信仰による救い – 張ダビデ牧師


1. 信仰の本質とガラテヤ書3章の重要性

ガラテヤ書3章を正しく理解することは、ガラテヤ書全体を理解するための核心的な鍵を手にすることと同じです。というのも、使徒パウロがこの章で「信仰」という言葉を14回も繰り返し用いているからです。律法と信仰の関係、そしてイスラエル民族だけでなく異邦人までも含む救いの普遍的な性格がガラテヤ書3章に集約的に示されています。宗教改革の時代からガラテヤ書が「自由の福音」と呼ばれてきたほど、自由と恵み、そして信仰を力強く宣言している背景には、まさにこの3章に込められた使徒パウロの核心的な教えがあるのです。

張ダビデ牧師は、数十年にわたり韓国および世界各地で福音を伝えてきましたが、その中で律法主義に陥って救いの本質を見失ってしまう人々に向けて、ガラテヤ書3章のメッセージを特に強調してきました。とりわけ「信仰によって救いを得る」(すなわち「以信得義(いしんとくぎ)」)という事実こそ、最も大切な教理として確立されねばならないと繰り返し説いてきました。これは、エルサレム会議(使徒の働き15章)に基づいて教会が共同的に合意した「異邦人も律法によらず信仰によって救われる」という真理と同じ文脈にあります。

実際にエルサレム会議で下された結論が示す福音の本質とは、「信仰によって救われる」ということでした。律法によっては罪と死から抜け出せないという真理を再確認する決定でもありました。ユダヤ主義者(あるいは偽教師たち)は、「割礼」と「律法の遵守」がなければ救いは成立しないと主張しましたが、使徒ペテロやパウロ、ヤコブらは会議を通じて、割礼や様々な儀式的な規定が救いの必須条件にはなり得ないと宣言したのです。「ただ恵みによって、ただ信仰によって義とされる」という事実は初代教会当時からキリスト教における最も重要な救済論の核心となっており、ガラテヤ書3章はその核心を明確に示しています。

パウロはガラテヤ書全体を通じて、自分が伝えた福音がどのような意味を持ち、エルサレムの使徒たちが伝える福音といかに一致しているかを証明しようとしています。その福音とは、「律法によっては救われず、ただイエス・キリストを信じることによって救いを得る」ということです。この教えは、多くのユダヤ主義的な偽教師たちから反発を買いましたが、パウロはガラテヤ書3章で最も直接的にその問題を扱います。

パウロは、偽教師たちが教会に入り込み、「イエスを信じても律法を守らなければならず、割礼を受けなければ完全な救いに至らない」と扇動する現実を目撃しました。ガラテヤの信徒の中には、もともと恵みによって信仰によって自由を得ていたのに、再び「律法的な宗教性」のとりこになってしまった人々がいたのです。そのためパウロは3章1節で「愚かなガラテヤ人たちよ!」と力強く叱責します。彼らはすでにイエス・キリストの十字架による救いの唯一の道を目撃していたにもかかわらず、別の福音を追いかけようとしていました。「イエスが十字架につけられたことがあなたがたの目の前にはっきり示されているのに、だれがあなたがたを惑わしたのか」とするパウロの叱咤は、今日の教会が心に留めるべき重要な警告でもあります。

張ダビデ牧師も、何度もの説教や講演、文書による宣教活動の中で、「ガラテヤ書3章の焦点は十字架と復活、そして信仰によって得られる救いの確実性」であると繰り返し強調しています。律法は罪を明らかにし、自力で救いに至ることはできないと悟らせる役割を担いますが、その律法によって罪が解決されるわけではないという聖書的真理を繰り返し教えるのです。イエスが十字架の上であらゆる呪いと罪の代価を担われたことによって、律法が示す罪の問題を根本的に解決された、それこそが「福音」です。そしてその福音を「信仰によって受け入れる」ことこそがキリスト教の救いの本質なのです。

「信仰」という言葉は信仰生活の中でしばしば耳にするなじみ深い用語ですが、ガラテヤ書3章はこの「信仰」の定義と意味をより深く掘り下げます。果たして信仰とは何か、信仰はどのように働くのか、そして「信仰によって救いを得る」ということがなぜ可能なのかについて、旧約の例(特にアブラハム)まで引き合いに出しながら詳述するのです。それは、以下のような教えと結びついています。

  1. 救いは恵みによるものである。
  2. その恵みはイエス・キリストの十字架と復活によって決定的に示された。
  3. 私たちはその恵みを信仰によって受け入れるだけでよい。

ガラテヤ書3章においてパウロは、この主題を最も論理的かつ力強く説明しています。したがって教会が救済論の中心的真理を見失わないためには、ガラテヤ書3章の教えを堅く守ることが不可欠です。張ダビデ牧師は「今日でも多くの信徒が『信仰によって救われる』ということを頭では知っていても、それが実生活に結びついていない場合が多い」と指摘しています。「律法や規定、教会内の伝統、あるいは社会的・文化的な基準などに縛られ、自分自身を責め、さらには他者までも責め続ける姿が繰り返されている」と嘆きながら、パウロが語る「自由の福音」を改めて教会の中で回復すべきだと訴えてきました。

結局、ガラテヤ書3章は「信仰」と「律法」という二つの大きな柱を対比しながら、ただ信仰によって義とされるという普遍的かつ究極的な真理を提示しています。「愚かなガラテヤ人たちよ!」というパウロの厳しい口調は、単なる叱責ではなく「再び律法のくびきにつながれてはならない」という切実な嘆願なのです。現代に生きる私たちもまたパウロの叫びに耳を傾け、恵みのうちに真の自由を享受する者とならなければなりません。


2. アブラハムの信仰、律法主義との衝突、そしてパウロの論証

ガラテヤ書3章の冒頭でパウロが「あなたがたが御霊を受けたのは、律法の行いによってか、それとも聞いて信じたからか」(ガラテヤ3:2)と問う場面は、ガラテヤの信徒たちがすでに聖霊を体験していたことを思い起こさせるためのものです。すでに聖霊を受けているのであれば、救いが律法や儀式ではなく「信仰」によってもたらされたことをよく知っているはずだからです。換言すれば、彼らがたとえ賜物を体験し、再生(新生)を体験し、あるいは異言や預言といった聖霊の働きを経験していたとしても、それは律法の遵守によってもたらされたのではなく、イエス・キリストの福音を信じた結果として起こったのだと思い返すように促しているのです。

ところがパウロはさらに踏み込んで、旧約聖書で最も偉大な先祖とされるアブラハムを引き合いに出します(ガラテヤ3:6)。なぜなら律法主義的な偽教師たちが常に強調する人物こそ、このアブラハムだったからです。彼らは「私たちの先祖アブラハムは、律法と割礼によって神に認められた」と考えていました。しかし実際には、アブラハムが義と認められたのは「神を信じた」時であり、その信仰を神が義とみなされた出来事が先にあったのです(創世記15:6)。張ダビデ牧師もさまざまな説教や聖書解説の中で、創世記12章から17章まで続くアブラハムの物語を引用し、「アブラハムは割礼を受ける前にすでに神から義と認められた時点があった」ことを繰り返し喚起しています。

割礼は創世記17章に登場します。つまり創世記15章6節「アブラムは主を信じた。それで主はそれを彼の義と認められた」という宣言は、「割礼」が導入される前にすでになされていたのです。そして、モーセ五書に含まれる具体的な律法の規定は、アブラハムが生きていた時代から数えて430年も後に与えられたものでした(ガラテヤ3:17の言及)。したがってアブラハムの義は、律法や割礼によって得られたものでは決してありません。彼は「行く先を知らず」(ヘブル11:8)とも、神に従い、約束の地と「天の星のように数多い子孫」の祝福を約束され、未知の地へ出発せよという神の言葉を信じて義と認められたのです。

パウロはこの原理を「彼が無割礼のときに受けた義」と呼びます(ローマ4:9-10)。つまり「信仰によって義と認められる」という出来事が先にあり、その義を確認するしるしとして割礼が与えられたにすぎないということです。ローマ書4章もガラテヤ書3章と平行する箇所が多く、そこでパウロは「行いがなくても神に義と認められる人の幸い」をダビデの告白とつなげて語ります(ローマ4:6-8)。そしてアブラハムが義と認められたのは、その行いや功績ではなく、全くの「信仰」によるという結論に至るのです。

張ダビデ牧師は、このローマ書とガラテヤ書の関連を特に重視しています。ガラテヤ書3章を理解すればローマ書4~5章も一層深く理解でき、ローマ書をよく理解すればガラテヤ書3章がさらに鮮明になるというのです。これは「正しい者は信仰によって生きる」(ハバクク2:4、ガラテヤ3:11、ローマ1:17)という旧約の根幹から始まり、新約全体の救済論を貫くテーマでもあります。

異邦人にも同じ恵みが与えられていることは、アブラハムが「すべて信じる者の父」となったというパウロの宣言(ガラテヤ3:7、ローマ4:11-12)によってはっきり示されます。旧約時代、アブラハムを自民族の祖とみなしてきたユダヤ人にとって、このパウロの宣言は画期的なものでした。しかし彼が語る福音の論理は以下のようなものです。

  1. アブラハムは律法を受ける前にすでに信仰によって義と認められた。
  2. したがって、律法や割礼は「義と認められる」ための絶対条件ではない。
  3. アブラハムのように「信仰によって義と認められる」道は、すべての人に開かれている。
  4. よって異邦人もイエス・キリストの福音を信じるならば、アブラハムの霊的血統に接ぎ木される。

ガラテヤ書3章10節から12節で、パウロは「律法の行いに頼る者はみな呪いの下にある」(申命記27:26の引用)とまで述べています。なぜなら、律法を完全に守れる人など一人もいないからです(ローマ3:10)。むしろ律法は罪をよりいっそう明確にあぶり出し、罪の意識や自己の罪責を強くする働きをします。パウロがコリント人への手紙第一15章56節で「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と言っているのは、律法が罪を解決するよりも、むしろ罪の根拠を一層はっきり示す役割を担っているという意味です。したがって、律法によって義とされようとする人は決して救いに至ることができず、かえって呪いの下にとどまることになります。

ところがキリストは私たちの呪いを代わりに負ってくださったことによって、律法の呪いから私たちを解放してくださいました。それがガラテヤ書3章13~14節に示される宣言です。「キリストは私たちのために呪われた者となって、律法の呪いから私たちをあがない出された」という箇所です。イエスが十字架にかけられて死なれたことによって、「木にかけられる者はみな神にのろわれる」(申命記21:23)という律法の規定さえ、キリストご自身が引き受けられました。その結果、私たちは罪と死と呪いの支配から解放され、信仰によって聖霊の約束を受けることができるようになったのです。張ダビデ牧師は、この部分を「十字架によってすべての罪の代価はすでに支払われた。だから私たちに残されたことは、その事実を信じる信仰だけだ」と要約します。そしてこのようにして義と認められた私たちは、最終的に聖霊の導きにあずかり、漸進的な「聖化」へ向かっていくことになるのです。

ガラテヤ書3章のこの教えは、現代の教会においても繰り返し起こる律法主義的傾向、すなわち「教会法や伝統、儀式や礼拝形式、あるいは特定の倫理規範を守ることこそが救いの条件だ」とする主張に対する強力な反論となります。もちろん張ダビデ牧師をはじめ正統的な神学者たちは、「律法無用論」や「道徳性の軽視」を説いているわけではありません。むしろキリスト教は、この世のどの宗教よりも高い倫理と愛を求めるものです。ただし、それが救いの条件となることはあり得ないという点が重要です。キリストがすでに救いを成し遂げてくださったのだから、私たちはその恵みによって福音に従い、聖霊のうちに喜んで善を行う者へと変えられていくのです。これこそが律法主義とはまったく次元の異なる形で、律法を「成就」し「履行」する真の道です。

このようにパウロはガラテヤ書3章で非常に論理的かつ聖書解釈に根ざした弁証を用いて、偽教師たちが広める「割礼と律法の遵守を通じた救いの主張」を全面的に反駁します。核心は「アブラハムですら律法ではなく信仰によって義と認められたのだから、割礼のない異邦人も信仰によって救われる」という論証です。そしてキリストにあって私たちは一つとなり、すべてがアブラハムの霊的な子孫となるという事実です。


3. キリストにある自由と聖き、そして現代への適用

ガラテヤ書が「自由の福音」と呼ばれる理由は、律法から解き放たれた「放縦」を意味しているのではなく、「罪と死の力から自由にされる福音」を指しているからです。3章後半(特に3:23~25)でパウロは「しかし信仰が来る前には、私たちは律法の下で閉じ込められ、啓示されるべき信仰が来る時まで監視されていました」と述べています。つまり律法は私たちを神へと導く「家庭教師」(ガラテヤ3:24)のようなもので、罪を示すことはできても、罪を根本的に解決する力はありません。しかしイエス・キリストの十字架と復活によって、私たちはこの律法のくびきと呪いから解き放たれ、「信仰による自由」へと招かれたのです。

したがってガラテヤ書3章を中心としたパウロの結論は明白です。「私たちは律法の行いではなく、信仰によって救われた。今や聖霊を賜物として受け、聖霊が与える力と実りによって生きる」。これこそがパウロの語る「福音の力」であり、聖霊は私たちの義認(Justification)を確固たるものとし、その次の段階である聖化(Sanctification)へと導いてくださるのです。張ダビデ牧師の牧会や説教でも、信仰によって受ける聖霊の内住と導きがいかに個人の生活や共同体を変革していくかが繰り返し語られます。イエス・キリストの十字架による贖いのみわざはすでに一度で完成された救いの道を開いており、その救いの効力は聖霊の働きの中で私たちのうちに成長し続けるのです。

パウロが語る「肉の欲望」と「御霊の望むこと」の対立は、ガラテヤ書5章でも詳しく記されていますが、実は3章の段階からすでに「律法の下で閉じ込められていた」という表現を通じてほのめかされています。私たちの本性は依然として罪性を帯びた肉体であるため、律法によって罪を自覚することはできても、自力で罪を断ち切る能力はありません。しかし聖霊が臨むとき、罪を支配できる力が与えられます(ローマ8章参照)。律法が外面的な規範として罪を示すとするならば、聖霊は内面から私たちを新たにし、「義とされた者」にふさわしい生き方へ導いてくださるのです。この点で張ダビデ牧師は「聖霊の臨在を体験した信徒は、もはや規則や禁止事項ばかりを見つめて信仰生活をするのではなく、むしろ恵みによって自由を得、その自由を善い目的と隣人への愛のために用いるようになる」と教えてきました。

最終的にガラテヤ書3章が示す核心は、次のようにまとめられます。

  1. 救いは律法ではなく、信仰によって得る「神の賜物」である。
  2. 信仰の先祖アブラハムも、割礼の前にすでに信仰によって義と認められた。
  3. イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちは律法の呪いから解放され、聖霊の賜物を受けるようになった。
  4. この恵みはユダヤ人だけでなく異邦人も共に享受でき、私たちは皆アブラハムの霊的子孫として一つのからだを成す。

なぜこの真理が重要なのでしょうか。それは、私たちが日々の信仰生活の中で常に「律法」と「恵み」の間で混乱する可能性があるからです。救いを受けたはずなのに、「自分が与えられた規範を守れなかったら、救いが取り消されるのではないか」という恐怖や、あるいは自分の努力と善行によってのみ神に認められるという誤った習慣がしぶとく残り続けることがあります。しかしガラテヤ書3章と使徒の働き15章のエルサレム会議の決定を思い起こすとき、私たちは「ただ恵みによる」「ただ信仰による」というキリスト教の救済論的標柱を改めてしっかりと握るよう促されるのです。

張ダビデ牧師は「教会が律法主義に陥ると、魂を自由にする福音の力が弱まり、互いに罪を責め合いながら形式的な敬虔を追い求める共同体になってしまう」と警告します。その一方で「真の福音を握るならば、信徒たちは聖霊の力のうちに善い実を結び、他者に仕え、罪に打ち勝つ能動的かつ躍動的な生活を送ることになる」と強調しています。こうした「自由の福音」こそが、ガラテヤ書3章を通じて語られる聖霊の声なのです。

今日、私たちが伝えるべき福音はまさにこれです。イエス・キリストが十字架にかけられて死なれたことによって、信じる者は誰でも義と認められる道が開かれました。アブラハムが信仰によって義と認められたように、私たちもキリストの福音を信じるときに義とされ、聖霊の内住を通して新しい人生を生きるのです。これは「信仰によって救いを得る(以信得義)」というシンプルでありながら明確な真理です。

最後に、使徒ペテロは「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」(第一ペテロ3:15)と勧めています。私たちはガラテヤ書3章が提示する信仰の定義、律法の限界、そしてイエス・キリストの十字架と復活がもたらす救いの力を明確に理解する必要があります。それが私たちの信仰を揺るぎないものとし、主を知らない人々にも変わることのない福音のメッセージを伝える根拠となるのです。張ダビデ牧師は、この点を数十年にわたり多様な説教や著作、弟子訓練などを通じて絶えず啓発し、「この福音を握る人々には、どんな障壁も打ち崩され、どんな種類の宗教的なしがらみからも解放されて真の自由を経験するようになる」と教え続けてきました。

結局、ガラテヤ書3章は私たちに問いかけます。「あなたがたはどのようにして聖霊を受けたのか。律法の行いによってか、それとも信仰によってか」と。そしてこう答えるのです。「信仰によって受け、信仰によって義とされた」と。これこそが私たちの告白であり、人生へと結びつくべき真理です。福音のうちに自由を得、聖霊のうちに成長し、キリストのうちにますます一つとなる教会と信徒となることを、ガラテヤ書3章は私たちに求めているのです。そこにこそ、私たちが常に心に留めるべき最もシンプルでありながら最も奥深い信仰の核心があるのです。

Salvation Through Faith – Pastor David Jang


1. The Essence of Faith and the Importance of Galatians Chapter 3

Understanding Galatians chapter 3 properly is tantamount to obtaining the key to comprehend the entire book of Galatians. This is because the Apostle Paul mentions the word “faith” a total of fourteen times in this chapter. The relationship between the Law and faith, as well as the universal nature of salvation that includes not only the Israelites but also Gentiles, is encapsulated in Galatians 3. Since the era of the Reformation, Galatians has been nicknamed “the gospel of freedom” for its powerful proclamation of freedom, grace, and faith—and at the heart of this powerful proclamation lies the pivotal teaching found in chapter 3.

Over decades of preaching the gospel in Korea and around the world, Pastor David Jang has repeatedly highlighted the central message of Galatians 3 to those who, having fallen into legalism, have lost sight of the essence of salvation. He has especially emphasized the fact that “we are saved by faith,” or sola fide—the doctrine that we gain righteousness through faith alone—and has continually stressed that this is the most crucial doctrine. This teaching aligns with the outcome of the Jerusalem Council (Acts 15), in which the church reached a common agreement that “even Gentiles are saved by faith, not by the Law.”

Indeed, the fundamental gospel reaffirmed at the Jerusalem Council was that “we are saved by faith.” It reaffirmed the truth that the Law could not set anyone free from sin and death. The Judaizers (or false teachers) insisted that salvation was incomplete without circumcision and strict adherence to the Law. However, the apostles Peter, Paul, and James proclaimed through the council that circumcision or various ceremonial regulations could not be conditions for salvation. From the days of the early church, “salvation by grace alone, through faith alone” has been the most important core of Christian soteriology, and Galatians 3 clearly presents this core truth.

Throughout Galatians, Paul strives to demonstrate that the gospel he preaches is in full harmony with the gospel proclaimed by the apostles in Jerusalem. That gospel is: “Salvation does not come through the Law, but only through faith in Jesus Christ.” This teaching drew strong backlash from many Judaizing false teachers, but in Galatians 3, Paul deals with the controversy head-on.

Paul witnessed the reality of these false teachers infiltrating the church and leading believers astray by claiming, “Even if you believe in Jesus, you still have to keep the Law and be circumcised to achieve complete salvation.” Some of the Galatian believers, who had once been liberated by grace and faith, found themselves trapped again in a “legalistic religiosity.” Thus, in Galatians 3:1, Paul delivers a forceful rebuke: “You foolish Galatians!” Although they had already seen the only path to salvation through the crucifixion of Jesus Christ, they were reverting to a different gospel. Paul’s stern reprimand—“Before your very eyes Jesus Christ was clearly portrayed as crucified. Who has bewitched you?”—serves as a vital warning for today’s church as well.

Likewise, Pastor David Jang has repeatedly emphasized in numerous sermons, lectures, and written ministries that “the focus of Galatians chapter 3 is the cross, the resurrection, and the certainty of salvation by faith.” He reaffirms the biblical truth that while the Law reveals sin and teaches us that we cannot save ourselves, the Law itself does not solve the problem of sin. The good news—or “gospel”—is that Jesus took all curses and the penalty of sin upon Himself on the cross, thereby providing the fundamental remedy for the sins the Law exposes. And the core of Christian salvation is accepting that gospel “by faith.”

Although the word “faith” is commonly heard in Christian life, Galatians 3 delves deeply into the definition and significance of faith. It explores what faith truly is, how it works, and why it is possible to be saved by faith, citing examples from the Old Testament (especially Abraham). This aligns with the following teachings:

  1. Salvation comes by grace.
  2. This grace is decisively revealed in the cross and resurrection of Jesus Christ.
  3. We only need to receive this grace by faith.

In Galatians 3, Paul explains this theme in the most logical and powerful manner. Therefore, if the church does not want to lose the central truth of soteriology (the doctrine of salvation), it must hold fast to what Galatians 3 teaches. Pastor David Jang points out that “even today, many believers know in their heads that they are saved by faith, but it does not translate into their daily lives.” Expressing regret that “too often, believers repeatedly condemn themselves and others, tied down by laws, regulations, church traditions, or social and cultural standards,” he has continually called on the church to reclaim the “gospel of freedom” that Paul proclaimed.

Ultimately, Galatians 3 contrasts two major pillars—“faith” and “the Law”—and presents the universal and ultimate truth that it is solely through faith that we are justified. Paul’s strong tone—“You foolish Galatians!”—is not merely a rebuke but also an earnest plea not to become entangled again in the yoke of the Law. Today, we too must heed Paul’s warning and become people who enjoy genuine freedom under grace.


2. Abraham’s Faith, Conflict with Legalism, and Paul’s Argument

In the opening verses of Galatians 3, Paul asks, “Did you receive the Spirit by the works of the Law, or by believing what you heard?” (Gal 3:2). He does this to remind the Galatian believers that they had already experienced the Holy Spirit. If they truly had received the Holy Spirit, they should know well that salvation came not through the Law or rituals, but rather through faith in the gospel of Jesus Christ. In other words, whether they had experienced spiritual gifts, being born again, speaking in tongues, prophesying, or any other work of the Spirit, it was not achieved by observing the Law but by believing in the gospel of Christ. Paul urges them to recall this fact.

Paul then proceeds to reference the patriarch Abraham (Gal 3:6), the greatest forefather in the Old Testament. This is because Abraham is the key figure often emphasized by the Judaizing false teachers. They insisted, “Our forefather Abraham was approved by God through the Law and circumcision.” However, the reality is that Abraham was credited as righteous when he first believed God, and that event predates circumcision (Gen 15:6). Pastor David Jang also frequently cites the Abrahamic narrative from Genesis 12 to 17 in his sermons and biblical expositions, reminding us that “there was already a moment when Abraham was declared righteous by God before he was circumcised.”

Circumcision appears in Genesis 17. In other words, Genesis 15:6—“Abram believed the LORD, and He credited it to him as righteousness”—took place before the introduction of circumcision. Moreover, the detailed stipulations of the Mosaic Law, in the broader sense, came 430 years after Abraham’s time (see Gal 3:17). Hence, Abraham’s righteousness was in no way obtained through circumcision or the Law. By faith, he obeyed (Heb 11:8—“even though he did not know where he was going”), received God’s promise of “descendants as numerous as the stars in the sky,” and set out for a foreign land, trusting in God’s word, which was counted to him as righteousness.

Paul refers to this principle as “the righteousness he had by faith while he was still uncircumcised” (Rom 4:9-10). The event of Abraham being declared righteous by faith occurred first; circumcision was merely a sign, confirming the righteousness already granted. Romans 4 and Galatians 3 have many parallel passages. In Romans 4, Paul describes “the blessedness of the one to whom God credits righteousness apart from works,” connecting it to David’s confession (Rom 4:6-8). And he concludes that Abraham was declared righteous entirely by faith, not by works.

Pastor David Jang emphasizes this connection between Romans and Galatians, noting that understanding Galatians 3 provides deeper insight into Romans 4 and 5, just as understanding Romans illuminates Galatians 3 more clearly. This theme—“the righteous shall live by faith” (Hab 2:4; Gal 3:11; Rom 1:17)—originates in the Old Testament and forms the backbone of the entire New Testament’s teaching on salvation.

Paul’s declaration that the same grace is given to Gentiles is powerfully conveyed when he refers to Abraham as “the father of all who believe” (Gal 3:7; Rom 4:11-12). For Jews who viewed Abraham exclusively as their own ethnic patriarch, Paul’s message was radical. Yet the logic of the gospel he presents is as follows:

  1. Abraham was declared righteous by faith even before receiving the Law.
  2. Therefore, the Law or circumcision is not an absolute condition for being declared righteous.
  3. The path of receiving righteousness by faith, as Abraham did, is open to all.
  4. Accordingly, Gentiles who believe in the gospel of Jesus Christ are grafted into Abraham’s spiritual lineage.

In Galatians 3:10-12, Paul goes so far as to say, “All who rely on the works of the Law are under a curse” (quoting Deut 27:26). Since no one can keep the Law perfectly (Rom 3:10), the Law actually makes sin more evident and increases guilt and condemnation. In 1 Corinthians 15:56, when Paul says, “The sting of death is sin, and the power of sin is the Law,” he implies that rather than solving sin, the Law underscores it more starkly. Consequently, those who seek righteousness through the Law will never attain salvation and remain under a curse.

But Galatians 3:13-14 proclaims that Christ has redeemed us from the curse of the Law by becoming a curse for us. “Christ redeemed us from the curse of the Law by becoming a curse for us,” the Scriptures declare. By hanging on the cross, Christ Himself bore the legal decree, “cursed is everyone who is hung on a tree” (Deut 21:23). Through this, He liberated us from the powers of sin, death, and the curse, granting us the promise of the Spirit by faith. Pastor David Jang summarizes this by stating, “Because the penalty for all sin was paid at the cross, all that remains for us is to believe that fact.” Once declared righteous through faith, we are then led by the Holy Spirit into the gradual process of sanctification.

The teaching of Galatians 3 directly challenges the ongoing legalistic tendencies within many modern churches. Some claim that “observing church laws, traditions, rituals, worship formats, or specific moral standards is a condition of salvation.” Pastor David Jang and other orthodox theologians do not advocate antinomianism (denying the need for the Law) or disregard for morality. In fact, Christianity demands the highest possible ethics and love. However, these cannot be the conditions of salvation. Since Christ has already accomplished our salvation, we must follow this grace by obeying the gospel, being transformed by the Holy Spirit into those who joyfully do good. This is how we “fulfill” and “complete” the Law on an entirely different level from legalism.

