ils ont déjà fait l’expérience du Saint-Esprit. Ceux qui ont reçu l’Esprit de Dieu savent bien que ce n’est ni grâce aux rites ni grâce à la Loi qu’ils ont été sauvés, mais par la foi en l’Évangile de Jésus-Christ. Qu’ils aient fait l’expérience de dons spirituels, de la nouvelle naissance, du parler en langues ou de la prophétie, tout cela ne leur est parvenu qu’en croyant en Jésus-Christ, non en observant la Loi.

Paul va ensuite plus loin en citant la figure la plus illustre de l’Ancien Testament, Abraham (Ga 3.6). Les faux enseignants qui prônaient le légalisme mettaient en avant le patriarche Abraham, en prétendant : « Notre ancêtre Abraham a été déclaré juste parce qu’il a observé la Loi et pratiqué la circoncision. » Or, en réalité, c’est au moment où il a cru en Dieu qu’Abraham fut déclaré juste, avant même l’institution de la circoncision (Gn 15.6). Le pasteur David Jang, dans ses sermons et commentaires bibliques, rappelle souvent que, de Genèse 12 à 17, on voit clairement qu’Abraham est déjà compté comme juste avant de recevoir le signe de la circoncision.

La circoncision n’apparaît qu’au chapitre 17 de la Genèse, alors que la parole de Genèse 15.6 – « Abram eut confiance en l’Éternel, qui le lui imputa à justice » – précède cet acte rituel. Quant à la Loi (le Pentateuque), ses prescriptions détaillées ne furent données que 430 ans plus tard (cf. Ga 3.17). Ainsi, Abraham ne doit pas sa justice à la circoncision ni à la Loi. Il fut déclaré juste parce qu’il crut à la promesse divine : « Va dans un pays que je te montrerai » (Hé 11.8), promesse assortie d’une descendance aussi nombreuse que les étoiles du ciel. Or Abraham partit sans savoir où il allait, s’appuyant sur la Parole de Dieu.

Paul nomme cela « la justice qu’Abraham reçut alors qu’il était incirconcis » (Rm 4.9-10). L’acte de foi précède la circoncision, et celle-ci n’est que le signe extérieur de la justice déjà acquise par la foi. Le chapitre 4 de l’Épître aux Romains présente de nombreux parallèles avec Galates 3 : Paul y célèbre « le bonheur de l’homme à qui Dieu impute la justice sans les œuvres » (Rm 4.6-8, faisant référence aux Psaumes de David), et il conclut que si Abraham a été justifié, c’est exclusivement grâce à sa foi, et non par ses œuvres.

Le pasteur David Jang insiste souvent sur ce lien entre Romains et Galates, soulignant qu’une bonne compréhension du chapitre 3 de Galates aide à saisir plus en profondeur les chapitres 4 et 5 de Romains, et inversement. Tout cela s’appuie sur le verset-clé d’Habacuc 2.4 – « Le juste vivra par sa foi » –, que Paul reprend dans Galates 3.11 et Romains 1.17, et qui sous-tend la doctrine du salut dans tout le Nouveau Testament.

L’idée que les païens reçoivent la même grâce est illustrée par la déclaration de Paul selon laquelle Abraham est devenu « le père de tous ceux qui croient » (Ga 3.7 ; Rm 4.11-12). Aux yeux des Juifs, Abraham était exclusivement le père de leur nation, mais Paul fait éclater ce cadre en indiquant que :

  1. Abraham a été justifié avant d’avoir reçu la Loi ou la circoncision.
  2. Ainsi, la Loi et la circoncision ne sont pas des conditions absolues pour être justifié.
  3. La voie de la justification par la foi, ouverte à Abraham, est donc offerte à tous.
  4. Par conséquent, si les païens croient aussi à l’Évangile de Jésus-Christ, ils sont greffés sur la lignée spirituelle d’Abraham.

Plus loin, dans Galates 3.10-12, Paul va jusqu’à dire : « Tous ceux qui s’attachent aux œuvres de la Loi sont sous la malédiction » (citant Dt 27.26). Car personne n’est capable d’observer la Loi à la perfection (Rm 3.10). En fait, la Loi, au lieu de nous délivrer du péché, ne fait que le révéler davantage et accroître notre culpabilité. Dans 1 Corinthiens 15.56, Paul déclare : « Le aiguillon de la mort, c’est le péché, et la puissance du péché, c’est la Loi », signifiant par là que la Loi, loin de résoudre le problème du péché, en met en évidence les racines. Celui qui cherche la justification par la Loi ne parviendra donc jamais au salut et restera sous la malédiction.