In this way, Paul presents a highly logical and Scripture-based argument in Galatians 3, fully refuting the Judaizers’ claim that one must be circumcised and keep the Law to be saved. The crux of his argument is: “Even Abraham was counted righteous by faith, not the Law, so of course uncircumcised Gentiles too can be saved by faith.” And in Christ, all believers become one, sharing in Abraham’s spiritual heritage.


3. Freedom in Christ, the Work of the Spirit, and Contemporary Application

Galatians is often called the “gospel of freedom,” not to encourage lawless indulgence, but to underscore the “freedom from the power of sin and death” gained through the gospel. In the latter part of chapter 3 (especially Gal 3:23-25), Paul explains that “before this faith came, we were held in custody under the Law, locked up until the faith that was to come would be revealed.” In this sense, the Law served as our “guardian” (Gal 3:24), pointing out our sin but lacking the power to resolve it. However, through the cross and resurrection of Jesus Christ, we have been liberated from the yoke and curse of the Law and ushered into the freedom of faith.

Hence, centered on Galatians 3, Paul’s conclusion is unmistakable: “We have been saved not by the works of the Law but by faith. Now we have received the Holy Spirit, and we live by the power and fruit of the Spirit.” This is what Paul refers to as “the power of the gospel.” The Holy Spirit fortifies our justification and then ushers us into sanctification. Pastor David Jang’s preaching and pastoral ministry frequently deal with how the indwelling and leading of the Holy Spirit, received by faith, transform individuals and communities. The crucifixion of Jesus Christ has already once and for all opened the way of salvation, and the effect of that salvation continues to grow within us through the Holy Spirit’s work.

Paul’s discussion of the conflict between “the desires of the flesh” and “the desires of the Spirit” is elaborated further in Galatians 5, but from chapter 3 onward, he hints at it through phrases like “held in custody under the Law.” Our human nature, being inherently sinful, may recognize sin through the Law but lacks the ability to sever it by our own power. However, when the Holy Spirit comes, we are granted the power to subdue sin (see Rom 8). While the Law is an external standard that points out sin, the Holy Spirit renews us from within and leads us toward a life befitting those who are “justified.” In this respect, Pastor David Jang teaches that “once believers experience the indwelling of the Holy Spirit, they no longer carry out their faith merely by focusing on rules and prohibitions. Instead, they are set free by grace, using that freedom for noble purposes and for loving others.”

In summary, the core message of Galatians 3 is as follows:

  1. Salvation is a “gift of God” obtained not by the Law but through faith.
  2. Abraham, the forefather of faith, was declared righteous before he was circumcised.
  3. Through the cross and resurrection of Jesus Christ, we are freed from the curse of the Law and receive the Holy Spirit by faith.
  4. This grace is shared by both Jews and Gentiles, uniting all of us into one body as Abraham’s spiritual offspring.

Why is this truth important? Because in our day-to-day faith journey, we constantly oscillate between “the Law” and “grace.” Even after receiving salvation, we may fear that if we fail to keep certain rules, our salvation might be revoked; or we may fall back into the mistaken habit of trying to earn God’s approval through our own efforts and good works. But remembering Galatians 3 and the Jerusalem Council in Acts 15, we once again cling to the definitive markers of Christian salvation: “by grace alone” and “by faith alone.”

Pastor David Jang warns that “when a church becomes legalistic, the power of the gospel that sets souls free is diminished, and people end up condemning one another, pursuing only an external form of piety.” Conversely, “when the true gospel is upheld, believers bear good fruit by the power of the Holy Spirit, serve others, and actively and dynamically overcome sin.” This is the “gospel of freedom” that the Holy Spirit proclaims through Galatians 3.

Today, this is the gospel we must proclaim. Because Jesus Christ was crucified, anyone who believes can be declared righteous. Just as Abraham was declared righteous by faith, we too are justified by believing in the gospel of Christ, and we walk in newness of life through the indwelling Holy Spirit. It is a straightforward yet profound truth: We are saved through faith—sola fide.

Finally, the Apostle Peter exhorts us to “always be prepared to give an answer to everyone who asks you to give the reason for the hope that you have” (1 Pet 3:15). We must clearly understand what Galatians 3 teaches about the definition of faith, the limits of the Law, and the power of salvation offered through the cross and resurrection of Jesus Christ. This understanding becomes the pillar that keeps our faith unshaken and the foundation for proclaiming the unchanging message of the gospel to those who do not know the Lord. Through countless sermons, writings, and discipleship training over many years, Pastor David Jang has continually reminded believers of this, teaching that “when people hold onto this gospel, every barrier is torn down, and they are freed from every kind of religious yoke to experience true liberty.”

In the end, Galatians 3 poses a question to us: “How did you receive the Holy Spirit—through the works of the Law or by believing what you heard?” And it provides the answer: “We received it by faith and were justified by faith.” This is our confession, and it must become the guiding truth lived out in our daily lives. Galatians 3 calls us to experience genuine freedom in the gospel, grow through the Holy Spirit, and unite more deeply in Christ as the church and the people of God. This is the simplest yet most profound essence of our faith that we must continually hold onto.

Salvación mediante la fe – Pastor David Jang


1. La esencia de la fe y la importancia de Gálatas 3

Comprender correctamente Gálatas 3 equivale a obtener la clave central para entender toda la Carta a los Gálatas. Esto se debe a que el apóstol Pablo menciona la palabra “fe” nada menos que catorce veces en este capítulo. En él se concentran la relación entre la Ley y la fe, así como el carácter universal de la salvación que abarca no solo al pueblo de Israel, sino también a los gentiles. Gálatas, que desde la época de la Reforma Protestante llegó a ser conocida como la “epístola de la libertad”, proclama con contundencia la libertad, la gracia y la fe, y tras ello se encuentra la enseñanza fundamental que el apóstol Pablo expone especialmente en el capítulo 3.

El pastor David Jang, a lo largo de décadas de predicación en Corea y en distintas partes del mundo, ha resaltado el mensaje esencial de Gálatas 3 para quienes, inmersos en el legalismo, pierden de vista la esencia de la salvación. En especial, ha insistido en la verdad de que “obtenemos la salvación por la fe”, es decir, la justificación por la fe (이신득의), como la doctrina más importante que debe cimentarse en la Iglesia. Este énfasis está en la misma línea de la verdad establecida en el Concilio de Jerusalén (Hechos 15), donde la Iglesia llegó a un consenso común: “También los gentiles son salvos por la fe, no por la Ley”.

De hecho, la conclusión del Concilio de Jerusalén confirmó que “somos salvos por la fe”, reafirmando la verdad de que la Ley no puede librarnos del pecado y de la muerte. Los judaizantes (o falsos maestros) argumentaban que sin circuncisión ni observancia de la Ley, la salvación no podía completarse. Sin embargo, los apóstoles Pedro, Pablo y Santiago declararon en aquella reunión que ni la circuncisión ni las ceremonias rituales podían ser condiciones esenciales para la salvación. Desde la Iglesia primitiva, quedó establecido que “solo por gracia y solo por fe somos justificados”, y Gálatas 3 expone esta verdad de manera contundente.

En toda la Carta a los Gálatas, Pablo se propone demostrar qué significado tiene el evangelio que él mismo predicó y cómo está en plena sintonía con el evangelio de los apóstoles de Jerusalén. Ese evangelio proclama: “No recibimos la salvación por medio de la Ley, sino únicamente mediante la fe en Jesucristo”. Esta enseñanza provocó la oposición de numerosos judaizantes, pero es en Gálatas 3 donde Pablo la defiende de manera más directa.

Pablo presenció cómo los falsos maestros se habían infiltrado en la Iglesia, difundiendo la idea de que “aunque creas en Jesús, debes cumplir la Ley y hasta circuncidarte para conseguir una salvación completa”. Así, algunos de los creyentes en Galacia, que originalmente habían recibido la libertad por gracia y por fe, volvieron a caer en una “religiosidad legalista”. Por ello, en el versículo 1 del capítulo 3, Pablo los reprende con vehemencia: “¡Oh gálatas insensatos!”. Aun habiendo visto el único camino a la salvación a través de la cruz de Jesucristo, estaban siguiendo otro evangelio. El fuerte reclamo de Pablo –“¿Ante cuyos ojos Jesucristo fue ya presentado claramente entre vosotros como crucificado? ¿Quién os fascinó?”– es una advertencia urgente que la Iglesia de hoy también debe atender.

El pastor David Jang, en repetidas ocasiones, tanto en predicaciones como en conferencias y a través de su ministerio escrito, subraya que “el centro de Gálatas 3 es la cruz, la resurrección y la seguridad de la salvación que obtenemos por la fe”. Enseña repetidamente la verdad bíblica de que la Ley expone el pecado y nos hace ver que somos incapaces de salvarnos a nosotros mismos, pero no puede resolver el problema del pecado. Precisamente ese problema, revelado por la Ley, fue resuelto de manera definitiva por Jesucristo al asumir todo el castigo y la maldición en la cruz. Esto es el “evangelio”. Y la esencia de la salvación cristiana radica en “recibir ese evangelio por fe”.

Aunque “fe” es un término muy usado en la vida cristiana, Gálatas 3 profundiza en su definición y significado. Explica qué es la fe, cómo funciona y por qué podemos recibir la salvación solo a través de ella. Para ello, el apóstol toma incluso ejemplos del Antiguo Testamento (especialmente de Abraham). Se trata de lecciones que se resumen en los siguientes puntos:

  1. La salvación proviene de la gracia.
  2. Esa gracia se ha manifestado decisivamente en la cruz y en la resurrección de Jesucristo.
  3. Nosotros únicamente tenemos que acoger esa gracia mediante la fe.

En Gálatas 3, Pablo desarrolla este tema de un modo lógico y contundente. Por ello, para que la Iglesia no pierda el núcleo de la doctrina de la salvación, es fundamental atesorar lo enseñado en este capítulo. El pastor David Jang enfatiza: “En la actualidad muchos creyentes conocen ‘la salvación por fe’ solo de manera teórica, pero no la aplican verdaderamente a su vida”. Y lamenta que “muchos, atados a la Ley, a reglamentos, a tradiciones eclesiales o a patrones socioculturales, se condenan a sí mismos y, peor aún, condenan también a los demás”. Ante esta realidad, ha llamado repetidamente a la Iglesia a volver a proclamar el “evangelio de la libertad” tal como lo presenta Pablo.

En conclusión, Gálatas 3, al comparar los grandes ejes de “la fe” y “la Ley”, enseña que la justificación se obtiene únicamente por la fe. La expresión “¡Oh gálatas insensatos!” de Pablo no es un mero reproche; es un clamor apasionado para que la Iglesia no regrese al yugo de la Ley. Hoy, nosotros también debemos atender esta exclamación de Pablo y disfrutar de la verdadera libertad que hay en la gracia.


2. La fe de Abraham, el choque con el legalismo y la argumentación de Pablo

En la parte inicial de Gálatas 3, Pablo lanza esta pregunta: “¿Recibisteis el Espíritu por las obras de la Ley o por el oír con fe?” (Gál 3:2). Es un recordatorio para los cristianos de Galacia, quienes ya habían experimentado al Espíritu Santo. Si recibieron el Espíritu, ello les debe hacer constatar que su salvación llegó por fe y no por la Ley ni por ningún rito. Dicho de otra forma, si experimentaron dones, nacieron de nuevo, hablaron en lenguas o profetizaron como obra del Espíritu, todo ello ocurrió como resultado de creer en el evangelio de Jesucristo, no por cumplir las exigencias legales.

Pero Pablo da un paso más y menciona al más grande de los antepasados del Antiguo Testamento, Abraham (Gál 3:6). La razón es que los falsos maestros legalistas ponían a Abraham como su ejemplo principal: “Nuestro antepasado Abraham fue justificado ante Dios por la Ley y por la circuncisión”. Sin embargo, Abraham fue declarado justo cuando “creyó a Dios”, antes de que entrara en juego la circuncisión (Gn 15:6). El pastor David Jang, en diversas predicaciones y estudios bíblicos, suele citar los relatos de Abraham de Génesis 12 a 17 para recalcar “que Abraham ya había recibido la justicia de parte de Dios antes de hacerse la circuncisión”.

La circuncisión aparece en Génesis 17. En otras palabras, cuando se declara en Génesis 15:6: “Y creyó a Jehová, y le fue contado por justicia”, todavía no se había instituido la circuncisión. Asimismo, la Ley, con sus prescripciones concretas recogidas en el Pentateuco, fue entregada a Moisés 430 años después de la época de Abraham (según Gál 3:17). Por lo tanto, la justicia de Abraham no provenía ni de la Ley ni de la circuncisión. Él fue llamado justo al obedecer (Heb 11:8: “salió sin saber a dónde iba”), recibir la promesa de “una tierra y una descendencia tan numerosa como las estrellas del cielo” y creer la Palabra de Dios que le ordenaba partir hacia una tierra desconocida.

Pablo denomina este principio “la justicia que recibió cuando aún no estaba circuncidado” (Rom 4:9-10). Es decir, primero fue declarado justo por su fe, y la circuncisión no fue sino la señal de esa justicia ya otorgada. Romanos 4 contiene muchos pasajes paralelos con Gálatas 3. Allí Pablo vincula “la dicha de aquella persona a quien Dios atribuye justicia sin obras” con la confesión de David (Rom 4:6-8). Y llega a la conclusión de que Abraham fue justificado no por obras, sino exclusivamente por su fe.

El pastor David Jang destaca especialmente la conexión entre Romanos y Gálatas: conocer Gálatas 3 permite entender mejor Romanos 4–5, y entender bien Romanos ayuda a clarificar aún más Gálatas 3. Se trata de un tema que se remonta a la raíz profética de Habacuc 2:4 (“el justo por la fe vivirá”), recogida por Pablo tanto en Gálatas 3:11 como en Romanos 1:17, conformando así la columna vertebral de la doctrina de la salvación en todo el Nuevo Testamento.

El hecho de que esa misma gracia se extienda a los gentiles queda claro en la declaración de Pablo de que Abraham se convierte en “padre de todos los creyentes” (Gál 3:7; Rom 4:11-12). Para los judíos, que consideraban a Abraham únicamente como el padre de su nación, la proclamación de Pablo fue revolucionaria. Sin embargo, la lógica del evangelio que defiende es la siguiente:

  1. Abraham fue justificado antes de recibir la Ley; es decir, fue declarado justo cuando creyó a Dios.
  2. Por ende, la Ley o la circuncisión no son condiciones absolutas para la justificación.
  3. La vía para recibir la justicia “solo por la fe”, igual que Abraham, está abierta para toda la humanidad.
  4. Por tanto, los gentiles que creen en el evangelio de Jesucristo quedan injertados en la “descendencia espiritual” de Abraham.

En Gálatas 3:10-12, Pablo llega a decir: “Todos los que dependen de las obras de la Ley están bajo maldición” (cita de Dt 27:26). Nadie puede cumplir la Ley de manera perfecta (Rom 3:10). Más bien, la Ley manifiesta más claramente el pecado, intensificando la culpa y la condenación. Cuando en 1 Corintios 15:56 Pablo dice: “el aguijón de la muerte es el pecado, y el poder del pecado es la Ley”, se refiere a que la Ley, en vez de resolver el pecado, lo deja al descubierto con más nitidez. Por lo tanto, quien quiera ser justificado por la Ley nunca alcanzará la salvación; más bien, permanece bajo maldición.

En cambio, Gálatas 3:13-14 proclama que Cristo cargó con nuestra maldición, librándonos de la maldición de la Ley. “Cristo nos redimió de la maldición de la Ley, hecho por nosotros maldición”. Al ser colgado en la cruz, Jesús mismo asume la sentencia de la Ley –“maldito el que es colgado en un madero” (Dt 21:23)–, liberándonos así del dominio del pecado, la muerte y la maldición, y otorgándonos la promesa del Espíritu por medio de la fe. El pastor David Jang resume este pasaje diciendo: “Puesto que en la cruz se pagó por completo el precio del pecado, lo único que nos queda es creer en este hecho”. Y una vez justificados de esta manera, avanzamos gradualmente en el camino de la santificación (proceso de crecimiento espiritual) bajo la guía del Espíritu Santo.

Las enseñanzas de Gálatas 3 siguen siendo un antídoto contundente contra el brote de legalismo que a menudo reaparece en la Iglesia, donde algunos sostienen que “las normas eclesiásticas, tradiciones, ritos y ciertas pautas morales concretas” son la condición para la salvación. Por supuesto, el pastor David Jang y los teólogos ortodoxos aclaran que no se trata de defender un “antinomismo” ni de ignorar la moral. De hecho, el cristianismo pide un nivel ético y de amor más alto que cualquier otra religión. Lo que se enfatiza es que esas obras no pueden ser la base para la salvación. Puesto que Cristo ya la consumó, debemos someternos a ese evangelio, obedecerlo y, con gozo en el Espíritu Santo, ser transformados para practicar las buenas obras. Este es el verdadero modo de “cumplir” la Ley desde una perspectiva completamente distinta al legalismo.

De este modo, en Gálatas 3, Pablo combate frontalmente la doctrina de la salvación por la circuncisión y la observancia de la Ley que promueven los falsos maestros, utilizando una argumentación muy lógica y sustentada en la interpretación bíblica. El eje de su razonamiento es: “Incluso Abraham fue justificado por su fe y no por la Ley. ¡Cuánto más los gentiles, que no están circuncidados, podrán alcanzar la salvación por la fe!”. Y todos, unidos en Cristo, llegan a ser la descendencia espiritual de Abraham.


3. La libertad en Cristo, la obra del Espíritu y su aplicación en la actualidad

Gálatas se conoce como la “epístola de la libertad” no por llamar a la “libertad para pecar” o libertinaje, sino por hablar de la “libertad respecto al dominio del pecado y de la muerte” que trae el evangelio. En la sección final del capítulo 3 (especialmente en 3:23-25), Pablo dice que “antes que viniese la fe, estábamos confinados bajo la Ley, encerrados para aquella fe que iba a ser revelada”. La Ley es como un “ayo” (Gál 3:24) que nos conduce a Dios y nos hace conscientes de nuestro pecado, pero no nos puede otorgar el poder para resolverlo de raíz. Sin embargo, por la cruz y la resurrección de Jesús, hemos quedado libres de la maldición y el yugo de la Ley y podemos avanzar hacia la libertad de la fe.

Por tanto, el desenlace del argumento de Pablo, centrado en Gálatas 3, es claro: “No somos salvos por las obras de la Ley, sino por la fe. Ahora recibimos el don del Espíritu Santo, y vivimos por el poder y el fruto del Espíritu”. Esta es la “potencia del evangelio”. El Espíritu Santo afianza nuestra justificación y nos guía en la siguiente etapa, la santificación. En la predicación y en el ministerio del pastor David Jang, se enseña frecuentemente cómo la morada del Espíritu Santo y su dirección transforman la vida personal y comunitaria. Jesucristo, a través de su muerte en la cruz, abrió de una vez por todas el camino de salvación, y el efecto de esa salvación se hace cada vez más vivo en nosotros mediante la acción continua del Espíritu Santo.

El conflicto entre “los deseos de la carne” y “los deseos del Espíritu” se describe con más detalle en Gálatas 5, pero en realidad, desde el capítulo 3 ya se insinúa cuando Pablo habla de “estar encerrados bajo la Ley”. Nuestra naturaleza carnal permanece inclinada al pecado, y la Ley solo sirve para revelar el pecado; no tenemos la capacidad de vencerlo por nosotros mismos. Pero con la venida del Espíritu, recibimos la fuerza para dominar el pecado (véase Rom 8). Si la Ley actúa como una norma externa que nos muestra nuestro pecado, el Espíritu obra desde lo más profundo de nuestro ser para regenerarnos y conducirnos a una vida acorde con la “justificación” que hemos recibido. En este sentido, el pastor David Jang enseña: “El creyente que ha experimentado la presencia del Espíritu Santo deja de centrarse únicamente en reglas y prohibiciones, porque es la gracia la que le da libertad, y esa libertad la emplea con un propósito bueno y con amor hacia los demás”.

En síntesis, el núcleo de Gálatas 3 puede resumirse así:

  1. La salvación es un “don de Dios”, que recibimos no por la Ley, sino por la fe.
  2. Nuestro antepasado en la fe, Abraham, fue justificado antes de la circuncisión.
  3. Mediante la cruz y la resurrección de Jesucristo, hemos sido librados de la maldición de la Ley y recibimos el don del Espíritu por la fe.
  4. Esta gracia no solo corresponde a los judíos, sino también a los gentiles, de modo que todos llegamos a ser un solo cuerpo como la descendencia espiritual de Abraham.

¿Por qué es tan importante esta verdad? Porque en la vida práctica de la fe, a menudo vacilamos entre la “Ley” y la “gracia”. Aun habiendo recibido la salvación, fácilmente nos invade el temor de que, si no cumplimos con ciertas normas, perderemos nuestra salvación, o caemos en el hábito erróneo de querer ser aprobados por Dios únicamente a base de nuestros méritos y obras. Pero cuando recordamos Gálatas 3 y la decisión del Concilio de Jerusalén en Hechos 15, nos aferramos de nuevo a los ejes fundamentales de la salvación cristiana: “solo por gracia” y “solo por fe”.

El pastor David Jang advierte: “Cuando la Iglesia se inclina hacia el legalismo, se debilita el poder liberador del evangelio, y surge una comunidad que juzga a los demás y practica una piedad meramente formal”. Además, enfatiza: “Por el contrario, si defendemos el verdadero evangelio, los creyentes, mediante el poder del Espíritu Santo, darán frutos de bondad, servirán al prójimo y vivirán de manera activa y dinámica venciendo al pecado”. Este “evangelio de la libertad” es justamente el mensaje que el Espíritu nos dirige a través de Gálatas 3.

El evangelio que debemos anunciar hoy es este: Por la muerte de Jesucristo en la cruz, todo aquel que crea en Él puede ser justificado. Así como Abraham fue declarado justo cuando creyó, también nosotros, al creer en el evangelio de Cristo, somos justificados y recibimos la morada del Espíritu Santo que nos da una vida nueva. Esta es la verdad sencilla y categórica de la “justificación por la fe” (이신득의).

Por último, el apóstol Pedro exhorta: “Estad siempre preparados para presentar defensa con mansedumbre y reverencia ante todo el que os demande razón de la esperanza que hay en vosotros” (1 Pe 3:15). Por ello, hemos de conocer con claridad la definición bíblica de la fe, la limitación de la Ley y el poder redentor de la cruz y la resurrección de Jesucristo que Gálatas 3 expone. Esta comprensión es el pilar que fortalece nuestra fe y el fundamento para llevar el mensaje del evangelio a quienes aún no conocen al Señor. Durante décadas, el pastor David Jang ha insistido en estos temas mediante predicaciones, libros y la formación de discípulos, reiterando que “aferrarse a este evangelio derriba toda barrera y libera de cualquier tipo de yugo religioso para experimentar la verdadera libertad”.

Al fin y al cabo, Gálatas 3 nos plantea la pregunta: “¿Recibisteis el Espíritu por las obras de la Ley o por el oír con fe?”. Y nos da la respuesta: “Lo recibimos por la fe, y por la fe somos justificados”. Esta es nuestra confesión y debe reflejarse en nuestra vida. Gálatas 3 nos insta a disfrutar de la libertad que hay en el evangelio, a crecer en el Espíritu y a ser uno en Cristo en la Iglesia. Este es el núcleo más simple y a la vez el más profundo de nuestra fe, que hemos de sostener siempre.

La prédestination et l’élection de Dieu – Pasteur David Jang

Les réflexions du Pasteur David Jang sur la prédestination et l’élection de Dieu

En exposant Actes 27, le Pasteur David Jang souligne que la vie de l’homme se déploie dans la prédestination de Dieu, comme un précieux itinéraire tracé par Lui. Selon lui, le terme « prédestination » ne signifie pas simplement que l’avenir humain soit mécaniquement fixé à l’avance. Il nous rappelle plutôt que Dieu nourrit de bons desseins, pleins d’amour, pour chacun de nous, qu’Il appelle et guide en fonction de Sa volonté. Le Pasteur David Jang décrit ce processus comme suit : « Dieu choisit l’homme, puis à travers ce choix Il le met à part et le conduit sur un chemin porteur de sens. » Le salut ne relève donc pas d’une simple opportunité hasardeuse, mais bien du fruit d’une profonde providence que Dieu a préparée avant même la création du monde.

Ce qu’il souligne constamment, c’est que cette vision de la prédestination ne nie pas la liberté humaine ni ne rend l’être humain passif. Au contraire, l’homme créé par Dieu est appelé à entrer en relation personnelle avec Lui et participe à Sa volonté grâce aux talents et caractéristiques uniques qui lui sont propres. Ainsi, à l’exemple de l’apôtre Paul, il explique que si l’on se détourne de la mission divine par crainte ou par ignorance, on risque de se heurter à des difficultés plus grandes encore. Car Dieu a clairement choisi Paul et a décrété qu’il doit aller à Rome pour y rendre témoignage de l’Évangile. En chemin, Paul affronte la tempête en mer et fait naufrage, mais finalement le plan de salut divin ne faillit pas : il s’accomplit. Cette prédestination de Dieu inclut une préservation et une conduite absolues qui surpassent les erreurs et la faiblesse humaines.

Le cœur du message de David Jang au sujet de la prédestination et de l’élection s’articule autour du « but » et de « l’amour ». Il ne s’agit pas d’une toute-puissance divine qui contraindrait aveuglément ou qui pousserait de force quelqu’un sur un chemin, mais bien de l’amour de Dieu qui accorde une valeur inestimable à chaque être humain et confère à chacune de nos existences un sens profond. De même, le nombre précis de 276 personnes mentionnées dans Actes 27 illustre combien Dieu préserve de façon admirable l’histoire du salut qu’Il a mise en route. Paul n’était qu’un « prisonnier » aux yeux de tous, mais, en réalité, il était la clé principale par laquelle le dessein extraordinaire de Dieu allait s’accomplir dans ce bateau où se trouvaient un centurion nommé Julius, divers soldats, des marins, ainsi que d’autres détenus. Au milieu de cette foule bigarrée, Paul écoute la parole de Dieu et la proclame, devenant ainsi l’instrument par lequel tous sont finalement sauvés.

En s’appuyant sur cet exemple, le Pasteur David Jang explique : « La prédestination et l’élection de Dieu ne concernent pas un individu isolé, mais incluent l’intention de sauver toute la communauté. » Quand le bateau qui transportait Paul est confronté à la tempête et semble sur le point de faire naufrage, la promesse divine dont bénéficie Paul ne se limite pas à son propre salut. Au contraire, Dieu lui dit : « Je te donnerai la vie de tous ceux qui naviguent avec toi. » Et cette perspective communautaire du salut demeure pertinente aujourd’hui pour l’Église et pour le travail missionnaire. Autrement dit, si Dieu appelle une personne en particulier, il se peut que les gens autour d’elle soient également conviés à la grâce du salut. Au sein de l’Église, la foi d’un seul peut influencer celle des autres, ouvrant un horizon plus vaste au salut. En Actes 16, l’épisode où le geôlier de Philippes, après avoir reçu le salut par l’entremise de Paul et Silas, amène aussitôt toute sa maison à croire au Seigneur, illustre parfaitement ce principe.