Pourtant, dans Galates 3.13-14, Paul proclame que le Christ nous a libérés de cette malédiction de la Loi en la prenant Lui-même à sa charge : « Christ nous a rachetés de la malédiction de la Loi, étant devenu malédiction pour nous. » En mourant sur la croix, Jésus a même subi la stipulation légale : « celui qui est pendu au bois est maudit » (cf. Dt 21.23). Ainsi, Il nous délivre du péché, de la mort et de la condamnation, et nous accorde la promesse de l’Esprit, à recevoir par la foi. Le pasteur David Jang résume cela en disant : « Puisque toute la dette du péché a été payée à la croix, il ne reste aux croyants qu’à le saisir par la foi. » Devenus justes, nous nous engageons alors sur le chemin de la sanctification, conduits par le Saint-Esprit.

L’enseignement de Galates 3 s’applique aujourd’hui face à tout nouvel élan de légalisme dans l’Église, qui voudrait faire du droit ecclésiastique, des traditions, des formes liturgiques ou de certaines règles éthiques, des conditions indispensables au salut. Le pasteur David Jang et les théologiens qui demeurent dans la tradition orthodoxe ne prônent certes pas l’abandon de la Loi ni le mépris de la morale. Au contraire, le christianisme demande un degré de justice et d’amour supérieur à toute autre religion. Mais la pratique de ces exigences ne peut être un prérequis du salut. Le Christ a déjà accompli le salut ; nous obéissons maintenant à l’Évangile par reconnaissance et, dans la joie, nous pratiquons le bien sous la conduite du Saint-Esprit. C’est ainsi que, bien loin du légalisme, nous accomplissons et réalisons la Loi de Dieu dans une dynamique nouvelle.

Dans Galates 3, Paul déploie donc un argumentation logique et solidement fondée sur l’Écriture pour réfuter entièrement la doctrine du salut par la circoncision et l’observance de la Loi propagée par les faux docteurs. Le point crucial de sa démonstration est : « Même Abraham a été déclaré juste par la foi, non par la Loi ; à plus forte raison, les païens, sans circoncision, peuvent-ils être sauvés par la foi. » En Christ, nous ne faisons qu’un, et tous deviennent la postérité spirituelle d’Abraham.


3. La liberté en Christ, l’œuvre du Saint-Esprit et l’application pour aujourd’hui

Si l’on appelle Galates « l’Évangile de la liberté », ce n’est nullement pour encourager la licence. Il s’agit de la liberté acquise grâce au salut qui nous affranchit du péché et de la mort. Vers la fin du chapitre 3 (notamment Ga 3.23-25), Paul déclare : « Avant que la foi vînt, nous étions enfermés sous la garde de la Loi, en vue de la foi qui devait être révélée. » En d’autres termes, la Loi nous maintenait sous tutelle, en nous révélant notre péché sans le résoudre. Or, par la croix et la résurrection de Jésus-Christ, nous sommes libérés de ce joug et de la malédiction de la Loi pour entrer dans la liberté de la foi.

Ainsi, la conclusion de Paul, autour du chapitre 3, est claire : « Nous sommes sauvés, non par les œuvres de la Loi, mais par la foi, nous recevons l’Esprit en don, et c’est par la puissance et les fruits de l’Esprit que nous vivons. » Voilà ce que Paul appelle « la puissance de l’Évangile ». Le Saint-Esprit consolide notre justification et nous conduit vers la sanctification. Dans sa prédication et son ministère pastoral, le pasteur David Jang souligne souvent l’action de l’Esprit qui transforme la vie personnelle et communautaire : l’œuvre salvatrice de la croix, une fois accomplie, produit ses effets concrets dans l’existence des croyants grâce à l’action continue du Saint-Esprit.