À travers ce récit des Actes, le Pasteur David Jang insiste encore sur la souveraineté fidèle de Dieu. Même si notre vie est parfois ébranlée comme un navire dans la tempête et que nous nous retrouvons projetés au cœur de maints dangers et épreuves, nous pouvons garder espoir en cherchant notre chemin dans la prédestination et l’élection de Dieu. Au fil de notre parcours, des portes se referment et des chemins semblent se couper. Pourtant, à ce moment précis, Dieu nous guide vers d’autres voies qui, elles, s’ouvrent grand devant nous. Il n’y a donc pas lieu de désespérer. Le Pasteur David Jang va jusqu’à dire : « Pour un croyant, le terme “désespoir” est inconcevable. » Il souligne que la providence de Dieu est toujours bonne, et que même dans le désespoir, Il nous accorde l’espérance qui transforme notre existence.

En fin de compte, la théologie de la « prédestination et de l’élection » prônée par David Jang repose sur cette conviction : « Dieu a forcément un plan bon à réaliser à travers moi. » C’est une foi qui donne une grande force, tant au plan spirituel que psychologique. Quelles que soient la place ou la situation qui nous échoient, un dessein divin s’y dissimule inévitablement. De la même façon que les multiples péripéties rencontrées par Paul sur la route de Rome ne furent jamais le fruit du hasard, les obstacles auxquels nous faisons face de nos jours, si nous plaçons notre confiance profonde en Dieu, pourraient se révéler, au terme du chemin, des événements de salut pour nos vies.

Le Pasteur David Jang affirme que cette prise de conscience est capitale, aussi bien dans l’édification personnelle que dans la vie communautaire ou le champ missionnaire. Dans la pratique, nombre de projets ecclésiaux ou d’initiatives missionnaires semblent parfois avancer dans des directions incompréhensibles à nos yeux, ou se voient contraints de chercher des opportunités dans des lieux inattendus. Mais, selon lui, « lorsque ceux que Dieu a choisis se rassemblent pour prier et rédiger l’histoire de l’œuvre de Dieu en tant que communauté, même si une porte se ferme, le Seigneur en ouvrira aussitôt une autre ». En effet, il arrive souvent qu’une situation qui semblait vouée à l’échec se transforme subitement en un temps de grande prospérité, où de beaux fruits sont récoltés. Voilà pourquoi, chez David Jang, l’accent mis sur la prédestination et l’élection découle d’une ferme certitude : « Nous acceptons la route de la vie uniquement dans la foi, et d’une manière ou d’une autre, le plan de Dieu s’accomplit toujours. »

L’itinéraire de la vie et la foi au sein des tempêtes : application d’Actes 27

Un autre message central que le Pasteur David Jang veut transmettre en se basant sur Actes 27 concerne l’attitude de foi consistant à rester à son poste et à accomplir la volonté de Dieu même au cœur de la tempête. L’épisode où Paul embarque pour Rome est rempli de rebondissements et ne peut être survolé à la légère. Paul, prisonnier, est confié au centurion Julius. À bord, on trouve d’autres détenus transférés à Rome, des soldats, des marins, un capitaine et des marchands. Il s’agit d’un navire de commerce transportant du blé, dont la route et la vitesse dépendent entièrement des vents et des conditions climatiques, puisque c’est un bateau à voiles. À l’époque, naviguer en Méditerranée reposait beaucoup sur les vents saisonniers et les courants marins ; c’est pour cela que la narration d’Actes 27 est particulièrement précise, reflétant l’expérience directe de « Luc, le médecin », qui a lui-même vécu cette traversée et en a fidèlement noté chaque détail.

Le Pasteur David Jang souligne la rigueur de cette narration, encourageant les croyants à devenir, à l’image de Luc, des chroniqueurs fidèles de l’œuvre de Dieu. Dans le ministère pastoral ou missionnaire, les détails apparemment secondaires ne sont pas à négliger, car rien n’est anodin devant Dieu, et ces informations peuvent constituer un précieux héritage de foi pour les générations futures. Par exemple, le nombre de 276 personnes à bord, les escales et les ports traversés, le nombre de jours où le vent fut contraire, le type de vent qui souffla – tout ceci manifeste visiblement l’histoire du salut et la providence de Dieu. Selon David Jang, « le récit humain » témoigne de l’action divine, devenant un canal de bénédiction pour ceux qui le liront plus tard. C’est ainsi que le journal de bord d’un voyage missionnaire, une chronique de la fondation d’une Église ou la description minutieuse de nos grâces reçues dans la vie quotidienne peuvent inspirer, édifier et faire grandir la foi de beaucoup.

Il attache autant d’importance à Actes 27 parce que cette traversée en mer est une métaphore de notre vie. Il y a des moments où le vent souffle en notre faveur et où tout va bien, mais aussi des périodes où la tempête s’abat, nous secoue et nous fait craindre le naufrage. Dans ce récit, Paul, fort de son expérience, pressent le danger que constitue la poursuite du voyage et met en garde l’équipage contre la grave perte et la menace pour la vie qui se profilent. Ainsi, David Jang précise qu’une personne de foi n’a pas pour unique vocation de proclamer des prophéties surnaturelles, mais doit aussi s’investir concrètement dans la réalité, observer minutieusement le terrain et user d’un regard sagace. En mission, il faut comprendre la culture, la géographie, la langue, les us et coutumes locaux, et planifier comment répondre aux besoins concrets. Comme le dit David Jang, « La vraie mission commence dans un profond amour pour la terre de mission et ses habitants, à l’exemple de Paul. » Il ajoute que Paul n’a pas décrété l’incompétence du capitaine du navire ; il a plutôt anticipé le danger grâce au discernement que Dieu lui donnait, associé à son expérience pratique.

Toutefois, les gens préfèrent parfois se fier uniquement aux soi-disant « spécialistes » – comme le capitaine, le propriétaire du bateau ou les marins – plutôt qu’aux avertissements d’un homme de foi. Comme Paul l’avait prévu, le navire est bientôt pris dans une violente tempête, si bien que, pendant plus de deux semaines, les passagers, en proie à une angoisse extrême, ne peuvent même plus se nourrir. C’est alors que le rôle de Paul prend une tournure décisive. Il exhorte l’équipage : « Maintenant, reprenez courage ! », avant de partager la vision reçue dans la nuit : « Un ange de Dieu s’est tenu près de moi et m’a dit : “Sois sans crainte, Paul, il faut que tu comparaisse devant César ; et voici que Dieu t’accorde la vie de tous ceux qui naviguent avec toi.” » Le Pasteur David Jang souligne combien une seule personne de foi peut sauver un grand nombre d’hommes. La parole de Paul, au milieu de ces passagers secoués par la tempête, leur rend le courage de vivre et l’espoir qu’ils avaient perdu. Il les encourage à manger et leur déclare : « Pas un cheveu de votre tête ne se perdra. » Cette conviction s’étend alors à tout l’équipage, et même après le naufrage, chacun survit et atteint le rivage sain et sauf.

Dans cet événement, David Jang voit « un exemple frappant de la puissance de la foi d’un seul qui peut sauver la multitude ». Quand la barque de notre existence est malmenée par la tempête et que nous nous sentons démunis, nous devons faire entendre la voix de la foi. Il ne s’agit pas d’un optimisme creux, ni d’une assurance sans fondement, mais de la certitude qui découle de la Parole de Dieu. Dans le cas de Paul, Dieu lui avait promis : « Tu iras témoigner à Rome. » C’est pourquoi il a pu annoncer : « Peut-être le navire fera-t-il naufrage, mais aucune vie ne sera perdue. » Ainsi, la terrible tempête décrite au chapitre 27 devient un instrument pour révéler la providence de Dieu, car, après le naufrage, Paul atterrit sur l’île de Malte (Melita), où il vivra d’autres miracles et opportunités d’évangélisation. Selon le Pasteur David Jang, « les crises de la vie ne sont pas nécessairement la fin, mais peuvent devenir le point de départ d’une nouvelle mission et d’une grâce renouvelée. »

Dans l’itinéraire de la vie, il arrive que des vents contraires se lèvent brutalement, anéantissant nos projets et ressources. Pour David Jang, c’est précisément le moment où la foi doit briller plus que jamais. Même si la tempête est terrible, nous tenons ferme à la promesse de Dieu, convaincus qu’Il nous sauvera et qu’Il ouvrira une route nouvelle pour la mission qu’Il nous confie. Si nous sommes dépourvus de cette certitude, nous risquons de dériver comme un bateau sans gouvernail ; si nous l’avons, nos simples paroles ou nos prières peuvent transmettre une espérance immense à notre entourage.

Le Pasteur David Jang compare cette épreuve à un « mal de mer » qui fait partie du passage obligé sur l’océan de la vie. On est tenté de tout abandonner tant la souffrance est intense, mais si l’on persévère un peu, on finit par apercevoir la côte, et toute anxiété s’effondre devant les lumières du port qui se dessinent. Dans la navigation de la foi, c’est la même chose : même sous la souffrance la plus aiguë, Dieu ne tarde jamais à révéler le rivage où Il nous accueillera. Notre tâche consiste à continuer de prier, à nous encourager mutuellement et à garder le cap. Comme Paul, qui criait aux marins et aux prisonniers sur le point de sombrer : « Courage, reprenez des forces, car Dieu nous sauvera ! », l’Église d’aujourd’hui doit apporter la force de vivre à ceux qui souffrent et désespèrent. C’est ce que le Pasteur David Jang enseigne concrètement dans son ministère, visitant ceux qui traversent la précarité, la maladie, la peur, et rappelant à ses collègues qu’ils ont à incarner la même posture que Paul en Actes 27.

Cette foi au milieu de la tempête insuffle un élan vital à l’Église et aux communautés missionnaires. Lorsque les croyants et les serviteurs s’unissent en prière, se souvenant que « Dieu a promis que nous arriverions assurément à destination », l’on peut affronter avec confiance les obstacles. Grâce à divers témoignages et retours de missions, le Pasteur David Jang répète que « les vagues et la tempête peuvent se lever, mais la promesse de Dieu demeure inébranlable ». En pratique, l’essor d’une Église ou la fondation d’un centre missionnaire, ou encore la création d’une école, peuvent essuyer des vents contraires : manque de moyens financiers, blocages administratifs, conflits culturels, etc. Pourtant, si c’est réellement Dieu qui ouvre la voie, les portes finissent par s’ouvrir et une dynamique nouvelle peut naître. « La tempête en mer que Paul a affrontée sur le chemin de Rome » peut être perçue comme une image de toutes les difficultés que rencontrent les missionnaires à l’étranger, ou que subissent familles et Églises à travers les crises financières, structurelles ou spirituelles. Dans chacun de ces cas, la voix d’une seule personne de foi peut changer radicalement la donne et relever ceux qui étaient au bord du désespoir, explique David Jang en se référant au chapitre 27 du Livre des Actes.

Écrire et témoigner : la transmission de l’œuvre du Saint-Esprit selon David Jang

Dans ses prédications, le Pasteur David Jang répète souvent : « Écrivez ! » Actes 27 nous montre la précision factuelle de Luc qui, en racontant cette traversée, a légué à l’Église de tous les temps un récit d’une puissance spirituelle inestimable. Sans les détails qu’il a consignés, nous serions incapables de savoir ce qu’a véritablement enduré Paul lors de ce voyage vers Rome et quelle forme a pris la délivrance divine. Dans des conditions de survie extrême, il est déjà surprenant que Luc ait pu prendre la plume et mettre tout cela par écrit. David Jang voit dans cette démarche un véritable acte de consécration, par lequel on s’engage à rendre compte de la manière dont Dieu agit au cœur de l’histoire.

C’est pourquoi il encourage les pasteurs, les missionnaires et les laïcs à « noter au quotidien ce qui se passe : où vous êtes allés, qui vous avez rencontré, quelles grâces vous avez reçues, quelles difficultés vous avez traversées… Écrivez avec précision ! Cela constituera non seulement votre propre héritage, mais un trésor spirituel pour toute la communauté. » En effet, l’héritage le plus précieux qu’une Église puisse transmettre n’est ni l’édifice ni les finances, mais le témoignage vivant du Saint-Esprit à l’œuvre. David Jang préconise alors de recourir de manière active et organisée à différents supports – carnets de notes, journaux de mission, vidéos, archives numériques… – pour consigner et partager ce que Dieu fait. À l’ère du numérique, il est à la fois plus aisé d’enregistrer et de partager, mais le flot d’informations est si vaste que l’essentiel risque de se perdre. C’est pourquoi il insiste sur l’importance d’une pratique systématique de l’écriture.

Après tout, la Bible elle-même est un recueil de témoignages écrits. Les traditions orales, transmises de bouche à oreille, peuvent s’altérer ou disparaître, tandis qu’une fois figée dans l’écriture, l’histoire demeure. Grâce aux notes détaillées de Luc – accompagné de Paul et d’Aristarque de Thessalonique –, toutes les péripéties impressionnantes de la tempête décrite dans Actes 27 et la voix de Dieu qui se fait entendre au milieu de l’épreuve se trouvent à la portée de générations de croyants, leur insufflant force et réconfort. Or, c’est de la même manière qu’aujourd’hui, dans les Églises et les lieux de mission, nous pouvons écrire et léguer des récits susceptibles de nourrir la foi de ceux qui nous suivront.

Le Pasteur David Jang déplore parfois que, faute de cette « tradition d’archive », il arrive qu’une communauté chrétienne ne parvienne pas à transmettre aux successeurs les grâces et le réveil dont elle a été bénéficiaire. Si chaque événement notable avait été fidèlement noté – qu’il s’agisse d’épreuves, de victoires, de décisions cruciales –, un nouveau pasteur ou un nouveau missionnaire arrivant pourrait découvrir comment Dieu a agi dans cette Église. Cela le pousserait à rehausser son niveau de foi et, par suite, à amener une nouvelle croissance dans l’assemblée. Sans documentation, on risque d’oublier ou de négliger les erreurs, les défis et les bénédictions du passé, et l’Église peut perdre une partie de son patrimoine spirituel. Voilà pourquoi il affirme : « Nous devons être le Luc d’aujourd’hui. » Malgré le chaos de la tempête, Luc n’a jamais abandonné la plume, et son témoignage a nourri la foi de l’Église durant deux millénaires.

David Jang précise que l’on ne devrait pas se contenter de consigner les réussites spectaculaires et les miracles. Les échecs, les obstacles, les conflits humains, les manques de ressources financières doivent aussi apparaître dans les écrits, car c’est ce réalisme sincère qui aidera réellement autrui. Dans Actes 27, Luc ne dissimule pas la souffrance collective, la peur, la perte du matériel jeté par-dessus bord pour alléger le navire. Et c’est grâce à cette honnêteté que nous pouvons comparer nos propres crises aux leurs et découvrir que le même Dieu opère aujourd’hui dans notre détresse. Pour David Jang, « transmettre l’œuvre du Saint-Esprit implique de raconter aussi bien la gloire que la honte, la joie comme la douleur, le succès comme l’échec. »

En effet, il est possible qu’une mission doive fermer temporairement ses portes et se retirer. Cela ne signifie pas que rien de significatif ne s’y est produit. Si l’on dresse un bilan détaillé du nombre de personnes touchées par l’Évangile, des leçons apprises, des difficultés rencontrées, on s’en servira le jour où Dieu rouvrira un champ missionnaire, et l’on pourra servir plus sagement, plus efficacement. Et il se peut même qu’on assiste, avec le recul, à une réouverture miraculeuse du même champ, et que les lecteurs de ces écrits, des années plus tard, s’émerveillent de la fidélité de Dieu dans Son histoire du salut.

Le Pasteur David Jang élargit ensuite cette vision de la rédaction à la vie personnelle. Il encourage chacun à méditer chaque jour la providence de Dieu, à noter les personnes croisées, les paysages contemplés, la Parole reçue, les actions de grâce vécues. Même un simple mot, reflétant l’émotion causée par le Saint-Esprit, peut faire des merveilles lorsqu’on le relit plus tard. Que ce soit une phrase laconique ou un long témoignage, ce qui est consigné ne s’éteint pas et peut affermir la foi dans la durée. Relire ces lignes nous rappelle la façon dont Dieu est intervenu dans nos blessures, combien nous étions faibles et comment nous avons grandi et guéri, suscitant en nous une nouvelle gratitude.

David Jang insiste enfin sur la « portée missionnaire » de cette pratique de l’écriture et du témoignage. Nous disposons aujourd’hui de tant de moyens (vidéos, réseaux sociaux, expositions photo, etc.) qu’il devient possible de diffuser largement nos récits. De la même manière qu’Actes 27, écrit par Luc, est lu et étudié sur toute la planète deux mille ans après les faits, un écrit d’aujourd’hui peut, dans l’avenir, sauver et fortifier un grand nombre de personnes. De même que Paul, au beau milieu de la tempête, déclare avec assurance : « N’ayez pas peur ; Dieu m’a promis de vous garder tous en vie », nous aussi pouvons communiquer, à travers notre témoignage, le message de l’Évangile à ceux qui vivent dans la crainte et l’angoisse.

Le Pasteur David Jang donne l’exemple de différents terrains missionnaires à travers le monde : il arrive qu’un conflit politique y éclate, entraînant l’expulsion rapide des ouvriers chrétiens, ou que la précarité économique rende la continuité de l’œuvre incertaine. Toutefois, même si la mission ne dure qu’un mois, des notes et des archives détaillées permettront aux suivants de poursuivre l’évangélisation avec plus de prudence et d’efficacité. Mais surtout, ces écrits incarnent la prière, les larmes, la persévérance, les combats intérieurs et les grâces de Dieu octroyées à ceux qui nous ont précédés. Ils permettront à leurs successeurs de recevoir un nouvel élan missionnaire, motivés par le même amour et la même vision.

C’est dans cette perspective que David Jang affirme : « L’écriture et le témoignage ne consistent pas simplement à accumuler des informations, mais à transmettre l’œuvre du Saint-Esprit. » La Bible, l’histoire des grands réveils de l’Église, les journaux des missionnaires d’antan sont autant d’exemples décrivant comment les croyants d’autrefois ont rencontré Dieu, suivi Sa Parole et été témoins de Ses miracles. En les lisant, nous prenons conscience que le même Dieu agit encore parmi nous aujourd’hui.

David Jang encourage donc les fidèles à vivre « à la manière de Paul et de Luc ». Même si notre vie nous semble périlleuse comme un navire proche du naufrage, nous ne devons pas douter de la prédestination et de l’élection divines. Nous devons proclamer avec hardiesse une espérance enracinée dans la Parole de Dieu. Et tout au long de ce parcours, nous sommes appelés à noter scrupuleusement les événements afin que l’Église de demain puise elle aussi dans ce trésor écrit. De la même façon que la parole déterminée de Paul a sauvé les 276 passagers, la voix de foi d’un croyant aujourd’hui peut relever un nombre incalculable de personnes qui s’abandonnent au découragement.

C’est dans ce sens que David Jang revalorise l’individu dans la perspective de la « prédestination et de l’élection » divines. La vie de chacun n’a rien de négligeable ; bien au contraire, le récit et le témoignage d’« une seule personne » peuvent influencer et transformer tout un ensemble, voire le monde entier et l’Église des générations futures. Et si « la traversée et la tempête » de Paul passionnent tant de lecteurs encore aujourd’hui, c’est parce qu’elles renvoient à une expérience humaine universelle. De même, nos luttes, nos tempêtes vécues en temps réel, une fois consignées, pourraient devenir un jour un récit d’espérance pour de nombreuses personnes qui affronteront des situations analogues.

Pour résumer, le Pasteur David Jang, en s’appuyant sur Actes 27, développe trois points principaux. Premièrement, notre vie se déroule dans la prédestination et l’élection de Dieu, révélant clairement Son dessein et Son amour pour l’humanité. Deuxièmement, c’est dans la tempête que la foi devient indispensable ; à l’exemple de Paul, nous devons nous saisir fermement de la promesse divine et secourir ceux qui nous entourent. Troisièmement, la consignation et le témoignage permettent de transmettre la dynamique de l’Esprit ; à l’instar de Luc, il ne faut jamais renoncer à écrire, même dans les circonstances les plus dures. Tels sont les enseignements fondamentaux que le Pasteur David Jang adresse à l’Église et aux croyants à partir du chapitre 27 des Actes, et ils conservent toute leur pertinence dans le monde actuel. Chacun de nous est appelé à devenir Paul, ou Luc, et à « témoigner sans relâche de l’histoire du salut de Dieu », ce qui constitue l’essence même de notre mission en tant que communauté de foi.

De cette manière, David Jang relie l’histoire ancienne des Actes à la réalité contemporaine de l’Église, soulignant que la Parole de Dieu et l’action de l’Esprit ne sont pas limitées à une époque ou à un lieu précis. La tempête survenue durant le voyage de Paul vers Rome n’a pas abouti à un échec, ni à un récit de peine vaine : elle est devenue, au contraire, le cadre d’un salut miraculeux pour tous, jetant les bases de la prédication de l’Évangile à Rome. Grâce au récit détaillé de Luc, nous pouvons encore aujourd’hui revivre ces faits avec la même intensité et célébrer le même Dieu. Et comme le répète inlassablement David Jang, un nombre incalculable de croyants, de par le monde, continue de faire l’expérience de portes qui se referment pour mieux se rouvrir ailleurs, de désespoirs métamorphosés en espoirs, de tempêtes qui deviennent tremplin pour l’annonce de l’Évangile.

Au fond, tout repose sur la conviction que « Dieu a déjà prédestiné et élu », sur une foi inébranlable qui refuse de céder devant la tempête, et sur la volonté de coucher par écrit ce cheminement afin de le communiquer aux générations à venir. C’est sur ces trois points que le Pasteur David Jang estime que l’Église authentique doit se construire, que l’œuvre missionnaire peut s’étendre, et que la foi individuelle s’approfondit. Dans toute époque et dans toute communauté, Actes 27 nous montre que Dieu demeure vivant et se manifeste de manière identique. Quand la parole de Paul affirme : « N’ayez pas peur ! », elle vient se graver dans nos cœurs et, dès lors, la communauté de croyants peut poursuivre sa route sans vaciller. Alors tous ceux qui ont goûté la prédestination, l’élection et la fidèle direction de Dieu possèdent en eux la force de vivre dans un monde qui chancelle et d’y faire rayonner l’espérance d’un salut accordé à tous. Enfin, c’est en laissant un témoignage écrit de notre traversée que nous participons à l’œuvre grandiose du Saint-Esprit jusqu’aux confins de la terre et jusqu’à la fin des temps. Voilà l’idéal d’une Église « à l’image des Actes des Apôtres » que David Jang appelle de ses vœux et proclame inlassablement.

上帝的预定与拣选——张大卫牧师


师对上帝与拣选的洞

在讲解《使徒行传》第27章时,张大卫牧师强调了:人类的生命旅程是在上帝的预定之中展开的宝贵旅程。他所说的“预定”并不意味着人的未来被机械式地提前固定;相反,他提醒我们,上帝对每一个人都怀有良善而慈爱的旨意,并按着这个旨意呼召并引导人。张大卫牧师把这一过程描述为“上帝拣选人,并通过这种拣选将人分别出来,引领他们走向有目标的道路”。由此可见,得救之路绝非偶然出现的机会,而是上帝在创造世界之前就已经计划好的深层奥秘。

他经常强调的一点是:这种预定思想绝不否定人的自由,也不会让人变得被动。相反,上帝创造人就是为了在人格性的关系中呼召他们,并让每个人凭借自己独特的才干和个性,参与到上帝所预定的旨意中去。因此,张大卫牧师举使徒保罗为例:若因为人的恐惧或无知而拒绝神所赐的使命,最终只会陷入更大的患难。上帝确实拣选了保罗,也决定让他一直到罗马去见证福音。过程中,虽然保罗在航行中遭遇狂风并经历船破之险,但上帝的救赎计划终究不会失败,反而得以成就。由此可见,上帝的预定不仅超越了人的过失与软弱,还包含了绝对的保守与引领。

在张大卫牧师的阐述中,预定与拣选的核心在于“目的”与“爱”。这不是一个盲目地把人拖向某条道路或用神力逼迫人去某个方向的概念,而是以上帝珍视每一个人的生命,并为其赋予深远意义的爱为根基。《使徒行传》27章中提到具体的数字——276人,正显示出上帝对祂所托付的救恩故事有何等奇妙的保守。保罗在船上虽然只是一名“囚犯”,但实际上却是成就上帝奇妙旨意的关键人物。船上有百夫长犹流,也有各类士兵、水手以及其他囚犯。在这样一个庞大的人群当中,保罗却能聆听上帝的声音,并宣告这声音,使所有人都得到拯救的机会。

张大卫牧师指出:“上帝的预定与拣选并非只为了某一个人,而是包含了对整个群体的拯救意图。”当保罗所乘的船遭遇狂风、濒临破船之际,上帝给保罗的信息并不是只保全他一个人的承诺,而是“与你同船的人,我都要救活”。这一信息也适用于今天的教会和宣教场所。换言之,当上帝呼召某个特定的人时,其周围的人也可能同时被邀请进入这救恩之恩典。在教会这个群体中,一人的信心往往能够影响他人,从而开启更加广阔的救恩之门。《使徒行传》第16章中,腓立比的狱卒因保罗和西拉而信主,并且全家都跟着一起信主,这正是这一原理的生动例证。

通过对《使徒行传》的讲解,张大卫牧师不断地向信徒们重申上帝信实的统治。即使我们的生命有时像在狂风大作的船上一样动荡不安,被各种危险和苦难所包围,但在上帝的拣选与预定里,仍能找到道路并怀抱盼望。人生旅途中,我们会遭遇关上的门、看似断绝的路。然而在那个时刻,上帝也会通过意想不到的方式,为我们开启另一扇大门,因此无需绝望。张大卫牧师用一句话来表达这种信念:“对有信心的人来说,‘绝望’一词是不存在的。”上帝的旨意始终良善,即使在绝望中,祂也能逆转人生,并赐下盼望。

因此,张大卫牧师提出的“预定与拣选”神学,核心就在于对“上帝必定透过我成就美善计划”的确信之上。这在灵性层面和精神层面,都是莫大的力量。无论我们身在何处、处于何种境况,那里都必然藏有上帝的目的与启示。正如保罗在前往罗马的路上经历许多苦难,并非偶然;我们今天所面对的种种困境,在深切地信靠并仰望上帝时,也能变成救恩的事件。

张大卫牧师教导,这种觉悟对于个人的敬虔生活、群体生活和宣教领域都至关重要。教会、学校以及各种宣教工场常常会走向令人费解的方向,或在意料之外的地方找到机会。然而只要“上帝所拣选的人聚集在一起祷告、记录、作工”,就能经历到上帝在关上一扇门时,为我们打开另一扇门的奇妙带领。看似不可能的处境,只要赶上上帝所预备的时机和地点,往往会蓬勃兴盛,结出美好的果实。就此可见,张大卫牧师关于预定和拣选的强调点,源于对“人生道路唯有用信心来领受,并且无论如何,上帝的计划终将完成”的坚定信念。


人生航程中的信心:《使徒行》27章的

张大卫牧师透过《使徒行传》27章所传递的另一个关键信息是:即便在狂风大作的环境中,也要坚守自己的位置,践行上帝旨意的信心态度。保罗登船前往罗马的情节,若只是一带而过,就会错失那跌宕起伏的细节。保罗因“囚犯”身份被交给百夫长犹流,船上有被押送到罗马的数名囚犯、士兵、水手、船长及商人们。这是艘装载谷物的商船,依靠风向和天气来决定航线与航速。在当时,地中海的航海严重受制于季风与洋流,《使徒行传》27章所记载的过程之所以如此具体,是因为“医生路加”亲身经历了这次航行,并忠实地记录下了细节。

张大卫牧师高度评价了这种详实的记述,并呼吁“要像路加一样,成为忠实的记录者”。无论在牧会还是宣教事工中,哪怕是看似微不足道的信息和经历,在上帝面前都不算微小,它们或许会成为后世珍贵的信心遗产。例如,第27章详细描述了船上有276人、从哪个港口到哪个港口、风向如何阻挡、刮的是什么风等,这些细节使我们能更直观地看到信心的历史与上帝的救恩旨意。张大卫牧师强调:“人所写下的记录本身,就成为上帝工作过的痕迹,也可在将来成为拯救他人的通道。”宣教旅途、教会植堂过程、日常生活中的大大小小恩典,只要我们认真记录与保存,它们就能够激发许多人灵命的成长和挑战。

他之所以特别关注《使徒行传》27章,是因为这次航海几乎象征了我们的人生。船有时会遇到顺风,航行顺利;有时却会碰到强风大浪,甚至被迫扔掉货物或有沉船的危险——所有境况都可能出现。保罗虽然没有船长或水手的丰富航海经验,却明察时势,看出若继续航行将遭受严重损失,并可能危及生命。此处透露出一个信息:真正有信心的人并不只会讲超自然的预言,而是能够深入了解现场、熟悉周围环境,进而做出明智的判断。宣教工场也需要同样的智慧:必须先了解当地文化、地理、人们的语言和习俗,制定切实可行的计划。张大卫牧师说:“真正的宣教始于像保罗一样,真心爱那片土地、关切那片土地上的人,并愿意深入了解他们。”所以,他解释:“保罗并不是说船长缺少知识,而是通过上帝赐下的洞见与自己现实的阅历,先一步感知了即将到来的危机。”

然而,有时人们只听信船长、船主以及那些“航海专家”的说法,忽视了信心之人的提醒,最终正如保罗所预料的那样,船被狂风席卷,十几天食不下咽,所有人都恐慌至极。这时,保罗的角色便凸显得十分突出。他勇敢地宣告“现在可以放心”,并分享说“昨夜有上帝的使者站在我旁边,对我说:‘保罗,不要害怕,你必定要站在该撒面前,并且与你同船的人,上帝都赐给你了’”。如此,他向276名同船人传达了他们都将得救的好消息。张大卫牧师认为,这幕场景表明了“一个人的信心能使多少人得生”。保罗的一句话,抓住了所有被狂风巨浪所冲击、濒临崩溃的人心,让他们重新获得生存下去的勇气和希望。事实上,保罗还鼓励他们进食并宣告“你们连一根头发都不会损失”,正是这份信心与宣告使得他们在船只触礁破碎后,仍无一人丧命。

由此,张大卫牧师提醒我们:“当人生的船只摇摆不定,或遭遇狂风之时,也要能够发出信心的声音。”这份信心绝非空洞的乐观,也不是毫无根基的自信,而是基于“上帝的话语”。上帝曾对保罗说:“你一定要在罗马作见证”,保罗因此有把握断言:“或许船会破,但我们的生命必不至于丧失”。同时,这也让《使徒行传》27章中那场惊心动魄的航行危机,成为彰显上帝主权和带领的器具:船破后他们抵达马耳他(又称米利大)岛,保罗得以在那里行神迹、继续宣讲福音。张大卫牧师指出:“我们所遭遇的危机并不是恐惧或失败的终点,而有可能成为新的事工与恩典的开始。”

在人生的航程中,常有突如其来的狂风,将我们迄今的计划与物质基础摧毁殆尽。张大卫牧师表示:“此时正是信心大放异彩的时刻。”不管境况多艰难,只要拥有上帝的应许,就一定会被带领得到拯救,并且踏上要去完成的使命之路。如果没有这种确实的把握,就会随波逐流、茫然失措;若能紧握这份把握,仅仅一言一语或一声祷告,也能给周围的人带来巨大的希望。

他甚至把这样的狂风经历比作“航海中的晕船,也是一种人生的仪式”。在痛苦到想放弃一切的时候,只要坚持一阵,就会看到“陆地的海岸”——终会抵达港口。凡经历过晕船的人都懂,当看见港口灯火时,会感到极大的安慰和解脱。张大卫牧师说,信心的航行也是如此。我们或许会饱尝无尽苦楚,但终有一天“上帝要带我们靠岸”的时刻不会迟到。在这过程中,我们要继续祷告、彼此鼓励,守住内心的中心。正如保罗在船将沉没时,对水手和囚犯喊话:“振作起来,现在吃点东西,上帝会拯救我们”,今天的教会也应当在苦难与绝望之中,为人们带去生存的力量。在现实事工里,张大卫牧师常鼓励那些处境艰难、贫病交加或被恐惧束缚的人,效法《使徒行传》27章的保罗,发挥同样的作用。

这样的“狂风中信心”也会为教会和宣教群体注入活力。事工者与信徒携手同心祷告,相信“上帝必带我们到达目的地”。张大卫牧师多次以见证和事工报告说明:“不管风浪多大,上帝的应许都不会动摇。”事实上,教会的扩展、宣教中心或学校的建立等,往往都会遭遇资金短缺、行政障碍、文化冲突等“狂风”。但若真是上帝所敞开的道路,最终一定会被打开,从而迎来新的复兴。或许,“去罗马之前遇到海上的狂风”,正象征了宣教士在海外遭遇的种种困难,以及家庭、教会在财务、组织、灵命上所碰到的危机。每当我们面对这些困境之时,信心之人的声音往往具有无可替代的价值和扭转局势的力量。张大卫牧师借《使徒行传》27章使徒保罗的经历,极力凸显了这一点。


记录与见证为传圣灵之工的

在多次的讲道中,张大卫牧师反复强调“要记录”。《使徒行传》27章中,路加对于航海过程的翔实且具体的记载,使这段经历两千年来被无数基督徒读诵、讲道、默想,带来了深远的恩典与启迪。倘若路加当初没有写下这些细节,我们就无法知道保罗去罗马的路上究竟经历了怎样的考验,又如何在那样的方式中领受了神奇的拯救。从人性的角度看,当人们在生死关头之际,路加依旧能握着笔认真记录风浪中的点滴,本身就令人感到惊异。张大卫牧师称这种记录工作为“投身于上帝工作的方式”。

因此,他常敦促教会事工者、宣教士和平信徒领袖们:“请记录你们今天的故事。你们去了哪里,见了谁,蒙了什么恩典,又经历了什么困难,都要具体地写下来。那不仅仅是你们个人的遗产,更是整个群体的属灵资产。”对于教会而言,最宝贵的传承绝不是建筑或金钱,而是见证“上帝是又真又活”的那份“圣灵之工”。为此,张大卫牧师也鼓励善用日记、传道日志、宣教报告以及照片与视频等各种媒介。在当今信息高度发达的时代,记录更加方便,与大众分享也更加容易,但海量而分散的资讯反而可能让信仰旅程的核心渐渐模糊不清,这就更需要有计划、有意图地坚持写作和整理。

实际上,整本《圣经》就是由记录累积而成。口口相传的故事容易被遗忘或篡改,一旦认真写下来,就能让内容在岁月中被完整保留。若不是路加如此详尽地写下保罗、亚里达古等人在航海中亲历的惊险场景,以及上帝对保罗的应许和带领,我们今天也无法通过文字获得如此真实而强烈的灵命激励。因此,张大卫牧师认为,当代教会或宣教场景若能同样地记录,未来必定会有更多人阅读并因此赞美上帝。

然而,张大卫牧师也感慨地提到:某些牧会或宣教场所因为“缺乏记录的传统”,导致前辈们所经历的复兴和恩典,难以传递给后代。假如我们能留下完善的档案和文本,当新一任牧者或事工人员阅读这些资料时,必会感叹“原来这里曾经见证了如此奇妙的神迹”,从而重新被信心激发,带动群体的复兴。反之,若无记录,就难以重复或学习前辈的经验与教训,因而可能与过去那些宝贵的恩典失之交臂。他由此呼吁:“要成为《使徒行传》27章里的路加!”纵使在极端困境中,路加也没有放弃记录的理由,而他的努力让后世教会得以分享这伟大的见证。

同时,他特别提醒:记录不应只关乎成功或大奇迹,也要包含挫折与人性的软弱、经济上的失败、彼此冲突等种种过程。只有这样,后人才能得到真正的帮助。保罗那次航行并不只是一次辉煌的胜利,而是所有人都在剧烈晕船、不得不丢弃货物、面临生死攸关的绝境。可是,路加把这一切都记下了,借此我们才能对应自己的危机情境,并看到同一位上帝如何介入保罗的绝望里,也一样能介入当下我们的绝望之中。张大卫牧师称之为“将荣耀与羞辱、欢欣与悲伤、成功与失败都如实记录并分享,是圣灵工作得以传承的方式”。

在现代教会或宣教事工当中,也难免出现某个宣教点需要暂时关闭或撤离的状况。然而,这并不代表曾在那里发生的一切都毫无意义。只要把曾经传过多少福音、经历了何种困难和学习到哪些功课,一一详细记载,或许在上帝日后再度敞开那扇门时,能以更健康、更有效的方向重新开展事工。更何况,也可能在某个时刻,上帝会再度把那扇曾经关闭的大门完全敞开,翻阅过去的记录,人们会惊叹“原来上帝一直如此信实地推进祂的救恩”,从而经历深切的感动。

张大卫牧师同时鼓励个人生活也要运用这种记录的方式。只要每天静下心来反思上帝的旨意,写下今日遇见了哪些人、看见了哪些景象、上帝所赐予的经文和感恩,以及由此生发的赞美或祷告,便可成为自己与上帝沟通的纽带。圣灵在我们心中动工的感动,有时可用简短的一句话记录下来,有时则需长篇文字表达都未必够。无论哪种形式,只要以文字定格,那份感动就不会轻易消失。日后再翻阅时,便可回顾自己当时的痛苦与软弱,以及上帝如何使我们得着医治与成长,从而再次发出感恩与赞美。

此外,他还强调“记录与见证”所拥有的“宣教层面影响力”。如今我们不仅可以用纸笔记录,也可通过视频、社交媒体、照片展览等多元途径传播。正如路加所写的《使徒行传》27章在两千年后仍被全球众多教会反复阅读、默想、讲道,我们今天的文字、图像或影音资料也可能在未来成为“拯救许多人的工具”。保罗在狂风巨浪中豪迈地宣告“不要怕,上帝已把所有和你同船的人都赐给你”的福音,同样也能通过我们的记录与见证,在当下这个充满不安和恐惧的时代继续被传扬。

张大卫牧师在全球各地的事工举例中提到:有些地方政局不稳,传教士可能很快就被驱逐;有些地区经济条件极为艰难,很难保证下个月的运作。但若能详实留下这短暂期间的宣教经历,后来者重新进入该地区时,便能参考这些记录,制定更安全、更有效的布道策略。更重要的是,阅读这些文档的人,可以从中体会到前辈们所流下的泪水与祷告、痛苦与神恩,并因此燃起对事工的使命感与热情。

归根结底,张大卫牧师所说的“记录与见证的必要性”,并非单纯的信息收集,而是“传承圣灵之工”的关键。整本圣经、教会史上伟大的复兴运动,以及宣教士的日记、报告等,都是那个时代的人如何与上帝相遇、如何顺服上帝的话语、如何亲身经历上帝恩典与神迹的文字记载。当后人读到这些资料时,便会深切地感悟到同一位上帝今天也在我们当中动工。

最后,张大卫牧师呼唤我们“成为保罗,也成为路加”。在不平坦的人生航海中,有时会被狂风巨浪卷入险境,甚至面临船毁之祸,但只要坚信上帝的拣选与预定,紧紧抓住祂的话语,我们就能带着坚定的盼望宣告福音。同时,将这一切历程毫无遗漏地记录下来,好让教会群体与下一代人能够透过这些见证再度得力。就像当年在暴风雨中,保罗的一席话挽救了船上276条性命一样,今天同样需要那勇于发声的信心之人来拯救许多在绝望中的灵魂。

在这一点上,张大卫牧师再次提醒我们:“上帝的预定与拣选”同时昭示着每一个人的重要性。没有任何人的生命是微不足道或无关紧要的,“一个人的记录和见证”也可能使整个群体、全世界甚至后世的教会发生巨大转变。而“在人生航程和狂风中的信心”恰恰是普遍的人生体验,所以保罗的故事才得以在今天仍深深地震撼着读者。同理,我们此刻正在经历的各种困境、苦斗,只要把它们记录下来,也可能在不久的将来成为他人崭新的希望之源。


总而言之,基于《使徒行传》27章,张大卫牧师提出三大重点。第一,我们的生命处于上帝的预定与拣选之中,清晰显明上帝对人所怀的慈爱与目标;第二,在人生航程遭遇狂风时,正是信心最为宝贵、最需展现之时,像保罗那样大胆依靠上帝的应许,带领身边的人走向得救;第三,通过记录与见证来传承圣灵之工,所以应当效法路加,在任何环境下都不要放弃认真记录。这三点正是张大卫牧师藉由《使徒行传》27章不断对教会和信徒所传达的核心教导,在当下仍然极具现实意义。我们每个人都可以成为保罗,也可以成为路加,不断向世人见证“上帝救赎作为”的长存不灭,正是信仰群体的根本使命。

通过将《使徒行传》的事件与现代教会的挑战相结合,张大卫牧师力证上帝的话语与圣灵工作绝不限于某一时代或特定场合。保罗去罗马之路上的那场狂风,不仅没有成就一个人的失败或苦难,反而成为拯救众人的契机,并为他在罗马传播福音铺平了道路。而且,若非路加如此细致地记录下整个细节,我们今天也无法身临其境般地阅读并赞美那位历世历代相同的上帝。时至今日,世界各地依然如张大卫牧师所言,随时会有封闭的门重新开启、绝望化为希望、狂风反倒成为福音得以迅速传播的助力。

因此,最重要的是:相信“上帝早已预定并拣选”,在任何狂风巨浪前都坚守不变的信心,并把这过程如实地记录下来,传给后人。张大卫牧师相信,正是藉着这三大要素,真正的教会群体才能被坚立,宣教之路才会持续延伸,信徒个人的灵命也会不断加深。无论何时何地,当我们从《使徒行传》27章里看到上帝鲜活的同在,就能如保罗那样宣告“不要害怕”——让这句话刻在我们心中,使教会得以稳妥地走向上帝指明的道路。这样,我们在这动荡不安的世界中仍能怀抱盼望,终将与众人一同迎来得救的喜乐。并且,我们会把这个见证写下来,成为延续到世界尽头、代代相传的圣灵宏大见证——这也正是张大卫牧师一直以来所盼望和宣扬的那幅《使徒行传》式的教会与信徒的壮丽画面。

神の予定と選び ― 張ダビデ牧師

神の予定と選びに対する張ダビデ牧師の洞察

張ダビデ牧師は『使徒の働き』27章を説き明かすにあたり、人間の人生が神の予定のうちで展開されていく尊い旅路であることを強調する。彼が語る「予定」とは、人間の未来が機械的にあらかじめ定められているという単純な意味ではない。むしろ、神様がそれぞれの人に対して善意と慈しみに満ちたご計画をもっておられ、その御心に従って人を召し導いてくださるという事実を思い起こさせる概念である。張ダビデ牧師は、この過程を「神様が人を選び、その選びを通して人を区別し、目的ある道へと導かれる」と表現する。救いへ至る道は偶然に与えられたチャンスではなく、神様が世界の創造以前から企図されていた深い摂理の結果だというのだ。

彼がいつも強調するのは、このような予定の思想が決して人間の自由を否定したり、人間を受動的にしてしまうものではないという点である。むしろ神様に創られた人は、神様との人格的関係の中で召され、それぞれの独特な才能や特性を通して神の御心に参与するようになっているという。だからこそ張ダビデ牧師は、使徒パウロのように、神様から与えられた使命を人間的な恐れや無知のために避けてしまうと、かえって大きな患難にぶつからざるを得なくなると説明する。神様は確かにパウロを選ばれ、パウロがローマにまで行って福音を証しするように定められた。その道中でパウロは航海のさなかに暴風に遭い、難破を経験するが、最終的に神様の救いのご計画は失敗することなく成就する。このように、神の予定には人間の失敗や弱さを超越した絶対的な保護と導きが含まれているのだ。

張ダビデ牧師が語る予定と選びの核心は、「目的」と「愛」である。人間を盲目的に連れて行ったり、強制的にある道へ押し込める神の全能ではなく、一人ひとりを尊く見て、その人生に深い意味を与えてくださる神様の愛こそが土台となっている。『使徒の働き』27章に登場する「276人」という具体的な人数の記述が示すように、神様は委ねられた救いの物語を驚くべき仕方で守り抜かれる。パウロはその船の中で単なる「囚人」という身分だったが、実は神様の驚くべき御旨を成し遂げるうえでの重要な鍵となる存在であった。船には百人隊長ユリオをはじめ、さまざまな兵士や船員、他の囚人たちが乗っていた。その多様な人々が集うただ中で、パウロは神様の言葉を聞き、その言葉を宣べ伝えることで、結果的にすべての人を生かす主要な役割を果たしたのである。

張ダビデ牧師は、この事実を通して「神の予定と選びは一個人のためだけでなく、共同体全体への救いの意図を含むものだ」と説明する。パウロが乗っていた船が暴風に見舞われ、難破の危機に瀕したとき、パウロが神様から受けた御言葉は、パウロひとりだけが救われるという約束ではなかった。むしろ「あなたと共にいるすべての人を生かしてあげよう」という、共同体的な救いの約束だったのだ。これは今日の教会や宣教の現場においても同様に適用される。つまり、神様に召された特定の人がいるとき、その周囲にいる人々までも救いの恵みに招かれる可能性があることを示唆している。教会という共同体において、一人の信仰が他の人々にも影響を及ぼし、さらに広い救いの舞台が開かれるというわけだ。『使徒の働き』16章でピリピの看守がパウロとシラスを通して救いにあずかり、彼の家族全員が主を信じるに至った場面も、この原則をはっきり示している。

こうして張ダビデ牧師は、『使徒の働き』の記録を通して、神様の真実な支配を信徒たちに改めて刻み込む。私たちの人生がときに暴風に襲われた船のように揺れ動き、さまざまな危険や苦難の中に放り込まれたとしても、究極的には神の選びと予定のうちで道を見いだし、希望を持つことができるのだ。人生を歩んでいると、何かが閉ざされ、道が途絶えてしまったかのように見える瞬間が必ずある。しかしそのときでさえ、神様はまったく別の扉を大きく開いて私たちを導いてくださる。だからこそ絶望してはならない、と彼は語る。張ダビデ牧師はこれを「絶望という言葉は、信仰の人にはありえない」と表現する。神の摂理はいつも善であり、神様は絶望のただ中からでも人生を逆転させる希望を与えてくださるお方だからだ。

最終的に、張ダビデ牧師の「予定と選び」神学は「神様が私を通して必ず善いご計画を成し遂げられる」という確信から始まる。これは霊的にも精神的にも大きな力となる信仰である。どんな場所や状況にあっても、そこには必ず神の目的と啓示が隠されているというわけだ。パウロがローマへ向かう過程で直面した数々の困難が決して偶然でなかったように、今日私たちが出会う難関も、神様を深く信頼して見上げるとき、最終的には救いの出来事として返ってくるかもしれない。

張ダビデ牧師は、この認識が個人の敬虔な生活だけでなく、共同体的な営みや宣教の現場でも重要なモチーフになると教える。教会や学校、さまざまな宣教の場も、人間的な観点から見ると理解しがたい方向へ進んだり、思いがけない場所で機会が与えられることが多い。しかしそのたびに「神が選ばれた人々が一つとなって祈り、書き記し、歴史を形づくる共同体となっていくならば、どんな扉が閉ざされようとも別の扉を開いてくださる神の摂理を体験するようになるだろう」とのメッセージを伝える。実際には不可能に見える状況も、神様が開いてくださる時と場所に至れば、むしろ大いに栄え、美しい実を結ぶ例が数えきれないほどある。こうした「予定と選び」に対する張ダビデ牧師の強調点は、人生の道のりをただ信仰によって受けとめ、いかなるかたちであれ神様のご計画が完成するという確固たる信念から来ているのだ。

人生の航海と暴風の中での信仰――『使徒の働き』27章の適用

張ダビデ牧師が『使徒の働き』27章を通して伝えようとするもう一つの核心メッセージは、暴風のただ中でも自分の位置を守りながら神の御心を実践する信仰の姿勢である。パウロがローマへ向かう船に乗り込む場面は、軽く読み流すにはあまりにも波乱万丈だ。パウロは囚人の身分として百人隊長ユリオに預けられ、その船にはローマへ送致されるほかの囚人や兵士、船員、船長、さらに商人たちも同乗していた。彼らの乗った船は穀物を運ぶ商船であり、風の流れや天候に大きく左右される帆船だった。当時の地中海航海は季節風や海流に大きく依存していたため、『使徒の働き』27章に描かれる記録は非常に具体的である。これは「医者ルカ」が実際に体験した航海の詳細を丹念に記録したからでもある。

張ダビデ牧師はこの緻密な記録を高く評価しつつ、「ルカのように誠実な記録者となりなさい」と力説する。牧会や宣教の働きを行う際、一見ささいに思える情報や経験も、神様のうちでは決して些末なものではなく、後に信仰の遺産となるからである。たとえば船に乗っていた人数が276人であったこと、どこからどの港へ移動したか、何日間風に逆らわれたか、どんな種類の風が吹いたのかといった詳細は、信仰の歴史と神の救いの摂理を可視化する手助けとなる。張ダビデ牧師は「人間が書き留める記録」は、神が働かれた痕跡であり、後に多くの人を生かす通路になり得ると強調する。宣教地での旅路や教会設立のプロセス、日常で経験する大小の恵みを誠実に記録することで、それを読む人々が霊的な挑戦を受け、信仰の成長を経験するのだ。

なぜ彼が『使徒の働き』27章に特別な注目を寄せるのか。それは、この航海が私たちの人生そのものを象徴しているからだ。船が順風を得て順調に進む時期もあれば、強風と荒波に翻弄されて船酔いに苦しみ、船が難破寸前に至ることもある――それらすべての過程を余すところなく通ることになる。パウロは経験豊かな船長や船員より先に、この航海が危険であり、甚大な損害と生命の脅威をもたらすおそれがあると警告していた。ここに、信仰の人は単に超自然的な預言を語るだけでなく、現場を理解し、そこにある状況を把握できるほどに積極的かつ賢明な視点をもつべきだというメッセージが込められている。宣教現場ならば、その文化や地形、人々の言語と習慣をしっかり理解し、実際的なニーズをどう満たすかについての計画も必要だ。張ダビデ牧師は「真の宣教は、パウロのようにその地と人々を深く愛し、理解しようとする姿勢から始まる」と言う。そして「パウロは船長の知識が不足していると言いたかったのではなく、神様から与えられた洞察と自身の実体験から危険を早めに指摘したのだ」と解釈する。

しかし人々はしばしば船長と船主、そして船を動かす“専門家”たちの言葉だけを信頼し、信仰者の助言には耳を傾けないものだ。結局、パウロが言ったとおりに船は暴風に巻き込まれ、十数日間何も口にできないほど恐怖と混乱に陥る。この状況でパウロの役割は劇的に浮き彫りになる。彼は「もう安心しなさい」と大胆に宣言し、「神の御使いが昨夜わたしのそばに立って『パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たねばならない。そしてあなたとともに航海しているすべての人を神があなたにお与えになったのだ』と言われた」と述べ、乗っている276名全員が救われると告げる。張ダビデ牧師はこの場面について、「たった一人の信仰が、いかに多くの人を生かすか」を示す一例だと解釈する。パウロの一言が、突然の暴風におびえていた人々の心をつかみ、再び生きる勇気と希望へと導いたのだ。実際にパウロは彼らに食事を勧め、「髪の毛一本さえ失われることはない」と言明する。その信仰が最終的には全員に影響し、難破こそしたが一人の犠牲者も出さずに全員が救いを経験することになる。

張ダビデ牧師はここで、「私たちも人生の船が揺れ動き、人生の暴風が押し寄せるときこそ、信仰の声を発するべきだ」と勧める。その信仰は決して根拠のない楽天主義や理由のない確信ではなく、「神の御言葉」に基づく確信である。神様がパウロに「あなたは必ずローマで証しをしなければならない」と語られたからこそ、彼は「おそらく船は破損するかもしれないが、命は失われない」と断言できたのだ。一方で、この『使徒の働き』27章に描かれる壮大な航海の危機は、結局神様の摂理を顕す手段となる。難破の後に到着したマルタ(メリテ)島で、パウロはさらに別の奇跡と福音宣教の機会に出会うことになるからだ。張ダビデ牧師は「私たちが人生の危機に直面するとき、それは恐れや挫折で終わるのではなく、新たな働きと恵みの始まりとなり得る」と強調する。

このように人生の航海を進めていると、突然の暴風が吹き荒れて、それまでの計画や財政基盤を粉々にしてしまう瞬間がある。張ダビデ牧師は「まさにそのときこそ、信仰が光を放つべき時だ」と言う。どれほど大きな試練に直面しても、神の約束がある以上、最終的には神様が私たちを救い、私たちが担うべき働きの道を新たに開いてくださるという確信を失ってはならない。その確信がなければ、ただ波間に翻弄され茫然自失するだけだが、その確信があれば、わずか一言の言葉や祈りの力でさえ周囲の人々に大きな希望をもたらすことができる。

張ダビデ牧師は、このような暴風体験を「船酔いのような人生の通過儀礼」に例えることもある。すべてを投げ出してしまいたくなるほど辛い状況の中でも、少しだけ耐えて待てば必ず「陸の岸辺」が見えてきて、やがて港に辿り着くときが来るというのだ。船酔いをしたことがある人ならわかるだろうが、港の灯りを見たときの安堵感や解放感は格別である。それは信仰の航海においても同じだ。いかに苦しんだとしても、神様が迎えてくださる陸地の時は決して遅れずにやって来る。私たちがなすべきことは、絶えず祈り、互いを励まし合い、中心をしっかり保つことだ。パウロが難破寸前の船員や囚人たちに向かって「元気を出そう。さあ食事をしよう。神が私たちを生かしてくださる」と励ましたように、現代の教会も苦しみや絶望の中にある人々に生きる力を与える役割を果たすべきだ、と張ダビデ牧師は力説する。実際の働きの中で、彼は困窮や病に苦しむ人々、心理的な恐れに囚われた人々と共に時間を過ごしながら、『使徒の働き』27章のパウロのような立場を担うことをしばしば勧めている。