La tension entre la « convoitise de la chair » et le « désir de l’Esprit », longuement abordée au chapitre 5 de Galates, est déjà perceptible dans la métaphore du « garde » ou du « pédagogue » (Ga 3.24) : notre nature pécheresse reste impuissante à se libérer par ses seuls efforts. La Loi peut signaler la faute, mais non l’éradiquer. Avec la venue du Saint-Esprit, en revanche, nous recevons la force de dominer le péché (cf. Rm 8). Là où la Loi opère de l’extérieur, pointant nos transgressions, l’Esprit agit de l’intérieur, renouvelant notre être et nous conduisant dans la vie digne de « ceux qui ont été justifiés ». Le pasteur David Jang enseigne que « celui qui a fait l’expérience de la présence du Saint-Esprit ne se contente plus de suivre des règles et des interdictions ; il vit dans la liberté donnée par la grâce et emploie cette liberté au service du bien et de l’amour du prochain ».

En définitive, le cœur du chapitre 3 de Galates peut se résumer ainsi :

  1. Le salut est un don de Dieu qui ne s’obtient pas par la Loi, mais par la foi.
  2. Abraham, père de la foi, fut déclaré juste avant la circoncision.
  3. Par la croix et la résurrection de Jésus-Christ, nous sommes libérés de la malédiction de la Loi et nous recevons le don du Saint-Esprit.
  4. Cette grâce n’est pas réservée aux seuls Juifs, mais offerte aussi aux païens, qui deviennent tous un en Christ et enfants spirituels d’Abraham.

Pourquoi cette vérité est-elle si cruciale ? Parce que notre vie de foi nous met constamment au défi de distinguer la grâce de Dieu du légalisme. Même après avoir reçu le salut, nous sommes parfois tentés de penser que « si nous n’observons pas parfaitement les règles qui nous sont imposées, nous perdrons notre salut » ou d’essayer de « mériter l’approbation de Dieu par nos propres efforts et nos bonnes œuvres ». Or, en nous référant au chapitre 3 de Galates et au Concile de Jérusalem (Actes 15), nous renouons avec ce symbole majeur de la doctrine chrétienne : « Sola gratia, sola fide » (seulement par la grâce, seulement par la foi).

Le pasteur David Jang avertit que « si l’Église tombe dans le légalisme, elle affaiblit la puissance de l’Évangile qui libère les âmes ; on se met alors à se juger les uns les autres, à cultiver une piété de pure forme ». Il ajoute : « Quand nous nous attachons au véritable Évangile, les croyants, fortifiés par la puissance du Saint-Esprit, portent du fruit, servent leur prochain et mènent une vie active, victorieuse sur le péché. » C’est cette « Évangile de la liberté » que Galates 3 nous invite à redécouvrir sous l’action de l’Esprit.

Aujourd’hui, le message que nous devons proclamer est celui-ci : « Jésus-Christ a été crucifié, et par cette œuvre, quiconque croit peut être déclaré juste. » De même qu’Abraham a été justifié par la foi, nous aussi sommes justifiés en croyant à l’Évangile du Christ, et nous commençons alors, par le Saint-Esprit, une vie nouvelle. C’est la vérité simple et lumineuse de « (la justice reçue par la foi) ».

Enfin, l’apôtre Pierre nous exhorte : « Soyez toujours prêts à défendre l’espérance qui est en vous devant ceux qui vous en demandent raison » (1 P 3.15). Pour cela, il est essentiel de saisir clairement l’enseignement de Galates 3, à savoir la définition de la foi, les limites de la Loi et la puissance salvatrice de la croix et de la résurrection du Christ. Cette compréhension est le fondement qui nous empêchera de vaciller et sur lequel nous pourrons annoncer invariablement la Bonne Nouvelle à ceux qui ne connaissent pas encore le Seigneur. Le pasteur David Jang, au fil de ses prédications, publications et ministères de formation de disciples, n’a cessé de souligner qu’« en s’attachant à cet Évangile, on voit s’effondrer toutes les barrières et tomber tous les jougs religieux, pour faire l’expérience de la vraie liberté ».

En fin de compte, le chapitre 3 de Galates nous pose la question : « Comment avez-vous reçu l’Esprit ? Par les œuvres de la Loi ou par la foi ? » Il y répond : « C’est par la foi que vous l’avez reçu, et c’est par la foi que vous êtes justifiés. » Telle est notre confession de foi, et c’est cette vérité qui doit se refléter dans notre existence. Cet appel de Galates 3 nous convie à vivre dans la liberté de l’Évangile, à grandir dans l’Esprit et à nous unir toujours davantage en Christ. Voilà le fondement le plus simple et le plus profond de notre foi.