最終的には、このような暴風の中の信仰が教会や宣教共同体に活力をもたらす。働き人と信徒が心を合わせて祈り、「私たちは必ず目的地に到達する」という神の約束を固く信じ抜く必要がある。張ダビデ牧師は「どんなに強い風や波があろうとも、神の約束は揺るがない」という事実を、多くの証や働きの報告を通じて語っている。実際、教会の拡張や宣教センターの建設、学校の設立などにおいて、しばしば予算不足や行政上の障害、文化的衝突といった暴風に見舞われる。しかし本当に神様が開いておられる道であるなら、最終的には道が開かれ、新たなリバイバルが起こるのだ。「ローマへ向かう前に遭遇した海の暴風」は、おそらく海外宣教で直面する数々の困難や、家庭や教会が抱える財政的・組織的・霊的な難局の象徴とも言える。そしてこれらのすべての危機に直面したとき、信仰の人々が発する声がどれほど尊く、決定的な変化を生み出すかを、張ダビデ牧師は『使徒の働き』27章の物語を通じて力強く伝えている。

記録と証言:聖霊の御業を伝承するための張ダビデ牧師の提言

張ダビデ牧師は説教の中で、幾度も「記録しなさい」というメッセージを繰り返し強調する。『使徒の働き』27章でルカが見せた、事実に基づく緻密で具体的な記録の姿勢こそ、結果として2000年以上もの間読み継がれ、教会と信徒に莫大な恵みと気づきを与えてきたからだ。もしルカがこの航海のディテールを残さなかったとしたら、私たちはパウロがローマへ向かう過程でどんな逆境に遭い、どのような救いが行われたのか決して知ることができなかっただろう。人間的に考えれば、生死の境をさまようような厳しい状況で、揺れる船内でペンを握りながら細かい内容を記していたという事実自体が驚くべきことである。張ダビデ牧師はこのような記録活動を「神が働かれる御業に自分自身を献身的に捧げる方法」と呼ぶ。

彼は教会の働き人や宣教師、平信徒リーダーたちに向けて「今日起こった出来事を記録しなさい。どこを訪れ、誰と会い、どんな恵みを受け、どんな困難を経験したのかを具体的に書き残しなさい。それは後にあなた自身だけでなく、共同体全体の霊的な財産になるだろう」と勧める。教会が次世代に残せる最も尊い宝は建物や財産ではなく、生ける神の存在を証しする「聖霊の御業の証拠」だからだ。そのためにも張ダビデ牧師は、日記や伝道日誌、宣教報告書、写真や映像の記録など、多様な媒体を積極的に活用することを提案する。時代が進むにつれデジタルツールが発達し、記録自体はかつてよりずっと容易になり、大衆と共有するのも簡単になった。しかし、あまりに多くの情報と散在する資料の中で、肝心の信仰の歩みがぼやけてしまう懸念もある。だからこそ、意図的で体系的な記録習慣が欠かせない、というのが彼の持論である。

実際、聖書もまた記録の産物である。口伝や口から口へと受け継がれる話は簡単に変形され、忘れ去られてしまいがちだ。しかし一度丁寧に文字に起こされた記録は、時が過ぎても本来の内容を保持することを可能にする。ルカがパウロやテサロニケ人アリスタルコなどと共に実際の航海を体験しながら綴った『使徒の働き』27章の壮大な光景、そしてその中で与えられた神の声は、後に数えきれないほど多くの信仰者を励ます資料となっている。私たちはこれを読むたびに、苦しみの中で働かれる神様の救いを思い起こし、同じ神様が今も生きておられるという確信を深めることができる。そうであるならば、今日の教会や宣教地でも同じように記録することによって、これから訪れる無数の世代が私たちの記録を読み、神様を賛美するようになる可能性があるというわけだ。

張ダビデ牧師は、さまざまな宣教の現場を巡回しながら、「記録の伝統」が受け継がれず、かつての先達が経験したリバイバルや恵みが後代に正しく伝わらないことを残念に思うことが多いと語る。もしよく整ったアーカイブや文書が存在していれば、新しくその地に来た牧会者や働き人が読んで「この場所で神様がこれほど驚くべき御業を行われたのか」と悟り、その悟りによって再び信仰が呼び覚まされ、共同体をリバイバルへと導くきっかけになるだろう。だが記録がなければ、先人たちが経験した試行錯誤や恵み、歴史的な決断を共有することが難しくなり、結果として恵みの遺産が断絶される危険にさらされる。それゆえ彼は「使徒の働き27章のルカにならうべきだ」と例えるのである。ルカは苛酷な状況下にあっても記録する意義を見失わず、そのおかげで後世の教会に計り知れない証言を残すことができたのだ。

さらに彼は、記録は成功談や大きな奇跡だけを扱うのではなく、宣教現場での失敗や苦労、人間的衝突や経済的困窮なども正直に含めるべきだと語る。パウロが航海で経験したことは、美しい勝利だけではなかった。数十名が一斉に船酔いになり、荷や船の装備を海に投げ捨てるほどの極限状態を体験した。それでもルカはそうしたことまで克明に書いてくれたおかげで、私たちは自分の危機と重ね合わせつつ、パウロを助けた神様が今の私たちの絶望においても働いてくださるという希望を持つことができる。張ダビデ牧師はこれを「栄光も恥も、喜びも悲しみも、成功も失敗も、すべて記録して分かち合うことが聖霊の御業を伝承する方法なのだ」と定義する。

現代の教会や宣教の働きでも、一つの働きが中断を余儀なくされ、暫定的に撤収しなければならない状況が起こり得る。しかしだからといって、その場所で起こった出来事がすべて無意味になるわけではない。そこにどれほど多くの人が福音を聞いたのか、私たちが学ぶべき教訓はどこにあったのかを詳細に記録しておけば、後に神様が別の扉を開いてくださったとき、より効率的かつ健全な方向で働きを再開できる。さらには、一度閉ざされた門が時を経て再び開かれる瞬間を目の当たりにし、私たちの記録を読んだ人々が「神様はこれほどまでに真実に御業を導かれるのか」と感嘆する日が来るかもしれない。

張ダビデ牧師は、このような記録の価値を個人の日常にも当てはめるよう勧める。誰であれ一日の終わりに神の摂理を黙想し、今日出会った人や見た景色、神様が与えてくださった御言葉、感謝や賛美の思いなどを書き留めるなら、それは神様と自分自身を結ぶ大切な媒介となる。私たちの魂に臨む聖霊の感動は、時に短い一行でも充分に表すことができ、時に長々と綴らなければならない深い告白となることもある。いずれにせよ、記録として残すことでその感動が消えずに長く残るのだ。そして後になってそれを読み返せば、当時あの苦しみの中で神様がどう働かれたのか、私がどれほど弱かったのか、またいかに回復され成長したのかを振り返り、新たな感謝と賛美を神様に捧げることができる。

さらに張ダビデ牧師は、記録と証言がもつ「宣教的波及力」も強調する。私たちは単に紙とペンで書くことだけでなく、映像やSNS、写真展など、多様な形で広く伝えることができる時代に生きている。ルカが記録した『使徒の働き』27章の物語が2000年後の今でも世界中の教会で読み継がれ、説教され、黙想されているように、私たちが残す記録も将来にわたって数多くの人々を生かす道具となり得る。パウロが暴風のただ中で確信に満ちた声で「恐れるな。神はあなたと共にいるすべての人を生かしてくださると約束された」と叫んだように、今この時代に不安と恐れに縛られている人々に福音を届ける手段が、まさに私たち一人ひとりの記録なのである。

張ダビデ牧師は世界各地の宣教現場で、たとえば政情が不安定で働き人がすぐに追放されてしまう地域や、経済的な困難で一か月後の運営すら危うい地域など、さまざまな例を挙げる。だが、たとえ一か月という短い間でも、その活動内容が緻密に記録されていれば、後に同じ地域へ誰かが再び派遣されたとき、その記録を基により効率的かつ安全に福音を伝える方法を考えられる。そして何よりも、その記録を読む人は、先に働いた人々が費やした涙や祈り、苦難と神の恵みを生々しく感じ取ることができ、宣教への使命感と情熱を継承することができる。

結局、張ダビデ牧師が説く「記録と証言の必要性」は、単なる情報の蓄積ではなく、「聖霊の御業を伝承する」核心手段であるという点にある。聖書も、教会史の偉大なリバイバル運動も、宣教師の日記や報告書も、その時代を生きた人々が神に出会い、神の御言葉に従い、どんな奇跡や恵みを体験したのかを書き残したものだ。私たちはそれを読み、学ぶことを通して、同じ神様が今日の私たちにも働かれるという事実を見いだすのである。

張ダビデ牧師は最終的に、このすべての過程を通して「パウロのように、そしてルカのように生きてほしい」と呼びかける。人生の航海は決して平坦ではなく、時には船が難破しそうな嵐と波に投げ込まれるかもしれない。それでも神の予定と選びを固く信じ、その御言葉に基づいた大胆な希望のメッセージを語り続けるべきだというのだ。そしてそのすべてを丹念に記録することで、やがて私たちの共同体や後の世代がその記録を読んで再び力を得られるようにすべきだ。暴風が吹き荒れ、すべての人が失意に陥っているとき、たった一人のパウロの言葉と行動が276人の命を救ったように、今の時代にも信仰者一人が発する声が数多くの人々を絶望から立ち上がらせるかもしれない。

そう考えると、張ダビデ牧師が強調する「神の予定と選び」は、人間一人ひとりがいかに大切な存在であるかを改めて示してくれる。決して私たちの人生が些細だったり、他の人より取るに足らないものだったりするのではなく、むしろ「一人の記録と証言」が共同体全体、さらには世界や後世の教会をも動かし得るということなのだ。そして「人生の航海と暴風の中での信仰」は、それ自体がすべての人間が経験しうる普遍的な体験であり、パウロの物語が現代の読者にも深い気づきをもたらす理由でもある。同じように、私たちが今まさにリアルタイムで経験する苦しみと格闘の記録も、後の誰かにとって新たな希望の物語となり得る。

結論――神の予定と選び、そして揺るがぬ信仰と記録の使命

まとめると、張ダビデ牧師は『使徒の働き』27章を根拠として、特に次の三点を強調している。一つ目は、私たちの人生は神の予定と選びのうちにあり、それは人間に対する神の愛と御目的が確かに示されているということ。二つ目は、人生の航海が暴風に襲われるときこそ信仰の力が切実に求められ、パウロのように神の約束を握りつつ周囲の人々を生かさなければならないということ。三つ目は、記録と証言を通して聖霊の御業が伝承されるため、ルカの模範に倣ってどんな状況でもあきらめず、こまめに書き残すべきだという主張である。この三つこそが、張ダビデ牧師が『使徒の働き』27章の物語を通じて、教会と信徒たちに繰り返し伝えている核心的な教えである。そしてこれは現代においてもきわめて有効なメッセージである。私たち一人ひとりがパウロとなり、同時にルカとなって、絶えず「神の救いの御業を証言し続ける」ことこそ、信仰共同体の本質的な使命だというのだ。

こうして張ダビデ牧師は、かつての『使徒の働き』の出来事と現代教会の問題を結びつけながら、神の御言葉と聖霊の御業が特定の時代や特定の現場に限られないことを強調する。パウロがローマへ向かう道の最後の関門であった暴風は、決して一人の失敗談や苦労話で終わらなかった。むしろすべての人々を生かす不思議な救いの舞台となり、その後パウロがローマで福音を伝えるための基盤ともなった。その過程を詳細に記録したルカの労苦のおかげで、私たちは2000年後の今もなおその現場を生々しく学び、同じ神様を賛美することができる。今日でも世界のあちこちで、張ダビデ牧師が繰り返し述べるように、閉ざされた扉が再び開かれ、絶望が希望に変えられ、暴風がむしろ福音宣教の道を切り開く奇跡を体験している人々が多く存在する。

突き詰めれば、最も重要なのは、このすべての源泉が「神様がすでに予定し、選んでおられる」という信仰と、「どんな暴風の前でも変わらない信仰の姿勢」、そして「その過程を細かく書き残して後世と分かち合う伝承の使命」であるといえる。張ダビデ牧師は、この三つを通して真の教会共同体が建て上げられ、宣教の働きが継続的に拡張し、信徒一人ひとりの信仰が深められると説いている。どの時代でも、どの共同体でも、『使徒の働き』27章に出てくる神の生ける働きは、今もなお私たちに変わらず注がれているのだ。パウロの力強い宣言「恐れるな」という言葉が私たち一人ひとりの胸に刻まれるとき、信仰共同体は揺るがされることなく与えられた道を全うできる。そのようにして神の予定と選び、そして神の確かな導きを体験した者たちは、揺れ動く世の中にあっても希望を抱いて生き続け、やがてすべての人が救いにあずかるという感激をともに味わうことになる。そしてそれを記録として残すことで、世の終わりまで続く聖霊の偉大な御業に私たち自身も参加できる――これこそが張ダビデ牧師が夢見てきた、そして説き続けてきた「生きた使徒の働き的な教会」と「信徒の姿」なのである。

God’s Predestination and Election – Pastor David Jang

Pastor David Jang’s Insights on God’s Predestination and Election

In his exposition of Acts 27, Pastor David Jang underscores that human life unfolds within the sphere of God’s predestination as a precious journey. The “predestination” he speaks of does not imply that human destiny is mechanically determined in advance. Rather, it is a reminder that God has a good and gracious will for each person, calls them according to that will, and leads them forward. Pastor David Jang describes this process as follows: “God chooses human beings, and through that choice, He sets them apart and guides them on a purposeful path.” In his view, the way to salvation is not an accidental opportunity, but the result of God’s profound providence planned even before the creation of the world.

He often emphasizes that this doctrine of predestination does not negate human freedom or render people passive. Instead, human beings, created by God, are called into a personal relationship with Him. Each person then participates in God’s intended will, utilizing their unique talents and characteristics. Thus, drawing a parallel to the Apostle Paul, Pastor David Jang cautions that if we ignore the mission God entrusts to us due to human fear or ignorance, we will eventually encounter even greater tribulation. God undoubtedly chose Paul, decreeing that Paul should go all the way to Rome to preach the gospel. Along the way, Paul faces storms at sea and experiences shipwreck, but in the end, God’s plan of salvation does not fail; it is accomplished. In this manner, God’s predestination includes an absolute preservation and guidance that surpasses human mistakes and weaknesses.

The essence of the predestination and election that Pastor David Jang highlights is “purpose” and “love.” It is not a blind force that drags people along or forces them onto a certain path through divine omnipotence. Rather, it is undergirded by God’s love, by which He treasures each individual and endows every life with deep meaning. Just as Acts 27 specifically mentions the number 276, God miraculously preserves the storyline of salvation that He has ordained. While Paul may have been on that ship merely as a “prisoner,” he was in fact the key figure in fulfilling God’s incredible purpose. On that vessel were Julius the centurion, various soldiers, sailors, other prisoners, and a diverse crowd. In the midst of this large gathering, Paul hears God’s message and proclaims it, ultimately becoming the main actor who saves everyone on board.

Pastor David Jang uses this fact to illustrate that “God’s predestination and election is not solely for one individual but contains an intention for the salvation of the entire community.” When the ship Paul was on faced a storm and was on the brink of disaster, the divine promise Paul received was not solely for Paul’s own survival. Rather, it was the community-oriented promise that “I will save all those who are with you.” He points out that the same principle applies today in churches and mission fields: when God calls a specific individual, those around that person are likewise invited to share in the grace of salvation. In a church community, one person’s faith can influence others, opening up a wider arena of salvation. Acts 16, in which the Philippian jailer is saved through Paul and Silas, and his entire household also comes to believe in the Lord, vividly exemplifies this dynamic.

Through his exposition of Acts, Pastor David Jang repeatedly imprints upon believers the faithfulness of God’s sovereign rule. Even if our lives are shaken like a ship caught in a tempest or cast into danger and suffering, in the end we can find our way and hold on to hope through God’s election and predestination. Indeed, there may be times in life when doors seem to shut and roads appear cut off. But even in such moments, God will open another way to lead us. Therefore, we must not despair. Pastor David Jang expresses it as follows: “Despair is a word that has no place in the vocabulary of a person of faith.” God’s providence is always good, and He is the One who grants hope to reverse our circumstances, even in the midst of despair.

Hence, Pastor David Jang’s theology of “predestination and election” ultimately begins with the confidence that “God surely has a good plan to accomplish through me.” This belief provides great spiritual and mental strength. Wherever we find ourselves—in any place or situation—God’s purpose and revelation are hidden there. Just as the many adversities Paul encountered on his journey to Rome were by no means accidental, the challenges we face today can likewise become occasions of salvation when we deeply trust and look to God.

Pastor David Jang teaches that this understanding plays a vital role in individual piety, communal life, and mission work. In churches, schools, and diverse mission fields, from a human standpoint, we may head in directions we cannot fully understand or discover opportunities in unexpected places. Yet his message is that “if the people chosen by God gather together in prayer, keep records, and act as a community of God’s work, they will experience God’s providence of opening other doors even when certain doors are shut.” Situations that appear impossible may, in God’s timing and location, lead to remarkable prosperity and bear beautiful fruit. Thus, Pastor David Jang’s emphasis on predestination and election stems from the firm faith that we must accept life’s journey in faith alone and that, in whatever manner God chooses, His plan will be fulfilled.

The Journey of Life and Faith in the Tempest: Applying Acts 27

Another core message Pastor David Jang aims to convey through Acts 27 is about maintaining one’s position and practicing God’s will in the midst of life’s storms. The scene of Paul boarding a ship for Rome is too dramatic to be overlooked. Paul is a prisoner under the custody of the centurion Julius, sharing the ship with other prisoners who are being taken to Rome, along with soldiers, sailors, the captain, and merchants. This vessel was a grain ship dependent on the wind and weather for navigation and speed since it was a sailing ship. In the first-century Mediterranean, voyages relied heavily on seasonal winds and currents. Accordingly, Acts 27 is remarkably detailed, largely because the “physician Luke,” who was there in person, wrote down the precise details of the journey.

Pastor David Jang highly values the detail in this account, encouraging us to become “faithful recorders like Luke.” When doing ministry or mission work, even what appears trivial can be of great significance in God’s plan, and these details can become a spiritual legacy for the next generation. For example, specifics such as the total number of 276 people on board, which port they departed from and where they arrived, how many days the wind opposed them, and what kind of wind blew, all visually demonstrate the history of faith and God’s providence of salvation. Pastor David Jang emphasizes that “human-recorded history” can be the trace of God’s works and serve as a means to save others in the future. When missionaries document their journeys, record the process of planting churches, or note the small and great graces experienced in daily life, future readers can be spiritually challenged and experience growth in faith.

He highlights Acts 27 in particular because this voyage symbolizes our own lives. Sometimes we sail smoothly with a fair wind, but at other times we encounter fierce winds and violent waves that cause seasickness, sometimes even bringing our ship to the brink of shipwreck. Paul, more perceptive than the experienced captain or sailors, anticipates the danger and warns that this voyage could result in severe loss and endanger lives. In this sense, a person of faith doesn’t merely speak of supernatural prophecy; they are active and wise enough to understand the realities and environment of their situation. On the mission field, you must know the culture, the terrain, the language and customs of the people, and formulate a practical plan to meet real needs. Pastor David Jang interprets that “true mission work begins when you love and understand the land and the people deeply, as Paul did.” He adds that Paul did not accuse the captain of lacking knowledge; rather, he was alerting them to the danger he had come to recognize through both God-given insight and practical experience.

Nevertheless, people often trust only the experts—the captain, the ship’s owner, or others involved in operating the ship—and ignore the counsel of the person of faith. Ultimately, as Paul predicted, the ship is caught in a violent storm, and for over two weeks they endure extreme fear and confusion, barely able to eat anything. In this situation, Paul’s role stands out dramatically. He boldly tells them, “Now keep up your courage,” declaring, “An angel of God stood beside me last night and said, ‘Do not be afraid, Paul. You must stand before Caesar, and God has graciously given you the lives of all who sail with you.’” With this, he reveals that all 276 people will be saved. Pastor David Jang interprets this scene as showing “how one person’s faith can save countless lives.” Paul’s words immediately lift the people’s hearts from dread, giving them the courage and hope to keep going. In practical terms, Paul persuades them to eat, assuring them that “not a single hair will be lost.” His faith profoundly influences everyone, so that even though the ship eventually runs aground, not a single life is lost.

From this, Pastor David Jang encourages us, “We too must speak words of faith when our life’s ship is rocked by storms.” This faith is not empty optimism or baseless conviction but is founded on “the word of God.” Since God told Paul, “You must testify in Rome,” he could proclaim, “Surely the ship may be destroyed, but we will not lose our lives.” Through this, the severe crisis depicted in Acts 27 ultimately becomes an instrument of God’s providence. After the shipwreck, when they land on Malta (Melita), Paul seizes yet another opportunity to display miracles and witness the gospel. Pastor David Jang emphasizes that “the crises we face in life do not signify the end or lead to utter despair, but can instead become new starting points for ministry and grace.”

As we continue the voyage of life, storms may unexpectedly strike and shatter our well-laid plans and material foundations. Pastor David Jang asserts, “That is precisely the moment when faith should shine forth.” No matter how severe the trial, as long as we have God’s promise, He will save us and reopen the path of ministry we must fulfill. Without this assurance, we would be overwhelmed by the waves with no hope; but with it, even a single word or a single prayer can plant a great hope in those around us.

Pastor David Jang likens these stormy ordeals to “the seasickness of life’s rites of passage.” Even when we feel so miserable that we want to give up everything, if we endure just a bit longer, we will indeed see the “shoreline,” and eventually we will arrive at a harbor. Anyone who has experienced seasickness can attest to the enormous relief and sense of liberation upon spotting the harbor lights. He claims that the same applies in the voyage of faith. Although we may suffer severe hardship, God’s timing for us to come ashore will not be late. Our responsibility is to keep praying and encouraging each other, remaining steadfast at our core. Just as Paul, on the verge of shipwreck, told the sailors and prisoners, “Take heart, let’s eat, for God will save us,” Pastor David Jang insists that today’s church must likewise instill the strength to survive in those who are in pain and despair. Indeed, in actual ministry, he encourages spending time with people in need—those in poverty, battling illness, or trapped by fear—and exhorts believers to take on a role similar to Paul in Acts 27.

Such faith during life’s storms ultimately revitalizes the church and mission community. Pastors and church members pray together in unity, trusting God’s promise that “we will surely arrive at our destination.” Pastor David Jang recounts various testimonies and ministry reports to convey the truth that “No matter how strong the winds and waves, God’s promise remains unshaken.” Indeed, endeavors such as church expansion, constructing mission centers, or establishing schools often encounter the storms of insufficient budgets, administrative hurdles, or cultural conflicts. Yet if it truly is a path opened by God, the way will eventually clear, and a fresh revival will follow. “The storm at sea before reaching Rome” may well symbolize the multitude of difficulties missionaries encounter abroad, as well as the financial, organizational, or spiritual challenges that families or churches face. Confronted with these crises, the voice of faith—spoken by believers—becomes indispensable and can decisively alter the outcome. Using the story of Acts 27, Pastor David Jang strongly asserts how important and valuable that voice of faith is.

Recording and Testifying: Pastor David Jang’s Proposal for the Transmission of the Holy Spirit’s Work

Pastor David Jang repeatedly emphasizes “record everything” in his sermons. The accurate, detailed style of recording displayed by Luke in Acts 27 has, for two millennia, provided enormous grace and insight to countless churches and believers. If Luke had not documented the details of this voyage, we would never know how Paul traveled to Rome or how God’s salvation unfolded in that journey. From a human perspective, it is astounding that Luke found a way to write down such detailed observations while caught in such dire conditions on a tossing ship. Pastor David Jang describes this commitment to record as “a way of dedicating ourselves to God’s unfolding history.”

He advises church workers, missionaries, and lay leaders alike: “Record today’s events. Write down where you went, who you met, what grace you received, and what difficulties you faced. Be specific. This will become not only your personal heritage but a spiritual asset to the entire community.” He believes that the most priceless treasure the church can pass down to the next generation is not a building or funding, but the record of “the living work of the Holy Spirit,” a testimony that God is alive. To this end, Pastor David Jang suggests actively using diaries, evangelism logs, mission reports, photos, and videos—leveraging various media. In our digital age, recording and sharing materials has become much simpler; however, with so much information scattered across different formats, there is a concern that the essence of our faith journey might grow indistinct. Therefore, he insists on a conscious, systematic habit of documentation.

Indeed, Scripture itself is the fruit of recording. Oral traditions transmitted by word of mouth are easily altered or forgotten, but once meticulously written, a record can endure through time. If Luke had not detailed the harrowing experiences of the ship voyage, we would not know how God spoke and intervened to bring salvation. Because he did so, innumerable believers have been encouraged and comforted by this account for two thousand years. Therefore, Pastor David Jang maintains that churches and mission fields today, by recording in a similar manner, can provide for future generations to read our own accounts of God’s works and be led to praise Him.

Having visited numerous ministry sites, Pastor David Jang often laments that in some places the “tradition of record-keeping” has been lost. As a result, the revival and grace once witnessed by earlier generations have not been adequately passed down. Well-documented archives or records would allow future pastors or workers to review them and exclaim, “Ah, God performed such amazing works here!”—and that revelation could spark renewed faith, ultimately leading the community into revival once more. Without such records, however, we cannot effectively rediscover the mistakes, blessings, or historical decisions of our predecessors, and so risk losing our spiritual heritage. Thus, he likens it to “becoming the Luke of Acts 27.” Despite terrible conditions, Luke preserved his motivation to record, leaving behind a powerful testimony for the church in subsequent eras.

He further points out that we should not limit our writing to only success stories or spectacular miracles. Sometimes, it is the failures, hardships, human conflicts, and financial struggles of ministry that future readers find most instructive. Paul’s maritime journey was not a straightforward victory. Dozens of people were simultaneously seasick, and they were forced to jettison their cargo and equipment into the sea. Yet Luke documented all of that detail, and as a result, today we can relate our crises to theirs, realizing that the same God who worked for Paul can work for us in our hopelessness. Pastor David Jang calls this style of documentation—encompassing both glory and shame, joy and sorrow, success and failure—“the Holy Spirit’s method of transmitting history.”

The same holds true in modern church or mission work. Sometimes circumstances force us to shut down a ministry site and temporarily withdraw. However, everything that happened there does not become meaningless. By carefully recording how many people heard the gospel, and what lessons we learned, we equip ourselves to resume ministry more effectively and in a healthier direction whenever God reopens the door. Moreover, as time passes and a previously closed door reopens wide, those who read our records will realize: “Truly, God faithfully advances His saving work,” and they will witness the miraculous turn of events.

Pastor David Jang encourages believers to apply this principle of documentation to their personal lives as well. Anyone can reflect on their day and write about God’s providence, the people they encountered, the sights they saw, the message God granted, the gratitude they felt, or the songs of praise that rose in their hearts. Such records become a crucial medium connecting us to God. Sometimes the Holy Spirit’s touch on our souls can be captured in a short sentence, other times in a lengthy journal entry. In either case, once recorded, the impression does not fade quickly but endures. And when we revisit these writings later, we can remember how we suffered and how God worked through our trials, how weak we were, and how we eventually recovered and grew. Consequently, we can lift up fresh thanksgiving and praise.

Furthermore, Pastor David Jang emphasizes the “missionary ripple effect” inherent in recording and witnessing. In this era, we do not just write with a pen and paper; we can also share our testimonies through videos, social media, and photo exhibitions. Just as Luke’s account of Acts 27 has been read, preached, and meditated upon all around the world for 2,000 years, the records we produce today may similarly serve to save countless souls in the future. Just as Paul, in the midst of the raging storm, confidently proclaimed, “Do not be afraid, for God has promised to save everyone with you,” our own personal records can deliver the gospel message to those consumed by anxiety and dread in our day.

Pastor David Jang cites various mission fields across the globe as examples. Some regions have such volatile political climates that workers are swiftly expelled. Others face severe financial hardships and cannot see beyond a month’s budget. Still, if the experiences of those few weeks or months are carefully recorded, whenever a new worker arrives in the same area, they can use that record to plan safer, more effective outreach. Crucially, reading about the tears, prayers, struggles, and grace of those who labored before them ignites renewed passion and commitment in these new workers.

Hence, the necessity of “recording and witnessing” Pastor David Jang champions is not merely about archiving information. It is, at its core, the primary means for “transmitting the work of the Holy Spirit.” Scripture, the outstanding revivals in church history, and the diaries and reports of missionaries—all are records of how people in each era encountered God, how they obeyed His word, and what miracles and blessings transpired. We read and learn from them, recognizing that the same God works among us today.

Ultimately, Pastor David Jang calls believers to “live like Paul and Luke.” Even if life’s voyage is far from smooth and threatens shipwreck through fierce winds and waves, we must hold firmly to God’s predestination and election, stand on His word, and proclaim our unshakable hope. Moreover, by diligently recording all our experiences, we enable our communities and future generations to find strength in reading them. Just as Paul’s single voice and actions saved 276 souls amid the storm, our own words can rescue countless people from despair in this era.

In that regard, Pastor David Jang’s emphasis on “God’s predestination and election” is a fresh reminder of how significant each human life is. No one’s life is insignificant or inferior to another’s; indeed, “the record and testimony of one person” can influence an entire community, even the global church, and shape future generations. And because “the voyage of life and faith in the storms” is a universal human experience, the story of Paul still resonates deeply with readers today. In a similar way, our immediate struggles and hardships, when documented, can someday offer a powerful narrative of hope for others.

Conclusion: Three Core Teachings from Acts 27 According to Pastor David Jang

In summary, using Acts 27 as his foundation, Pastor David Jang repeatedly emphasizes three main points:

Our lives are under God’s predestination and election, in which His love and purpose for mankind are unmistakably revealed.

The times when life’s journey collides with raging storms are precisely when faith is most desperately needed, compelling us to hold on to God’s promises and help save those around us, just as Paul did.

Through recording and testimony, the work of the Holy Spirit is transmitted to future generations. Following Luke’s example, we must never give up on meticulous documentation, no matter the circumstances.

These three teachings are the key lessons Pastor David Jang consistently conveys from Acts 27 to churches and believers. They are as relevant today as ever. Each of us can become a Paul, and each of us can become a Luke, perpetually bearing witness to “God’s ongoing work of salvation.” That, Pastor David Jang contends, is the essential mission of any faith community.

By linking the events in Acts to modern church challenges, Pastor David Jang stresses that the word of God and the work of the Holy Spirit are not confined to a specific era or location. The fierce storm at sea that Paul faced on his final leg to Rome was not the story of one man’s failure or misfortune. Instead, it became a mysterious occasion of salvation for everyone aboard and laid the groundwork for Paul’s gospel ministry in Rome. Thanks to Luke’s careful recording of every detail, even two thousand years later we can still read of those events and praise the same God who is alive today. Just as countless people around the world continue to witness doors reopening, hope arising in the midst of despair, and even storms turning into opportunities for the gospel—Pastor David Jang reiterates that these miracles persist wherever the God of Acts still reigns.

In the end, the most crucial elements are the faith that “God has already predestined and chosen,” the unchanging posture of trust “in any storm,” and the intentional “recording of every moment” to share with those who come after us. Pastor David Jang teaches that these three elements strengthen the genuine church community, broaden the horizon of mission, and deepen the faith of each believer. In every generation and every congregation, the living presence of God in Acts 27 is still at work today. As in Paul’s bold declaration—“Do not be afraid”—those words can be engraved on our hearts, enabling faith communities to walk their given paths steadfastly. Everyone who experiences God’s predestination, election, and faithful guidance can live with hope in a world of turmoil, ultimately sharing in the overwhelming joy of salvation together. And by leaving a written record of these testimonies, we join the grand story of the Holy Spirit’s work until the very end of the age—fulfilling the vision of a church that truly embodies the spirit of Acts that Pastor David Jang has long proclaimed and dreamed of.

La predestinación y la elección de Dios -Pastor David Jang

La visión de David Jang sobre la predestinación y la elección de Dios

Al exponer Hechos 27, el Pastor David Jang enfatiza que la vida humana se desarrolla dentro de la predestinación de Dios, concebida como una valiosa travesía. Para él, “predestinación” no se reduce a que el futuro del ser humano esté mecánicamente fijado de antemano. Más bien, llama la atención sobre el hecho de que Dios posee un propósito bondadoso y lleno de amor para cada persona, y que Dios llama e impulsa a cada individuo conforme a ese propósito. El Pastor David Jang describe este proceso diciendo: “Dios elige al ser humano y, a través de esa elección, lo separa y lo conduce por un camino que tiene un fin determinado”. De esta manera, afirma que el camino hacia la salvación no es un azar de la historia, sino el resultado de la profunda providencia que Dios había concebido desde antes de la creación del mundo.

Lo que David Jang recalca constantemente es que esta comprensión de la predestinación de ningún modo anula la libertad humana ni convierte al hombre en un ser pasivo. Al contrario, enfatiza que Dios creó a la humanidad para vivir en relación personal con Él, y que cada persona, con sus talentos y características únicas, es llamada a participar en el plan divino. Por ello, al igual que el apóstol Pablo, advierte que, si por temor o ignorancia humana no prestamos atención al llamado de Dios, al final nos veremos envueltos en dificultades mayores. Dios eligió a Pablo con claridad, y en Su plan estaba determinado que Pablo llegara a Roma para testificar del evangelio. En ese trayecto, Pablo tuvo que afrontar la tempestad en alta mar y el naufragio, pero finalmente el plan salvador de Dios no fracasó y se cumplió. Así, la predestinación de Dios abarca también una conservación e intervención absolutas, capaces de sobrepasar los errores y las limitaciones humanas.

El núcleo de la predestinación y la elección, según la enseñanza de David Jang, se basa en el “propósito” y el “amor” de Dios. No se trata de un poder divino que arrastra ciegamente a las personas o las obliga a seguir un determinado camino; antes bien, se sostiene sobre el amor de Dios, que valora a cada individuo y otorga a cada vida un sentido profundo. Tal como se ve reflejado en Hechos 27, donde se menciona el número concreto de 276 personas, Dios conserva de manera asombrosa la historia de salvación que Él mismo ha dispuesto. A pesar de que Pablo, en el barco, solo tenía el estatus de “prisionero”, en realidad era la clave para llevar a cabo el propósito maravilloso de Dios. En aquella nave estaban el centurión Julio, diversos soldados y marineros, y otros presos también. En medio de esa multitud variopinta, Pablo escuchó la voz de Dios, la proclamó y, finalmente, se convirtió en el protagonista que salvó a todos.

David Jang interpreta este hecho señalando que “la predestinación y la elección de Dios no solo están enfocadas en un individuo, sino que abarcan la intención salvadora para toda la comunidad”. Cuando la embarcación donde viajaba Pablo se topó con la tempestad y estuvo a punto de naufragar, la promesa que Pablo recibió de parte de Dios no consistía únicamente en la salvación personal de Pablo. Más bien se trataba de una promesa de salvación colectiva: “Te concedo la vida de todos los que navegan contigo”. Este suceso se aplica también a la iglesia y al campo misionero hoy en día. Es decir, cuando Dios llama a una persona en particular, cabe la posibilidad de que quienes estén alrededor también sean invitados a la gracia de la salvación. En el seno de la iglesia, la fe de una sola persona puede influir en los demás, y así se abre un espacio más amplio para la salvación. El pasaje de Hechos 16, en el cual el carcelero de Filipos recibe la salvación a través de Pablo y Silas, llevando a la fe a toda su familia, confirma esa misma verdad.

A través del relato en Hechos, el Pastor David Jang subraya reiteradamente la soberanía fiel de Dios ante los creyentes. Incluso si nuestra vida se sacude como un barco azotado por la tempestad, o si nos vemos lanzados a peligros y aflicciones, podemos encontrar un camino y abrigar esperanza dentro de la predestinación y la elección de Dios. En ocasiones, pareciera que la puerta se cierra o que el camino se acaba. Sin embargo, aun en esos momentos, Dios abre otra puerta para guiarnos por una senda diferente, y por ello no debemos desesperar. David Jang frecuentemente expresa esta idea diciendo: “La desesperación no debería existir en el vocabulario de un creyente”. La providencia de Dios siempre es buena, y aun en la desesperación, Él permite la transformación de nuestras vidas, otorgándonos esperanza.

Por eso, la teología de la “predestinación y elección” de David Jang parte de la convicción: “Dios tiene sin duda un plan bueno que cumplirá a través de mí”. Esta fe resulta sumamente fortalecedora, tanto en lo espiritual como en lo emocional. En la posición o situación en la que nos encontremos, ahí se encierra un propósito y una revelación de Dios. Así como no fue casualidad que Pablo enfrentara diversas dificultades en su ruta a Roma, también los obstáculos que hoy enfrentamos podrían convertirse en un acontecimiento de salvación si confiamos plenamente en Dios.

David Jang enseña que este reconocimiento reviste importancia no solo en la vida devocional personal, sino también en la vida comunitaria y en los contextos misioneros. Es frecuente que el camino que siguen las iglesias, las escuelas y los distintos campos misioneros parezca confuso desde el punto de vista humano, o que las oportunidades surjan en lugares inesperados. Pero cada vez que suceda, “si los escogidos por Dios se reúnen a orar y registran la historia de esa experiencia, la comunidad vivirá como testigo de la providencia de Dios, quien abre otras puertas cuando una se cierra”, asegura el Pastor David Jang. Se ve infinidad de veces que las situaciones que parecían imposibles, en el tiempo y lugar indicados por Dios, se convierten en una oportunidad para que surja la prosperidad y fructifiquen hermosos resultados. Así, la insistencia de David Jang sobre la predestinación y la elección enfatiza que la senda de la vida se asuma únicamente con fe, y que, de un modo u otro, el plan de Dios alcanza su plenitud.


El viaje de la vida y la fe en medio de la tempestad: Aplicaciones de Hechos 27

Otro mensaje esencial que el Pastor David Jang extrae de Hechos 27 tiene que ver con la actitud de fe para mantenerse firme en medio de la tempestad y cumplir la voluntad de Dios. La escena en la que Pablo toma el barco rumbo a Roma es demasiado agitada para pasarla por alto. Pablo, preso, estaba bajo la custodia del centurión Julio, y en el barco navegaban también varios presos, soldados, marineros, el capitán y comerciantes. Era un barco mercante que transportaba grano, y la ruta y la velocidad dependían del viento y el clima, puesto que se trataba de una embarcación a vela. La navegación en el Mediterráneo, en aquel tiempo, dependía enormemente de las corrientes y los vientos de estación, por lo que la narración de Hechos 27 es muy detallada. Esto se debe, en parte, a que “el médico Lucas” plasmó con fidelidad las circunstancias del viaje que vivió en carne propia.

El Pastor David Jang valora altamente esos detalles y anima a “convertirse, como Lucas, en un fiel documentalista”. Cuando uno sirve en el ministerio o en el campo misionero, los datos y las experiencias que puedan parecer insignificantes no lo son en absoluto a los ojos de Dios; de hecho, pueden convertirse en un legado de fe para las futuras generaciones. Por ejemplo, la cifra de 276 pasajeros, los puertos en los que atracaron, las direcciones del viento, el tiempo que soplaron, el tipo de viento que se levantó, etc., todo ello demuestra de manera tangible la acción de Dios en la historia de salvación. David Jang insiste en que el “registro humano” es la prueba de la obra de Dios y puede servir para salvar a otros en el futuro. Desde las experiencias cotidianas en el campo misionero o en la plantación de iglesias, hasta las pequeñas y grandes muestras de gracia que recibimos a diario, todo cobra valor si se deja constancia de ello, pues, al leerlo, muchos alcanzarán madurez y experimentarán un desafío espiritual.

Hechos 27 reviste un interés particular para David Jang porque ese viaje simboliza la vida misma. A veces, el barco avanza con viento favorable; en otros momentos, las aguas se encrespan y el mareo nos paraliza, e incluso surge el riesgo de naufragio. Pero Pablo, más allá de la pericia del capitán o de los marineros, percibió el peligro potencial de ese viaje y advirtió que podría causar gran pérdida, tanto a la carga como a las vidas humanas. Así, con esta historia, el Pastor David Jang enseña que “el creyente, más que simplemente anunciar profecías sobrenaturales, debe estar al tanto de la realidad, conocer el entorno y contar con una mirada sabia y activa”. En el campo misionero, esto exige conocer a fondo la cultura y la geografía, el idioma y las costumbres de la gente, para así responder a sus necesidades de un modo realista. El Pastor David Jang afirma: “La verdadera misión comienza cuando amamos e intentamos comprender profundamente la tierra y las personas a las que somos enviados, igual que hizo Pablo”. Por eso aclara que Pablo no acusó al capitán de ignorante, sino que advirtió del riesgo con la sensatez que le otorgaban la perspicacia dada por Dios y la experiencia real.

Sin embargo, en ocasiones solo se confía en la opinión del capitán, el armador del barco o los expertos, desatendiendo la voz del hombre de fe. Al final, como Pablo había vaticinado, la nave se ve arrastrada por la tempestad y sus ocupantes pasan más de dos semanas sin comer, inmersos en un pánico extremo. En este contexto, la figura de Pablo adquiere una relevancia dramática. Él proclama valientemente: “¡Tened ánimo!”, y testimonia: “Anoche se me apareció un ángel de Dios y me dijo: ‘Pablo, no temas; es necesario que comparezcas ante el César, y Dios te ha concedido la vida de todos los que navegan contigo’”. Así anunció que los 276 pasajeros serían salvados. Para David Jang, esta escena demuestra “hasta qué punto la fe de una sola persona puede salvar a muchos”. La palabra de Pablo retuvo los corazones de quienes estaban desesperados ante la tempestad y les devolvió la valentía para resistir y salir adelante. Pablo les exhortó a alimentarse, declarando: “Ni uno solo de vosotros perderá un solo cabello de su cabeza”. Esa confianza se extendió a todos, y pese al naufragio, no se perdió ninguna vida.

A partir de este relato, el Pastor David Jang exhorta: “También nosotros, cuando nuestra embarcación vital se tambalea y la tempestad de la vida arrecia, debemos alzar la voz de la fe”. Dicho de otro modo, esta fe no es un optimismo vacío ni una certeza infundada, sino una convicción basada en la Palabra de Dios. Puesto que Dios le había dicho a Pablo: “Sin falta testificarás en Roma”, él pudo afirmar: “Aunque el barco se destruya, vuestras vidas no peligrarán”. Por otro lado, el peligro extremo descrito en Hechos 27 se transforma en la providencia divina, pues tras el naufragio, Pablo desembarca en la isla de Malta (Melite), donde surge una nueva oportunidad de milagros y de proclamación del evangelio. David Jang subraya que “las crisis de la vida no son el final marcado por el miedo o la derrota, sino la ocasión para un nuevo ministerio y nuevas bendiciones”.

Así pues, cuando en nuestro viaje surja una tempestad que amenace con echar por tierra los planes y recursos que hemos acumulado, es entonces cuando, según David Jang, la fe ha de brillar con mayor fuerza. Por más grande que sea la prueba, tenemos la promesa de Dios: Él nos salvará y abrirá para nosotros el camino para cumplir la misión que nos ha confiado. Sin esa confianza, lo único que queda es la desolación; en cambio, con esa certeza, basta una palabra o una oración para encender en los demás una esperanza enorme.

David Jang compara esta experiencia de la tempestad con un “mareo marítimo como rito de paso en la vida”. Aun cuando en ocasiones queramos renunciar a todo por lo insoportable de la prueba, si aguantamos un poco más, veremos la costa y tarde o temprano llegaremos a puerto. Quien haya padecido mareos en el mar comprenderá el gran alivio y sensación de libertad al divisar las luces del muelle. De la misma manera, en la travesía de la fe, aun si atravesamos un profundo sufrimiento, no llegará demasiado tarde el momento en que Dios nos conducirá a tierra firme. Nuestra tarea consiste en orar y animarnos mutuamente, manteniéndonos firmes. Del mismo modo que Pablo, ante la inminencia del naufragio, motivó a los marineros y a los presos diciendo: “Tened ánimo, comed ahora, pues Dios nos va a salvar”, la iglesia actual también ha de infundir valor a quienes viven en pobreza, enfermedad o temor. En la práctica, David Jang anima a las comunidades cristianas a tener el mismo papel que tuvo Pablo en Hechos 27, acompañando a los necesitados, a los enfermos y a quienes sufren pánico, recordándoles la promesa de la salvación.

Esta fe que se fortalece en la tempestad es la que inyecta vigor en la iglesia y la comunidad misionera. Cuando pastores y feligreses oran juntos y creen en la promesa divina —“sin duda llegaremos a nuestro destino”—, la comunidad se mantiene firme a pesar de los vientos y las olas. David Jang recalca, a través de testimonios y reportes ministeriales, que “no importa cuán grandes sean la tempestad y las olas, la promesa de Dios no se tambalea”. De hecho, la expansión de la iglesia, la construcción de centros misioneros y la fundación de escuelas enfrentan a menudo carencias financieras, obstáculos administrativos o conflictos culturales. Sin embargo, si realmente es Dios quien abre el camino, tarde o temprano se abrirá, y llegará un nuevo despertar. El “gran viento y oleaje en el mar antes de llegar a Roma” simboliza las incontables dificultades que encuentran los misioneros en el extranjero, así como los desafíos económicos, organizativos o espirituales que afrontan los hogares y las iglesias. David Jang usa la narración de Hechos 27 para ilustrar cuán valiosas y determinantes pueden ser la voz y el testimonio de la fe ante todas esas crisis.


Registro y testimonio: Sugerencias de David Jang para transmitir la obra del Espíritu Santo

Durante su predicación, David Jang resalta repetidamente la importancia de “registrar” los hechos. La minuciosidad con que Lucas documentó Hechos 27 ha edificado y bendecido a la iglesia y a los creyentes durante dos mil años. Sin esa descripción detallada del viaje, jamás hubiéramos sabido por qué el trayecto de Pablo hacia Roma supuso tales riesgos y cómo Dios obró la liberación en medio de la adversidad. Es asombroso que, en medio de una situación tan grave, Lucas pudiera empuñar la pluma para tomar notas a bordo de un barco que se tambaleaba al borde del naufragio. David Jang denomina esta labor de documentación “un modo de consagrarnos a la obra que Dios realiza en la historia”.

El Pastor aconseja a líderes de iglesia, misioneros y también a laicos comprometidos: “Registrad los acontecimientos de hoy. Escribid adónde habéis ido, con quién os habéis reunido, qué bendiciones habéis recibido y también qué problemas habéis enfrentado. Esto no solo será vuestro propio legado, sino que se convertirá en un recurso espiritual para toda la comunidad”. El tesoro más valioso que la iglesia puede legar a la próxima generación no es un edificio o dinero, sino la evidencia viva de que Dios está presente y activo: “la obra del Espíritu Santo”. Por ello, David Jang recomienda aprovechar herramientas como un diario personal, bitácoras evangelísticas, informes misioneros, fotos y videos. Gracias a los avances digitales, hoy es más fácil registrar y compartir información con el público general. No obstante, existe el riesgo de que el exceso de datos dispersos opaque los momentos más sustanciales de nuestro caminar en la fe. De ahí la necesidad de ser intencionales y metódicos al registrar, según la perspectiva de David Jang.

Cabe recordar que la Biblia misma es fruto de la escritura. La transmisión oral puede tergiversarse y olvidarse con facilidad, pero lo que una vez queda plasmado por escrito conserva su contenido a través del tiempo. Por ejemplo, la vívida descripción de Lucas de los paisajes que contempló junto a Pablo y Aristarco de Tesalónica, y la manera en que Dios intervino durante la angustiosa travesía, han concedido fuerza y consuelo a innumerables lectores fieles durante siglos. Si hoy la iglesia y el campo misionero siguen esa misma práctica de registrar, muchas generaciones futuras se verán bendecidas al leerlo y glorificar a Dios.

David Jang lamenta que, en algunos lugares, no exista una “tradición de la memoria escrita” y que, por tanto, las experiencias de bendición vividas por la generación anterior no hayan llegado a la siguiente. Si existiera un archivo o documento bien elaborado, un nuevo pastor o líder podría, al leerlo, darse cuenta: “¡Guau, aquí Dios actuó de forma extraordinaria!”, y ese descubrimiento despertaría la fe, impulsando el crecimiento de la comunidad. Pero si nada se registra, los avances y los errores de quienes nos precedieron quedan en el olvido, y se corre el riesgo de perder ese legado espiritual. De ahí el llamado de David Jang: “Necesitamos imitar a Lucas de Hechos 27”. Lucas no dejó de escribir incluso en momentos extremadamente duros, y gracias a ello, la iglesia posterior cuenta con un enorme testimonio de fe.

Además, aclara que no solo se deben reseñar los aciertos o las maravillas más destacadas. También hay que reflejar los fallos, las dificultades, los conflictos humanos y los tropiezos económicos. Esos detalles ayudarán realmente a los que lean el testimonio en el futuro. Pablo no experimentó únicamente victorias gloriosas en su travesía. Hubo mareos masivos, se tuvo que tirar la carga y los aparejos del barco, y la gente vivió un escenario límite. Pero Lucas consignó todo aquello con detalle, y así comprendemos que el mismo Dios que amparó a Pablo en medio de esa aflicción protege a quienes hoy se hallan en situaciones desesperadas. David Jang define este proceso como “el método de la tradición del Espíritu Santo: compartir tanto la gloria como la vergüenza, la dicha y el llanto, el éxito y el fracaso”.

Incluso en la actualidad, puede que el campo misionero deba cerrarse temporalmente y retirarse de una región. Sin embargo, eso no implica que toda la labor realizada sea en vano. Si se deja constancia de cuántas personas recibieron el evangelio, de qué se aprendió y de qué errores se cometieron, en el momento en que se reabra la puerta, se podrá retomar la misión con una estrategia mucho más eficaz y sana. Además, llegar a ser testigos de cómo Dios reabre esas puertas con el paso del tiempo y de cómo vuelve a florecer el ministerio, será una fuente de asombro y gratitud para quienes consulten esos registros. Confirmarán que Dios conduce fielmente Su historia de salvación.

David Jang exhorta también a aplicar el valor del registro a la vida personal. Cualquier persona puede reflexionar a diario, escribiendo cómo percibió la providencia de Dios, a quién conoció, qué paisaje contempló, qué palabra recibió del Señor, o por qué motivos se siente agradecida. Esas breves notas, o un testimonio más extenso, pueden convertirse en lazo de unión entre nuestra alma y Dios. La impresión que el Espíritu Santo siembra en el corazón muchas veces se puede expresar en una sola frase, o tal vez necesite una confesión larga y profunda. En cualquier caso, al dejarlas escritas, esas inspiraciones no se disipan y conservan su fuerza durante más tiempo. Y al releerlas en el futuro, veremos cómo Dios obró a pesar de nuestras debilidades, cómo fuimos restaurados y crecimos espiritualmente, y esto desatará nuevas acciones de gracia y alabanza.

Además, el Pastor David Jang resalta la “fuerza misionera” que se puede desatar al testificar y registrar. No solo escribimos a mano o en un cuaderno, sino que hoy en día podemos difundir nuestro testimonio de manera masiva a través de videos, redes sociales y exposiciones fotográficas. La historia de la tempestad de Hechos 27, documentada por Lucas, sigue siendo leída, predicada y meditada en todo el mundo después de casi dos milenios. Del mismo modo, lo que registremos en la actualidad podría llegar a ser un medio de salvación para muchas personas en el futuro. Tal como Pablo, en medio de la tormenta, proclamó con convicción: “No temáis, Dios os concede la vida de todos los que navegan contigo”, también hoy nuestra generación necesita transmitir el mensaje del evangelio a quienes viven sumidos en el temor.

David Jang comparte ejemplos de diversas regiones del mundo. Hay lugares inestables donde los misioneros son expulsados con rapidez, y otros que padecen una precariedad tal que es difícil solventar el próximo mes. Sin embargo, si se documenta con esmero lo que ocurrió durante ese corto tiempo, cuando más adelante alguien reingrese a esa misma región, podrá servirse de esos datos, afrontando el ministerio con mayor eficacia y seguridad. Lo más importante es que al leer dichos registros, el nuevo obrero conocerá las lágrimas, los ruegos, los padecimientos y el auxilio de Dios manifestados en quienes lo precedieron, recibiendo un impulso de fe para retomar la obra.

Por consiguiente, la finalidad del “registro y el testimonio” no es meramente acumular información, sino constituirse en la herramienta principal para “transmitir la obra del Espíritu Santo”. Ya sea la propia Biblia, los grandes movimientos de avivamiento en la historia de la iglesia, o los diarios y reportes de los misioneros, todos estos textos expresan cómo ese pueblo de Dios encontró a su Señor, cómo obedeció Su palabra y de qué manera atestiguó milagros y gracias divinas. Nosotros, al leerlos, aprendemos y reconocemos que el mismo Dios sigue hoy actuando entre nosotros.

Al final, el Pastor David Jang insta a “vivir como Pablo y Lucas”. La travesía de la vida no es un camino fácil, y con frecuencia el barco parece zozobrar ante el temporal. Pero debemos aferrarnos a la convicción de la predestinación y la elección de Dios, fundamentada en Su Palabra, y proclamar, con valentía, un mensaje de esperanza. Además, hemos de dejar constancia fiel de todo el proceso para que, en el futuro, nuestra comunidad y las nuevas generaciones también tomen fuerzas al leerlo. Así como el testimonio de Pablo salvó las vidas de 276 personas cuando el barco zozobraba, de igual modo hoy puede surgir una sola voz de fe que rescate de la desesperación a multitud de personas.

En este sentido, la insistencia de David Jang en la “predestinación y elección de Dios” nos recuerda la enorme importancia de cada individuo. Nadie es insignificante ni menos valioso que los demás; de hecho, “el testimonio y la constancia de una sola persona” pueden rescatar a toda la comunidad, y en última instancia, influir en la iglesia mundial e incluso en las generaciones futuras. Asimismo, “la fe y el coraje en medio de la tempestad de la vida” son una experiencia universal que todos compartimos, y por ello la historia de Pablo sigue transmitiendo hoy su profunda enseñanza. De la misma manera, si documentamos lo que vivimos y lo que sufrimos en tiempo real, ese testimonio podría un día convertirse en un nuevo relato de esperanza para otros.

En resumen, apoyándose en Hechos 27, David Jang recalca tres pilares fundamentales. Primero, nuestras vidas se encuentran bajo la predestinación y elección de Dios, lo que evidencia el amor y el propósito divino para con la humanidad. Segundo, es en la tempestad de la vida donde la fe se hace más necesaria y cobra más valor; debemos aferrarnos con denuedo a la promesa de Dios y salvar a quienes nos rodean, igual que hizo Pablo. Tercero, mediante el registro y el testimonio, la obra del Espíritu Santo se transmite de generación en generación; por eso debemos imitar el ejemplo de Lucas, quien no dejó de escribir ni siquiera en circunstancias extremas. Estos tres aspectos constituyen la enseñanza primordial que David Jang dirige a la iglesia y a los creyentes al comentar Hechos 27. Y es un mensaje que sigue teniendo plena vigencia en la actualidad. Cada uno de nosotros, al convertirnos en Pablo y en Lucas, “daremos testimonio incesante de la historia de la salvación de Dios” y cumpliremos así la misión fundamental de la comunidad de fe.

Con esta aproximación, David Jang conecta los sucesos de Hechos con los desafíos contemporáneos de la iglesia, demostrando que la Palabra de Dios y la obra del Espíritu Santo no se limitan a una época o situación concreta. La gran tempestad que precedió la llegada de Pablo a Roma no fue simplemente una odisea personal, sino que se transformó en una ocasión misteriosa donde todos fueron salvados, y cimentó el camino para que Pablo predicara en Roma. A su vez, la dedicación de Lucas al registrar en detalle cada pormenor posibilita que, dos milenios después, leamos esa historia y glorifiquemos al mismo Dios. Incluso hoy, como suele insistir David Jang, en múltiples rincones del mundo se experimentan situaciones en las que las puertas cerradas vuelven a abrirse, la desesperanza se convierte en esperanza y las tormentas se convierten en oportunidades de anunciar el evangelio.

En última instancia, el punto más trascendental es que esta realidad descansa en “la predestinación y elección” ya establecidas por Dios, en la fe que no se quiebra ante la tempestad y en el compromiso de documentar y compartir todo el proceso con la siguiente generación. David Jang enseña que esas tres facetas permiten el fortalecimiento de la iglesia, la expansión permanente de la obra misionera y la profundización de la fe en cada creyente. Y recalca que el Dios viviente que se muestra en Hechos 27 sigue actuando de la misma manera en nuestros días y en cualquier comunidad. Tal como la firme declaración de Pablo —“No temáis”— se grabó en el corazón de aquellos marineros, también puede arraigarse en los nuestros. De este modo, la comunidad de fe, aunque sacudida por las tempestades del mundo, se mantendrá firme en el rumbo que Dios le marca, experimentando Su predestinación, Su elección y Su guía fiel. Así, quienes hayan vivido esa gracia podrán compartir el júbilo de la salvación colectiva. Finalmente, al legar ese testimonio por escrito, participarán en la gran obra del Espíritu Santo que se extenderá hasta los confines de la tierra y hasta el fin de los tiempos. Esta es precisamente la visión de la iglesia y de los creyentes que David Jang, a la luz del libro de Hechos, predica y anhela.

하나님의 예정과 선택 – 장재형목사

하나님의 예정과 선택에 대한 장재형 목사의 통찰

장재형 목사는 사도행전 27장을 강해하면서, 인간의 삶이 하나님의 예정 안에서 펼쳐지는 귀한 여정임을 강조한다. 그가 말하는 ‘예정’이란 단순히 인간의 미래가 기계적으로 미리 정해져 있다는 의미가 아니다. 오히려 하나님께서 인간 개개인을 향한 선하고 자애로운 뜻을 가지고 계시며, 그 뜻을 따라 사람을 부르고 인도하신다는 사실을 일깨우는 것이다. 장재형 목사는 이 과정을 “하나님이 인간을 선택하시고, 그 선택을 통해 사람을 구별하셔서 목적이 있는 길로 이끄신다”라고 말한다. 구원에 이르는 길은 우연히 마련된 기회가 아니라, 하나님이 세상 창조 전부터 계획하신 깊은 섭리의 결과라는 것이다.

그가 늘 강조하는 바는, 이러한 예정 사상이 결코 인간의 자유를 부정하거나 인간을 수동적으로 만드는 것이 아니라는 점이다. 오히려 하나님께서 창조하신 사람은 그분과의 인격적 관계 안에서 부름받았으며, 각 사람이 가진 독특한 재능과 특성을 통해 하나님이 정하신 뜻에 참여하게 된다는 것이다. 그래서 장재형 목사는 사도 바울처럼, 하나님이 주시는 사명을 인간적인 두려움이나 무지로 인해 외면하면 결국에는 더 큰 환난에 부딪힐 수밖에 없음을 설명한다. 하나님은 분명히 바울을 선택하셨고, 바울이 로마에까지 가서 복음을 증거해야 한다고 작정하셨다. 그 과정에서 바울이 항해 중 광풍을 만나고 파선을 경험하지만, 결국 하나님의 구원의 계획은 실패하지 않고 성취된다. 이처럼 하나님의 예정에는 인간의 실수나 연약함을 넘어서는 절대적인 보존과 인도가 포함되어 있다.

장재형 목사가 말하는 예정과 선택의 핵심은 ‘목적’과 ‘사랑’이다. 인간을 맹목적으로 끌고 가거나, 억지로 어떤 길에 몰아넣는 신적 전능이 아니라, 한 사람 한 사람을 귀하게 여기시고, 각각의 삶에 깊은 의미를 부여하시는 하나님의 사랑이 그 바탕이 된다는 것이다. 사도행전 27장에 등장하는 276명이라는 구체적 숫자처럼, 하나님은 자신이 맡기신 구원의 서사를 놀랍게 보존하신다. 바울은 그 배 안에서 단지 ‘죄수’ 신분이었지만, 사실은 하나님의 놀라운 뜻을 이루는 데 핵심 열쇠가 되는 존재였다. 배에는 백부장 율리오가 있고, 다양한 군인과 선원, 그리고 다른 죄수들이 함께 있었다. 그 거대한 인간 군상의 한복판에서 바울은 하나님의 말씀을 듣고, 그 말씀을 선포함으로써 결국 모든 사람을 살리는 주역이 된다.

장재형 목사는 이 사실을 통해 “하나님의 예정과 선택은 한 개인만을 위한 것이 아니라 공동체 전체를 향한 구원의 의도를 포함한다”라고 설명한다. 바울이 탑승했던 배가 광풍을 만나 난파 위기를 겪을 때, 바울이 받은 하나님의 말씀은 바울 혼자만 살게 해 주는 약속이 아니었다. 오히려 “너와 함께 하는 이들을 모두 살려 주겠다”라는 공동체적 구원의 약속이었다. 이 말씀이 가리키는 의미는, 오늘날 교회와 선교지에서도 동일하게 적용될 수 있다는 것이다. 즉, 하나님이 부르신 특정인이 있을 때, 그 주변에 있는 사람들까지도 함께 구원의 은혜로 초청될 수 있음을 시사한다. 교회라는 공동체 안에서는 한 사람의 믿음이 다른 이들에게도 영향을 주어, 더욱 넓은 구원의 장이 열릴 수 있다. 사도행전 16장에서 빌립보 간수가 바울과 실라를 통해 구원을 얻고, 그의 온 집안이 함께 주님을 믿게 된 장면 역시 이러한 원리를 잘 보여준다.

이렇게 장재형 목사는 사도행전의 기록을 통해 하나님의 신실한 통치를 신앙인들에게 재차 각인시킨다. 우리의 삶이 때로는 광풍을 만난 배처럼 흔들리고, 각종 위험과 고난 속에 던져진다 해도, 궁극적으로 하나님의 선택과 예정 안에서 길을 찾고 소망을 가질 수 있다는 것이다. 인생의 길을 걸어가다 보면 문이 닫히고, 길이 끊어지는 듯 보일 때가 분명히 있다. 그러나 그 순간에도 하나님은 다르게 활짝 열리는 또 다른 길을 통해 우리를 인도하신다. 그러니 절망하지 말라는 것이다. 장재형 목사는 이를 “절망이란 믿음의 사람에게는 있을 수 없는 단어”라고 표현하기도 한다. 하나님의 섭리는 언제나 선하고, 그분은 절망 가운데서도 삶을 반전시키는 소망을 허락하시는 분임을 강조한다.

그래서 결국 장재형 목사의 ‘예정과 선택’ 신학은 ‘하나님이 나를 통해 이루실 선한 계획이 틀림없이 있다’라는 신뢰에서 출발한다. 이는 영적으로나 정신적으로 크게 힘이 되는 믿음이다. 우리가 어떤 자리나 상황에 놓여 있든, 거기에 분명 하나님의 목적과 계시가 숨겨져 있다는 것이다. 바울이 로마로 가는 길에 만난 수많은 역경이 결코 우연이 아니었듯이, 오늘날 우리가 맞닥뜨리는 난관 역시 하나님을 깊이 신뢰하고 바라볼 때, 결국엔 구원의 사건이 되어 돌아올 수 있다.

장재형 목사는 이러한 인식이 개인의 경건과 공동체적 삶, 그리고 선교 현장에서 모두 중요한 모티브가 된다고 가르친다. 교회나 학교, 다양한 선교지가 나아가는 길도 인간적인 관점에서 보면 이해하기 힘든 방향으로 가거나, 예상치 못한 장소에서 기회를 찾게 되는 경우가 많다. 그러나 그때마다 “하나님이 선택하신 이들이 한데 모여 기도하고 기록하며 역사하는 공동체가 되어 간다면, 어떤 문이 닫혀도 다른 문을 열어 주시는 하나님의 섭리를 체험하게 될 것”이라는 메시지를 전한다. 불가능해 보이는 상황도 하나님이 열어 놓으신 때와 장소에 이르면 오히려 크게 번영하고, 아름다운 열매가 맺히는 경우를 셀 수 없이 보게 된다는 것이다. 이처럼 예정과 선택에 대한 장재형 목사의 강조점은 인생의 길을 오직 신앙으로 받아들이고, 어떤 방식으로든 하나님의 계획이 완성된다는 점에 대한 확고한 믿음에서 비롯된다.

인생의 항해와 광풍 속에서의 믿음: 사도행전 27장의 적용

장재형 목사가 사도행전 27장을 통해 전하고자 하는 또 다른 핵심 메시지는, 광풍 속에서도 자신의 위치를 지키며 하나님의 뜻을 실천하는 믿음의 자세이다. 바울이 로마로 향하는 배를 타는 장면은 그냥 지나쳐 보기엔 너무도 파란만장하다. 바울은 죄수의 신분으로 백부장 율리오에게 맡겨져 있고, 배에는 로마에 압송되는 여러 죄수와 군인, 선원, 선장 그리고 상인들이 타고 있었다. 이들이 탄 배는 곡물을 실어 나르는 상선이었으며, 바람의 흐름과 날씨에 따라 노선이 바뀌고 속도가 좌우되는 범선이었다. 당시 지중해의 항해는 계절풍과 해류에 크게 의존했기에, 사도행전 27장에 담긴 기록은 굉장히 구체적이다. 이는 “의사 누가”가 실제로 체험한 항해의 세부 사항을 충실하게 적었기 때문이기도 하다.

장재형 목사는 이 기록의 디테일을 높이 평가하면서, “누가처럼 신실한 기록자가 되라”라고 역설한다. 목회나 선교 사역을 할 때, 사소해 보이는 정보와 경험도 하나님 안에서 결코 사소하지 않으며, 그것이 후대에게 믿음의 유산이 된다는 것이다. 예컨대 276명이라는 배 탑승 인원, 어디에서 어느 항구로 이동했는지, 몇 날 며칠 바람이 거슬렀고, 어떤 종류의 바람이 불었는지 등의 세부 사항은 믿음의 역사와 하나님의 구원 섭리를 가시적으로 보여 준다. 장재형 목사는 “인간이 작성하는 기록”이 곧 하나님이 역사하신 흔적이자, 훗날 다른 이들을 살리는 통로가 될 수 있다고 강조한다. 선교지에서의 여정, 교회 개척의 과정, 일상에서 경험하는 크고 작은 은혜를 충실히 남길 때, 그것을 읽는 많은 사람들이 영적 도전을 받고, 믿음의 성장을 경험하게 된다.

그가 사도행전 27장을 특별히 주목하는 이유는, 이 항해가 우리 인생 자체를 상징하기 때문이다. 배가 순풍을 만나 순조롭게 가는 시기도 있지만, 강풍과 거친 파도를 만나 멀미를 하고, 배가 난파 직전까지 가기도 하는 등, 모든 과정을 고스란히 거치게 된다. 바울은 경험 많은 선장이나 선원보다도, 이 항해가 위험하며 큰 손실과 생명의 위협을 가져올 수 있음을 미리 예견했다. 이처럼 믿음의 사람은 단순히 초자연적인 예언만을 말하는 것이 아니라, 현장을 알고 그 환경을 숙지할 정도로 적극적이고 현명한 눈을 가져야 한다는 메시지가 담겨 있다. 선교 현장에선 그 문화와 지형, 사람들의 언어와 풍습을 제대로 알아야 하며, 실제적인 필요를 어떻게 채울지에 대한 계획이 필요하다. 장재형 목사는 “진정한 선교는 바울처럼 그 땅과 그 사람들을 깊이 사랑하고 이해하려는 데서부터 시작한다”라고 말한다. 그래서 그는 “바울은 선장의 지식이 부족하다고 말한 것이 아니라, 하나님이 주시는 통찰과 실제적 경험을 통해 알게 된 위험을 미리 알렸던 것”이라고 풀이한다.

하지만 사람들은 때로 선장과 선주, 그리고 배를 움직이는 ‘전문가들의 말’만을 신뢰하고, 믿음의 사람의 조언을 듣지 않는다. 결국 바울이 말한 대로 배는 광풍에 휩쓸리고, 열나흘 넘게 아무것도 먹지 못할 정도로 극도의 공포와 혼란에 휩싸인다. 이 상황에서 바울의 역할은 극적으로 부각된다. 그가 “이제는 안심하라”고 담대히 선포하며, “하나님의 사자가 어젯밤 내 곁에 서서 ‘바울아 두려워하지 말라. 너는 반드시 가이사 앞에 서야 하겠고, 또 너와 함께 항해하는 모든 사람을 하나님이 네게 주셨다’고 했다”라고 말함으로써, 276명 전원이 구원을 얻게 될 것임을 알려 준다. 장재형 목사는 이 장면을 통해 “한 사람의 믿음이 얼마나 많은 사람을 살리는지”를 보여 준다고 해석한다. 바울의 말 한마디가 갑작스러운 광풍에서 흔들리던 사람들의 마음을 붙잡았고, 그들을 다시금 살아 볼 용기와 희망으로 이끌었다. 실제로 바울은 이들에게 음식을 권하며, “머리카락 하나도 잃지 않을 것이다”라고 선언한다. 그 믿음이 결국 모두에게 영향을 미쳐, 난파를 당했음에도 단 한 사람의 생명도 잃지 않는 구원을 경험하게 된다.

장재형 목사는 여기서 “우리 역시 인생의 배가 흔들리고, 인생의 광풍이 몰아칠 때, 믿음의 음성을 낼 수 있어야 한다”고 권면한다. 그 믿음은 결코 공허한 낙관이나 근거 없는 확신이 아니라, ‘하나님의 말씀’에 근거한 확신이다. 하나님이 바울에게 “네가 반드시 로마에서 증거해야 한다”고 말씀하셨기에, 그는 “분명히 배는 파손될지 몰라도 생명만은 잃지 않는다”고 선언할 수 있었다. 한편, 이로써 사도행전 27장에 묘사된 엄청난 항해의 위기가 결국 하나님의 섭리를 드러내는 도구가 된다. 난파 후 몰타(멜리데) 섬에 상륙해, 바울은 또 다른 이적과 복음 증거의 기회를 맞이하게 되기 때문이다. 장재형 목사는 “우리가 만나는 인생의 위기는 두려움이나 좌절의 끝이 아니라, 오히려 새로운 사역과 은혜의 시작점이 될 수 있다”고 강조한다.

이처럼 인생의 항해를 계속하다 보면, 갑작스런 광풍이 불어와 현재까지의 계획이나 물질적 기반을 산산조각 내 버릴 때가 있다. 장재형 목사는 “그때야말로 믿음이 빛을 발해야 할 순간”이라고 말한다. 아무리 큰 시련을 만나도 하나님의 약속이 있으니, 결국 하나님은 우리를 구원하시고, 우리가 감당해야 할 사역의 길을 새롭게 열어 주신다는 확신을 놓치지 않아야 한다는 것이다. 그 확신이 없다면, 파도에 휩쓸려 망연자실할 뿐이지만, 그 확신이 있다면 한마디 말이나 기도의 힘만으로도 주변 사람들에게 커다란 소망을 심어 줄 수 있다.

장재형 목사는 이러한 광풍 체험을 ‘배멀미 같은 인생의 통과의례’로 비유하기도 한다. 모든 것을 다 포기하고 싶을 만큼 괴로워진 상황에서도, 조금만 참고 기다리면 분명히 ‘육지의 해안’이 보이게 되고, 언젠가 항구에 도달하게 되는 순간이 온다는 것이다. 배멀미 경험이 있는 사람은 알겠지만, 항구 불빛이 보이는 순간 엄청난 안도감과 해방감을 맛보게 된다. 그것이 믿음의 항해에서도 똑같이 적용된다고 한다. 비록 우리가 모진 고통을 겪을지라도, 하나님이 거두실 그 육지의 시간은 결코 늦지 않게 임한다. 우리가 해야 할 일은 계속해서 기도하고 서로를 격려하며, 중심을 지키는 것이다. 바울이 난파 직전까지 몰린 선원들과 죄수들을 향해 “기운 내라, 이제 식사를 하자, 하나님이 우리를 살려 주신다”고 선포했던 것처럼, 현대 교회도 고통과 절망 속에 있는 사람들에게 살아 낼 힘을 주어야 한다고 장재형 목사는 역설한다. 실제 사역에서 그는 어려운 사정을 지닌 이들, 가난과 병으로 고생하는 이들, 심리적인 두려움에 갇힌 이들과 함께 시간을 보내며, 사도행전 27장의 바울 같은 역할을 감당하라고 종종 이야기한다.

결국 이런 광풍 속 믿음은 교회와 선교 공동체에 활력을 불어넣는다. 사역자와 성도가 함께 마음을 합해 기도하고, 하나님이 “우리가 반드시 목적지에 이르리라”고 약속하심을 믿어야 한다. 장재형 목사는 “큰 바람과 파도가 있을지라도 하나님의 약속은 흔들리지 않는다”는 사실을 여러 간증과 사역 보고를 통해 전한다. 실제로 교회의 확장이나 선교센터의 건립, 학교의 설립 등은 종종 예산 부족, 행정적 장애, 문화적 충돌 등의 광풍을 만난다. 그러나 진정으로 하나님이 열어 두신 길이라면, 결국에는 길이 열리고, 새로운 부흥이 일어난다는 것이다. “로마로 가기 전에 만난 바다의 광풍”은 어쩌면 선교사들이 해외에서 겪는 숱한 어려움, 가정이나 교회에서 처한 재정적·조직적·영적 난관 등을 상징한다고 볼 수 있다. 그리고 이 모든 위기를 마주했을 때, 믿음의 사람들이 내는 음성이 얼마나 소중하고 결정적인 변화를 가져오는지, 장재형 목사는 사도행전 27장의 이야기를 통해 힘주어 전하고 있다.

기록과 증언: 성령의 역사 전승을 위한 장재형 목사의 제언

장재형 목사는 설교 중에 여러 차례 “기록하라”는 메시지를 반복적으로 강조한다. 사도행전 27장에서 누가가 보여 준 사실적이고도 구체적인 기록 태도는, 결국 2천 년 동안 읽혀 오며 교회와 성도들에게 엄청난 은혜와 깨달음을 주었다. 만약 누가가 이 항해의 디테일을 적지 않았다면, 바울이 로마로 가는 과정에서 어떤 역경과 어떤 방식의 구원이 일어났는지 우리는 결코 알 수 없었을 것이다. 인간적으로 볼 때, 생사를 넘나드는 엄혹한 상황에서 누가가 흔들리는 배 안에서 펜을 들고 세세한 내용을 적었다는 사실 자체가 놀랍다. 장재형 목사는 이러한 기록 활동을 “하나님이 일하시는 역사에 우리 자신을 헌신하는 방법”이라고 부른다.

그는 교회 사역자들이나 선교사들, 평신도 지도자들에게 “오늘의 사건을 기록하라. 여러분이 어디를 방문했고 누구를 만났으며 어떤 은혜를 받았고, 또 어떤 어려움을 겪었는지를 구체적으로 써 내려가라. 그것은 훗날 여러분만의 유산이 아니라, 공동체 전체의 영적 자산이 될 것이다”라고 권면한다. 교회가 다음 세대에 물려줄 가장 소중한 보물은 건물이나 재정이 아니라, 하나님의 살아 계심을 증거하는 ‘성령의 역사’이기 때문이다. 이를 위해 장재형 목사는 다이어리나 전도 일지, 선교 보고서, 사진과 영상 기록 등 다양한 매체를 적극 활용해야 함을 제안한다. 갈수록 디지털 도구가 발달하는 시대에, 기록 자체가 훨씬 쉬워진 것은 물론, 대중과 공유하기도 편리해졌다. 그러나 너무 많은 정보와 분산된 자료 속에서 정작 중요한 신앙의 여정은 흐릿해지지 않는가 하는 우려도 있다. 그렇기에 의도적이고 체계적인 기록 습관이 중요하다는 것이 그의 지론이다.

사실 성경도 기록의 산물이다. 구전이나 입에서 입으로 전해지는 이야기는 쉽게 변형되고 잊혀질 수 있다. 하지만 한 번 정성껏 적힌 기록은 세월이 지나도 본래의 내용을 보존할 수 있게 해 준다. 누가가 바울과 데살로니가 사람 아리스다고 등과 함께 실제 항해를 하며 27장에서 소개하는 스펙터클한 광경들, 그리고 그 속에서 임한 하나님의 음성은, 이후 셀 수 없이 많은 믿음의 독자들에게 힘과 위로가 되었다. 그렇다면 오늘날 교회와 선교지에서도 동일한 방식으로 기록할 때, 앞으로 다가올 수많은 세대가 우리의 기록을 읽고 하나님을 찬양할 수 있다는 논리이다.

장재형 목사는 여러 사역 현장을 돌아보며, 종종 그곳에 “기록의 전통”이 이어지지 못해 선배들이 누렸던 부흥과 은혜가 아쉽게도 후대에게 전달되지 못하는 경우를 안타까워한다. 잘 기록된 아카이브나 문서가 있다면, 새로운 목회자나 사역자가 와서 읽어 보고 “아, 이곳에서 하나님이 이런 놀라운 역사를 행하셨구나” 하고 깨닫게 될 것이고, 그 깨달음은 다시금 믿음을 불러일으켜 공동체를 부흥으로 이끌 수 있다. 그러나 기록이 없으면 선배들이 겪었던 시행착오나 은혜, 역사적 결단들을 되풀이하기 어렵고, 결국 은혜의 유산이 단절될 위험에 처하게 된다. 그래서 그는 “사도행전 27장의 누가가 되어야 한다”라고 비유한다. 누가는 가혹한 상황에서도 기록할 이유를 잃지 않았고, 그 결과 엄청난 간증을 후대 교회에 남길 수 있었다.

이와 더불어 그는 기록이 단지 성공 이야기나 큰 기적만 다루어서는 안 된다고 말한다. 때로 사역 현장에서 겪는 시행착오, 어려움, 인간적 갈등, 경제적 실패 등도 솔직히 담아내야 훗날 다른 이들에게 진짜 도움이 된다. 바울이 항해에서 겪은 일들은 아름다운 승리만은 아니었다. 수십 명이 일제히 배 멀미를 하고, 하물과 배의 기구들을 바다에 던져 버릴 정도로 극한 상황을 경험했다. 하지만 누가는 그것까지도 세세히 적어 주었고, 그 기록을 통해 우리는 우리의 위기 상황과 비교하며, 바울에게 역사하신 하나님이 오늘 우리의 절망 속에서도 역사하신다는 소망을 갖게 되는 것이다. 장재형 목사는 이를 가리켜 “영광과 수치, 기쁨과 슬픔, 성공과 실패까지도 전부 기록하고 나누는 것이 성령의 역사 전승 방식”이라고 정의한다.

현대 교회나 선교사역에서도, 한 사역지가 문을 닫고 임시로 철수해야 하는 상황이 발생할 수 있다. 그렇다고 해서 거기서 일어난 모든 일이 무의미해지는 것은 아니다. 그 현장에서 얼마나 많은 사람에게 복음이 전해졌고, 어떤 점에서 우리가 배워야 할 교훈이 있었는지를 꼼꼼히 기록해 둔다면, 후에 하나님이 다른 문을 열어 주실 때 훨씬 더 효율적이고 건강한 방향으로 사역을 재개할 수 있다. 더 나아가, 한 번 닫힌 문이 시간이 흐른 후 다시 활짝 열리는 모습을 보며, 우리의 기록을 읽은 이들이 “아, 하나님께서 이토록 신실하게 그분의 구원 역사를 이끄시는구나” 하고 감탄하게 되는 순간을 마주할 수도 있다.

장재형 목사는 이런 기록의 가치를 개인의 일상에도 적용시키길 권한다. 누구나 하루를 정리하며 하나님의 섭리에 대해 묵상하고, 오늘 만난 사람, 오늘 본 풍경, 하나님이 허락하신 말씀, 느낀 감사와 찬양 등을 적어 놓으면, 그것이 곧 자기 자신과 하나님을 연결하는 중요한 매개체가 된다. 우리의 영혼에 찾아오시는 성령의 감동은 때로 짧은 한 줄로도 충분히 표현될 수 있고, 때로는 길게 써 내려가야 하는 깊은 고백이 될 수도 있다. 그 어떤 형태이든, 기록으로 남길 때 그 감동이 사라지지 않고 오래 간다. 그리고 훗날 다시 읽었을 때, 그때 그 고통 속에서 어떻게 하나님이 일하셨는지, 내가 얼마나 연약했는지, 또 어떻게 회복되고 성장했는지를 되돌아보며 새로운 감사와 찬양을 올려드릴 수 있다.

나아가 장재형 목사는 기록과 증언이 가지는 ‘선교적 파급력’을 강조한다. 우리가 단지 종이에 펜으로 쓰는 것이 아니라, 때로는 영상이나 SNS, 사진 전시 등 다양한 형태로 널리 전할 수 있는 시대가 되었다. 누가가 기록한 사도행전 27장의 이야기가 2천 년 뒤에도 전 세계 교회에서 읽혀지고 설교되고 묵상되듯, 오늘 우리의 기록 또한 미래에 수많은 사람을 살리는 도구가 될 수 있다. 바울이 광풍 속에서도 확신에 찬 목소리로 “두려워 말라, 하나님이 너와 함께 하는 모든 사람을 살려 주시겠다고 했다”라고 외쳤듯, 지금 이 시대에도 동일하게 불안과 두려움에 사로잡힌 이들에게 복음의 메시지를 전달할 통로가 바로 우리 각자의 기록이라는 것이다.

장재형 목사는 세계 여러 지역의 사역 현장을 예로 든다. 어떤 지역은 정세가 불안하여 사역자들이 금방 추방당하기도 하고, 어떤 곳은 경제적으로 어려워 한 달 뒤 운영조차 불투명하기도 하다. 그러나 그 한 달간의 짧은 사역 내역이 꼼꼼히 기록으로 남는다면, 후에 같은 지역에 사역자가 다시 들어가게 되었을 때, 그 기록을 토대로 훨씬 효과적이고 안전한 복음 전파 전략을 세울 수 있다. 그리고 무엇보다도 그 기록을 읽는 사람은, 앞서 사역했던 이들이 남긴 눈물과 기도, 고난과 하나님의 은혜를 생생하게 느끼게 되어, 사역에 대한 사명감과 열정을 이어받게 된다.

결국 장재형 목사가 말하는 ‘기록과 증언의 필요성’은 단순한 정보 축적이 아니라, “성령의 역사를 전승하는” 핵심 수단이라는 점에 있다. 성경도, 교회사의 위대한 부흥 운동도, 선교사의 일기나 보고서도, 모두 그 시대에 살았던 이들이 어떻게 하나님을 만났고 어떻게 하나님의 말씀에 순종했으며, 어떤 기적과 은혜를 체험했는지 적어 둔 기록들이다. 우리가 그것을 읽고 배우며, 동일한 하나님이 오늘 우리에게도 역사하신다는 사실을 발견하게 되는 것이다.

장재형 목사는 궁극적으로 이 모든 과정을 통해 “우리가 바울처럼, 또 누가처럼 살기를” 요청한다. 인생의 항해가 결코 평탄치 않고, 때로는 배가 난파당할 것 같은 바람과 파도 속에 던져질지라도, 하나님의 예정과 선택을 굳게 믿으며, 그분의 말씀에 근거한 담대한 소망의 메시지를 전해야 한다. 그리고 그 모든 과정을 꼼꼼히 기록함으로써, 훗날 우리 공동체와 다음 세대가 그 기록을 읽고 다시금 힘을 얻을 수 있게 해야 한다. 광풍이 몰아쳐서 모든 사람이 좌절하고 있을 때, 바울 한 사람의 말과 행동이 276명의 생명을 지켜 냈듯이, 이 시대에도 믿음의 한 사람이 내는 음성이 수많은 사람을 절망에서 일으켜 세울 수 있다.

그러한 면에서, 장재형 목사가 강조하는 “하나님의 예정과 선택”은 인간 한 사람 한 사람이 얼마나 중요한지를 다시금 환기시켜 준다. 결코 나의 삶이 사소하거나 남의 삶보다 하찮지 않으며, 오히려 “한 사람의 기록과 증언”이 공동체 전체, 나아가 전 세계와 후대의 교회를 움직일 수도 있다는 것이다. 그리고 “인생의 항해와 광풍 속에서의 믿음”은, 그 자체로 모든 인간이 겪는 보편적 체험이기에, 바울의 이야기가 언제나 오늘날 독자들에게 심오한 깨달음을 주는 근거가 된다. 마찬가지로 우리가 실시간으로 겪는 어려움과 사투의 기록도, 훗날 누군가에게는 새로운 희망의 서사가 될 수 있다.

정리하자면, 장재형 목사는 사도행전 27장을 근거로 세 가지를 특별히 강조한다. 첫째, 우리의 삶은 하나님의 예정과 선택 속에 있으며, 이는 인간을 향한 하나님의 사랑과 목적이 분명히 드러난다는 것이다. 둘째, 인생의 항해가 광풍에 부딪힐 때야말로 믿음의 힘이 절실히 요구되며, 바울처럼 담대히 하나님의 약속을 붙잡고 주변 사람들을 살려야 한다는 것이다. 셋째, 기록과 증언을 통해 성령의 역사가 전승될 수 있으므로, 누가의 모범을 따라 어떤 상황에서도 포기하지 말고 부지런히 기록해야 한다고 주장한다. 바로 이 세 가지가 장재형 목사가 사도행전 27장의 이야기를 통해 교회와 성도들에게 거듭 전하는 핵심 가르침이다. 이는 오늘날에도 너무나 유효한 메시지다. 우리 각자가 바울이 되고, 우리 각자가 누가가 되어 “하나님의 구원 역사를 끊임없이 증언”하는 것, 그것이 믿음 공동체의 본질적인 사명이라는 것이다.

이렇게 장재형 목사는 과거 사도행전의 사건과 현대 교회의 문제들을 연결함으로써, 하나님의 말씀과 성령의 역사가 특정 시대나 특정 현장에 국한되지 않음을 역설한다. 바울이 로마로 가는 길의 마지막 고비였던 광풍은 결코 한 사람의 실패담이나 고생담으로 끝나지 않았다. 오히려 모든 사람을 살리는 신비로운 구원의 자리가 되었고, 이후 바울이 로마에서 복음을 전할 수 있는 토대가 되었다. 그 과정의 구체적인 디테일을 기록한 누가의 수고 덕분에, 우리는 2천 년이 지난 지금도 그 현장을 생생하게 읽으며, 동일하신 하나님을 찬양할 수 있다. 오늘날도 세계 곳곳에서 장재형 목사가 거듭 말하는 것처럼, 닫힌 문이 다시 열리고, 절망이 소망으로 뒤바뀌며, 광풍이 복음 전파의 길이 되는 기적을 체험하는 이들이 무수히 많다.

결국 가장 중요한 것은, 이 모든 일의 근원이 ‘하나님께서 이미 예정하고 선택하셨다’는 믿음과, ‘인생의 어떤 광풍 앞에서도 변치 않는 믿음의 자세’ 그리고 ‘그 과정을 세세히 기록하여 후대와 나누는 전승의 사명’이라 할 수 있다. 장재형 목사는 이 세 가지를 통해 참된 교회 공동체가 세워지고, 선교의 역사가 지속적으로 확장되며, 성도 개개인의 신앙이 깊어질 수 있음을 가르친다. 어느 시대든, 어느 공동체든, 사도행전 27장이라는 본문에서 만나는 하나님의 살아 계심은 오늘날도 동일하게 임하고 있다. 바울의 담대한 선포처럼 “두려워 말라”는 말씀이 우리 모두의 심장에 새겨질 때, 믿음의 공동체는 흔들리지 않고 주어진 길을 온전히 걸어갈 수 있다. 그렇게 하나님의 예정과 선택, 그리고 그의 신실한 인도하심을 맛본 이들은 흔들리는 세상 속에서도 소망을 품고 살아갈 수 있으며, 결국 모두가 구원을 얻는 감격을 함께 누리게 되는 것이다. 그리고 그 이야기를 기록으로 남겨서, 세상 끝날까지 이어지는 성령의 위대한 역사에 동참하는 것이다. 이것이 곧 장재형 목사가 꿈꾸고 설파해 온, 살아 있는 사도행전적 교회와 성도들의 모습이다.

Le discipulat – Pasteur David Jang


Introduction

Aujourd’hui, au sein de l’Église coréenne, coexistent divers courants théologiques et divers pôles d’emphase spirituelle. Parmi eux, le pasteur David Jang (장다윗목사) considère le « discipulat en Christ » comme l’axe essentiel de la foi personnelle et de l’œuvre communautaire de l’Église, afin que l’Évangile prenne corps dans la vie concrète. Pour lui, le message central de l’Évangile n’est pas un simple savoir intellectuel, mais la réalité profonde qui doit se manifester dans toute l’existence, au travers de la souffrance, de l’action du Saint-Esprit et de l’unité vécue dans la communauté ecclésiale. Il ne voit pas l’Église comme une entité isolée du monde, mais comme une communauté dynamique réalisant le plan de salut de Dieu, et propose des voies concrètes pour que les croyants vivent comme disciples du Christ. Dans cet article, nous présenterons les thèmes majeurs qu’il met en avant – le discipulat, la souffrance, le Saint-Esprit, la communauté de l’Église et l’essence de l’Évangile – afin d’en tirer quelques enseignements et pistes d’application pour la vie de foi.


Contexte et aperçu du ministère de David Jang

Le pasteur David Jang est associé à la mouvance évangélique de l’Église coréenne. Tout en soutenant fermement l’autorité biblique, il cherche activement à répondre aux défis complexes de la société contemporaine. À ses yeux, l’Église ne doit pas se limiter à préserver son culte et sa doctrine, mais doit s’impliquer sur le plan social et manifester l’amour de l’Évangile dans le monde. Pour rendre cela possible, il met en place divers programmes axés sur l’étude de la Parole, les petits groupes, la mission à l’échelle nationale et internationale, ainsi que la formation de disciples. Il exhorte les croyants à ne pas s’enfermer dans l’enceinte de l’Église, mais à incarner l’Évangile dans leur vie quotidienne, convaincu que la communauté doit être un lieu de partage et de soin mutuel.

Fort d’une base académique et théologique solide, il s’emploie à « actualiser » la tradition évangélique pour l’époque moderne. Il reconnaît la Bible comme la Parole de Dieu, enseigne que le sacrifice de Jésus-Christ est l’unique moyen de salut pour l’humanité et cherche à promouvoir une coopération œcuménique, pour peu que l’on se rejoigne sur les fondamentaux de l’Évangile. Dans cette optique, l’Église est invitée à s’unir autour de la vérité essentielle tout en respectant la diversité des traditions et des cultures, ce qui débouche sur des initiatives de coopération locale, de dialogue entre différentes Églises et de soutien envers les plus démunis. Son ministère traduit ainsi sa ferme conviction que l’Évangile doit toucher toutes les catégories de la société.


Les mots-clés du ministère de David Jang

Le thème central chez le pasteur David Jang est le discipulat en Christ. Autour de cette notion gravitent divers thèmes : la souffrance, la présence du Saint-Esprit, la nature et la mission de l’Église, ainsi que l’incarnation de l’Évangile dans la vie de tous les jours. Selon lui, l’Évangile prend sa force lorsqu’il s’exprime par le discipulat, dont la vitalité est entretenue par le Saint-Esprit. La souffrance, pour sa part, est un vecteur de maturation pour le croyant. L’Église devient le lieu où ces disciples s’unissent pour s’encourager mutuellement et accomplir ensemble la volonté de Dieu, tandis que l’Évangile doit imprégner toutes les sphères de la vie et s’étendre au-delà des frontières ecclésiales.


Le discipulat en Christ

Pour David Jang, le discipulat en Christ ne se limite ni à un cadre doctrinal, ni à une idée théologique abstraite, mais constitue un chemin de consécration concrète. Il définit le discipulat comme l’attitude fondamentale de celui qui suit Jésus, renonce à ses propres intérêts et porte sa croix, ce qui ouvre la voie à la croissance spirituelle et à des fruits visibles. Se fondant sur Matthieu 16, où Jésus ordonne de se renier soi-même et de prendre sa croix, il souligne la radicalité de l’appel divin. Il fait également souvent référence à Matthieu 28 (« Allez, faites de toutes les nations des disciples »), qui, selon lui, résume la raison d’être de l’Église.

Pour favoriser l’apprentissage du discipulat, il encourage l’étude quotidienne des Écritures et une vie de prière fervente, afin d’orienter chaque croyant vers une appropriation personnelle de la Parole. Au moyen de petits groupes ou de cellules, il amène la communauté à dépasser une simple foi de surface et à approfondir la communion fraternelle. Il rappelle que le chemin du discipulat est exigeant, mais que c’est en le parcourant collectivement que l’Église peut véritablement se renouveler. Il prévient également contre le danger de réduire ce chemin à un programme de formation ou à un certificat, insistant sur le fait que l’objectif ultime est de refléter peu à peu la nature même de Christ. Un discipulat vivant se déploie dans tous les domaines de la vie de l’Église – des rencontres en petits groupes à la louange, en passant par le service, l’évangélisation et la mission – pour fortifier la cohésion communautaire.

Dans son enseignement, il insiste enfin sur la nécessité d’une solide formation théologique et d’une approche doctrinale équilibrée. Un zèle mal orienté peut dériver vers le légalisme ou la division, qui risqueraient de faire obstacle à la maturité authentique. Il avertit également de l’écueil d’un activisme purement extérieur ou basé sur la performance, soulignant que seule la Parole, animée par la grâce divine, peut motiver sainement le croyant. Selon lui, un discipulat fidèle métamorphose la personne, édifie l’Église et diffuse la lumière de l’Évangile dans le monde.


Souffrance et maturité spirituelle

Le pasteur David Jang enseigne qu’il est inévitable pour le chrétien de connaître la souffrance. De même que la Bible montre que Jésus et les apôtres ont associé gloire et souffrance, il estime que la souffrance fait partie intégrante du chemin de foi. Elle sert, dit-il, à briser l’orgueil humain, à cultiver l’humilité devant Dieu et à entraîner ainsi la personne vers une expérience spirituelle approfondie. Il se réfère souvent à l’Épître de Jacques (chapitre 1), où l’on nous invite à « considérer comme un sujet de joie les diverses épreuves », pour montrer que la souffrance peut conduire à la persévérance et la maturité spirituelle.

Il encourage la communauté à partager les fardeaux de chacun, à prier ensemble et à agir concrètement pour aider les croyants qui traversent des difficultés. Il cite l’exemple de Job, qui, malgré les pertes extrêmes qu’il a subies, n’a pas blasphémé, ainsi que Paul qui, avec son « écharde dans la chair », souligne que la puissance de Dieu s’accomplit dans la faiblesse. Ces figures bibliques acceptent la souffrance comme un « test de la foi » et un « chemin de croissance », aboutissant à une expérience renouvelée de la grâce et de la puissance de Dieu. Il considère ce témoignage comme un défi actuel pour les croyants, mais aussi comme l’occasion d’une intimité plus grande avec le Seigneur.

Il encourage à ne pas voir la souffrance comme un simple malheur à fuir ou comme une punition, mais plutôt à la recevoir comme faisant partie du plan souverain de Dieu, qui nous invite à l’humilité et à la prière. C’est dans cet élan intérieur que le croyant peut se laisser transformer et grandir en maturité. Il insiste sur le fait que l’Église ne doit pas négliger ceux qui souffrent : l’entraide, la prière et une assistance concrète sont essentielles pour faire de la communauté un seul corps uni. Il affirme que, pour bâtir une telle culture du service, chaque congrégation doit accorder une attention particulière aux personnes marginalisées et vulnérables, en les aidant matériellement et en soutenant des projets de diaconie et d’action sociale.


La présence et l’action du Saint-Esprit

Selon David Jang, le Saint-Esprit est la « source d’énergie » qui donne tout son sens au discipulat. Il ne s’agit pas simplement d’un concept doctrinal, mais de la force qui anime et dynamise la vie de foi, tant pour l’individu que pour la communauté. Comme le décrit le récit de la Pentecôte (Actes 2), qui marque la naissance de l’Église primitive, il juge indispensable que l’Église actuelle recherche et accueille la puissance de l’Esprit pour vivre un renouveau authentique.

En citant Galates 5, où Paul exhorte à « marcher selon l’Esprit », il souligne que la plénitude du Saint-Esprit n’est pas qu’une explosion émotionnelle lors de rassemblements, mais un appel à la sainteté dans la vie de tous les jours, porté par la sagesse et la force que l’Esprit communique. Dans Éphésiens 5, « Soyez remplis de l’Esprit », il rappelle que cet état d’« être rempli » se manifeste concrètement par la reconnaissance, la louange, le service motivé par l’amour et la production des fruits de l’Esprit (Galates 5) : amour, joie, paix, patience, bonté, bienveillance, fidélité, douceur et maîtrise de soi.

Il mentionne également la diversité des dons spirituels, soulignée par 1 Corinthiens 12, tout en affirmant que leur finalité doit rester l’édification de l’Église et l’annonce de l’Évangile. Il met en garde contre le fait de valoriser excessivement un don au détriment des autres, ou de mépriser la valeur de certains charismes moins visibles. Il insiste plutôt sur le fait que l’Esprit agit pour unir les croyants et élargir leur horizon missionnaire, de sorte que l’on ne sépare pas l’expérience personnelle de la communion ecclésiale et de l’envoi dans le monde.


L’Église, communauté et mission

Pour David Jang, l’Église est la communauté où se concrétise le plan de salut divin. Le Christ en est la tête, et les croyants forment un corps organique appelé à coopérer pour instaurer le Royaume de Dieu. S’appuyant sur Éphésiens 1 et 4 ainsi que sur Actes 2, il montre qu’une Église où règnent l’amour fraternel, le partage, la prière, l’étude des Écritures et le zèle pour la proclamation de l’Évangile peut devenir le théâtre d’une action puissante de la grâce de Dieu.

À ses yeux, l’Église ne devrait pas être une enclave isolée, mais, à l’image de la première communauté chrétienne, se tourner vers la société pour manifester la générosité et l’amour en actes. De nos jours, cela signifie s’engager dans le service social, l’assistance aux personnes en difficulté et la mise en pratique des valeurs évangéliques dans la sphère publique. Ainsi, l’Église dépasse sa condition de simple lieu de rassemblement pour se muer en une communauté « en mouvement », appelée à étendre le projet rédempteur de Dieu dans le monde.

Dans Éphésiens 4, Paul mentionne plusieurs ministères (apôtres, prophètes, évangélistes, pasteurs et docteurs). Le pasteur Jang juge primordial de discerner et de développer ces vocations pour que l’Église puisse former ses fidèles au service et à l’évangélisation de manière cohérente. Il encourage également les responsables à valoriser et coordonner les multiples talents présents dans l’Église, tout en prévenant le danger que représentent les divisions ou les factions internes.

Il insiste par ailleurs sur l’importance de l’unité entre Églises. Dans un contexte où l’on observe parfois des rivalités ou des divisions entre confessions, il préconise la recherche de l’unité autour de l’Évangile, afin de répondre plus efficacement aux besoins de la société et de remplir la mission d’évangélisation. Selon lui, cette coopération dans la prière et l’action permet de mieux accomplir le mandat confié par Jésus d’annoncer la Bonne Nouvelle jusqu’aux extrémités de la terre.


L’essence de l’Évangile et la vie pratique

Le pasteur David Jang souligne constamment que l’Évangile est la bonne nouvelle du salut, centré sur la croix et la résurrection de Jésus-Christ. L’humanité, vouée à la mort éternelle à cause du péché, trouve dans le sacrifice de Jésus la rémission et la vie, puisque Christ a vaincu la mort par sa résurrection. Il insiste toutefois sur le fait que la foi ne peut pas se réduire à une conviction intellectuelle ou doctrinale : elle doit se concrétiser dans la vie de tous les jours.

Citant Jacques 2 (« la foi sans les œuvres est morte »), il indique que confesser l’Évangile revient à adopter une nouvelle manière de vivre, guidée par les valeurs du Royaume de Dieu plutôt que par celles du monde : amour du prochain, justice, partage, pardon. Pour lui, cette vie transformée doit se manifester aussi bien à l’intérieur de l’Église qu’au-dehors, où chaque croyant est appelé à être « sel et lumière ».

De plus, il estime que l’Évangile exerce une influence transformatrice sur la société. Quand l’Église agit sous l’inspiration de l’Évangile, en combattant l’injustice et en prenant soin des plus faibles, elle devient un signe tangible de l’amour et de la justice de Dieu. Il explique que l’Évangile n’est pas seulement une mission universelle à transmettre à tous les peuples, mais aussi une réalité qui s’enracine dans le quotidien de chacun. Loin d’être un « club fermé » de personnes sauvées, l’Église est ainsi appelée à devenir les « mains et les pieds » de Dieu à l’œuvre dans le monde.


Conclusion générale : sur la voie du discipulat

À travers tout l’enseignement de David Jang, c’est le discipulat qui revient sans cesse comme le thème directeur. Il se présente comme un fil rouge qui parcourt l’intégralité de la vie chrétienne : il incarne le cœur de l’Évangile, mobilise la puissance du Saint-Esprit, éclaire la valeur de la souffrance et réunit la communauté ecclésiale dans son témoignage. Selon lui, chaque chrétien doit répondre à l’appel de Jésus : « Allez et faites de toutes les nations des disciples », qui exprime la finalité la plus profonde de l’Église.

Il reconnaît que le chemin du discipulat est exigeant, mais il rappelle également que tout croyant y est convié, faute de quoi il n’accédera pas à la maturité spirituelle ni à la croissance communautaire. Porter sa croix n’a rien d’aisé, mais la présence du Saint-Esprit et l’appui de la communauté peuvent transformer cette épreuve en un fruit abondant. Dès lors, le discipulat ne saurait être une démarche solitaire : il s’épanouit dans le cadre de l’Église, pour s’ouvrir ensuite au monde et proclamer l’Évangile.


Apport théologique et pertinence pour l’Église d’aujourd’hui

Le message du pasteur David Jang constitue une réponse cohérente aux grands défis de la modernité : sécularisation, individualisme, consumérisme, etc. En articulant harmonieusement le discipulat, la souffrance, le Saint-Esprit, la vie communautaire et l’application concrète de l’Évangile, il offre à l’Église une direction permettant de rester fidèle à son appel fondamental. Il la replace au cœur de sa vocation à incarner le Règne de Dieu.

Cette vision dépasse d’ailleurs le cadre de l’Église coréenne et rejoint des préoccupations universelles dans le monde chrétien, où s’opère un retour à une foi centrée sur l’Évangile et la formation de disciples, plutôt que sur les seules programmations ou événements. Dans cette perspective, le modèle de discipulat que propose David Jang – à la fois ancré dans la doctrine et soucieux d’actions tangibles – peut inspirer ceux qui cherchent à conjuguer intériorité spirituelle et engagement au service du prochain.


Passages bibliques et illustrations plus spécifiques

Pour illustrer le discipulat, le pasteur David Jang cite fréquemment Matthieu 28 (« Faites de toutes les nations des disciples »), qu’il considère comme le mandat inaliénable de l’Église. Il se réfère aussi souvent à Matthieu 16, où Jésus exhorte chacun à se renier lui-même et à porter sa croix, soulignant ainsi que ce chemin implique un sacrifice personnel.

Concernant la souffrance et la persévérance, il aime évoquer l’histoire de Job ainsi que le thème de l’« écharde dans la chair » chez Paul. Job a tout perdu mais n’a jamais maudit Dieu, et Paul voit dans sa faiblesse l’occasion pour Dieu de faire éclater sa puissance. Pour lui, ce sont deux exemples marquants de foi qui reçoit la souffrance comme un moyen de croissance spirituelle et de communion plus profonde avec Dieu.

S’agissant de la vie communautaire et de l’œuvre du Saint-Esprit, il évoque avec insistance Actes 2, où la Pentecôte marque la descente de l’Esprit sur les croyants, leur permettant de prêcher dans diverses langues et entraînant une expansion rapide de l’Église primitive. Il rappelle que ce réveil ne reposait pas uniquement sur un prodige spirituel spectaculaire, mais aussi sur la communion (koinonia) faite de partage, de prière et d’amour fraternel.


Propositions concrètes et applications pratiques

Au niveau de la vie personnelle, le pasteur David Jang invite les croyants à consacrer un temps quotidien à la lecture et la méditation de la Parole, cherchant comment appliquer concrètement les Écritures à leur propre situation. Il recommande également la prière d’intercession, élargie au-delà de nos besoins personnels pour inclure l’Église, la société et le monde.

Sur le plan ecclésial, il encourage la création de petits groupes ou cellules, un espace favorable au partage des expériences spirituelles et des réalités quotidiennes, où l’on peut prier ensemble et s’entraider de manière directe. Il conseille aussi une formation modulée selon les tranches d’âge et les catégories de fidèles (nouveaux convertis, jeunes, actifs, etc.), afin de nourrir chacun dans la voie du discipulat. De plus, il soutient le développement de missions et de projets concrets de service, qui permettent de mettre en pratique les valeurs de l’Évangile et d’expérimenter une foi incarnée.

Quant à la formation des responsables, il insiste pour que l’Église n’investisse pas seulement dans le leadership pastoral, mais aussi dans l’encadrement de laïcs capables de prendre des responsabilités, d’aider les membres de l’Église et de rayonner dans la société. Il prône pour cela la mise en place de retraites, de stages ou de programmes de mentorat, afin que ces responsables soient affermis par la Parole et la prière. Selon lui, c’est de cette manière que la communauté se dote d’un socle humain solide pour déployer le discipulat dans sa réalité.


Conclusion : Invitation à vivre un Évangile incarné

David Jang conçoit l’Évangile non comme un simple énoncé théologique, mais comme une réalité transformante, et il appelle « discipulat » ce cheminement vers la mise en pratique. Il affirme que, lorsque la communauté vit sous l’impulsion du Saint-Esprit, même la souffrance peut devenir un tremplin vers la maturité spirituelle. Le discipulat fait alors grandir simultanément le croyant et l’Église, et permet d’éclairer le monde par le témoignage de l’Évangile.

Il évoque souvent l’élan de l’Église primitive, convaincu que, si celle-ci a su exercer une influence profonde sur son environnement, c’est qu’elle était ancrée dans la prière, la Parole et l’amour fraternel. Il affirme que cette dynamique reste à portée de main aujourd’hui, non pas grâce à des programmes grandioses, mais en retrouvant la vie communautaire basée sur la grâce, la prière et l’amour du prochain. Pour lui, c’est la forme concrète que prend l’obéissance au commandement de Jésus : « Allez, faites de toutes les nations des disciples », un appel qui se réalise chaque jour par la foi en Christ ressuscité.


Note sur les sources et la méthode de compilation

Le présent texte synthétise les principaux enseignements et prédications du pasteur David Jang, ainsi que les spécificités de la tradition évangélique coréenne, en s’appuyant sur les thèmes du discipulat, de la souffrance, du Saint-Esprit, de la communauté ecclésiale et de la centralité de l’Évangile. Les extraits bibliques sont majoritairement tirés d’éditions proches de la 개역개정판, parfois reformulées pour des raisons de fluidité. En pratique, ces principes se déclinent de multiples façons selon le contexte local. Pour une compréhension plus directe, il convient de consulter les ouvrages, prédications ou supports vidéo de David Jang.

Toutes les propositions restent des orientations de base, et chaque Église ou croyant est libre de les adapter à sa situation. Le discipulat peut prendre des formes variées, mais en son essence, il demeure cet appel à placer Jésus-Christ au centre de la vie et à se laisser transformer progressivement par sa grâce.